熱砂の中へと訪れた

 回収する方も、組織上層部はできるだけ人的損耗を減らしたいので外注にするか非正規雇用を向かわせる。
 今回はその『怖い』方を相手に金を回収しに行くのだ。
 最終目標は、債権者の内臓。どうせまともに金は払わない。払う金も持っていない。回収に来た人間を殺す気でいる。最初から話しは通用しない。
 今回はそう云う類の仕事だった。
 夜。
 左手首のロレックス・デイデイトが正しければ今は午後10時。
 これだけ気温が高いと、日が暮れても地表が熱せられているのでなかなか涼しくならない。ヒートアイランド現象が叫ばれて久しい。
 こんな時に山間部へ行けば涼しい夜風の恩恵に与れるのだが、残念なことに、埠頭の桟橋に係留されている大型の砂利運搬船だ。
 廃船ではなく、ちゃんと船籍が残っている船だ。
 国外へ逃げるつもりの船ではなく、ただの住処になっている。
 船の中なら作業区画以外はエアコンが効いている場合が多い。それに電気も水道も使える。
 隠れ住む人間からすれば電気ガス水道通信は有り難い。今の時期ではエアコンは贅沢品ではなく、生命維持装置なのだ。冗談抜きでこれらの何れかが途絶すれば死ぬ。殴られても斬られても生きている人間でも常に高温に晒されていると死ぬ。水分補給できないと死ぬ。トイレやシャワーを備えていない不衛生な環境だと病原菌に感染して死ぬ。……今の人類が弱いのではない。今の人類では対抗できないほどに自然環境が悪化しているのだ。
 もしもこんな時に疫病に感染してしまうと、死んでしまうことも考えなければならない。
 大型砂利運搬船の関係者に知り合いが居るので船に乗せてもらって生活しているだけらしいが、その情報は最初から信用していない。
 相手は幾らかの金を払って警護要員を雇って最低限の武装をしていると見ている。
 港湾部の生臭く鉄錆び臭い夜風に当たりながら特に慌てる様子もなく啓子は砂利運搬船に近付く。
 船に人影は皆無。最近贔屓にしだした白い紙箱からドライシガーを1本取り出して口に銜える。
 時折強く吹き付ける、湿度を帯びた不快な臭いがする海風を体で庇いながら使い捨てライターで火を点ける。
 口と鼻から吸い込んだ鉄錆と淀んだ潮の臭いが呼吸器系全てを汚している感じがする。
 口の中をうがいする様を思い浮かべながら、ドライシガーの煙を口中で転がして、乱暴に吐く。
 暗い海。遠くに浮かぶ工業地帯の灯かり。
 岸壁の反対を見ればワイヤーを撒いているコイルが放置されているように並んでいる。木製の腐りかけのパレット。足元を照らすには十分な外灯が等間隔で並んでいる。
 人の気配は無い。
 港湾労働者はとっくに帰宅した時間だ。
 まともな港湾労働者に紛れて、裏の世界の住人が跋扈する時間帯。
 そして、裏の世界と言うのは、日常の延長線であり特別なものではないので裏にも表にも顔が利く人間がそこかしこに潜んでいるのを知っている。
 まっとうな労働者の姿をして、標的が現れるまで何年も潜入する情報屋や殺し屋も珍しくない。すれ違った人間が、若しかしたら裏の世界へのスカウトマンかもしれないし、麻薬の密売人かもしれない。
 高井明人(たかい あきと)。35歳。
 表向きは無職。
 『こちらの世界』では殺し屋。
 仕事は可もなく不可もなく。故に大きなスポンサーが付かずに小金を稼いでいた。
 そして、金が尽きた。
 金が尽きた理由は簡単だ。殺し屋としての職掌をバックアップしてくれる各業種に払う金が尽きたのだ。
 情報屋、武器屋、地下銀行、運び屋、闇医者、清掃業者、アリバイ工作用のエキストラ等々。
 荒事師は映画で見るほど一方的に暴力を揮える職業ではない。その場所に根を下ろして生活するのなら世を忍ぶ仮の姿が必要だ。
 そうなれば、表向きの顔を演じる為に幽霊会社も自分で創設しなければならない。
 更に出費が増える。
 その一方で前述のように、裏の世界の各業種に常に金を払って万が一の時に助けてもらえるように根回ししておかなければならない。
 裏の世界でも各業種は、定額サービスプランを導入している経営者もいるほどだ。
 ジャケットの左脇がズシリと重い。エルマKGP68が殺傷行為に及びそうな予感。
 左脇が重い時は決まって人が死ぬ。
 内臓を売って借金の取立てとするために、頸から上を狙うかバイタルゾーンから離れた位置に命中させるしかない。
 臓器に傷が付けば価値が下がる。
 不意に啓子は後ろを振り向いた。
 その夜陰のはるか向うには、複数の人間が待機しているはずだ。
 標的を行動不能にした途端に臓器を売るために体を回収するチームだ。
 スマートフォンのディスプレイを覗く。ちゃんと通信圏内であることを確認する。
 歩きながら、紫煙を乱暴に吐きながら両手をポケットに突っ込んで歩く。砂利運搬船に向かって真っ直ぐ歩く。
「まあ、でしょうね……」
 少しばかり諦観と遣る瀬無さが混じった独り言。
 頬を叩きつける潮風が、口元から零れる紫煙を掻き乱す。
 砂利運搬船の前まで無用心な態度で来ると、海に向かって3分の1ほどが灰になったドライシガーを吐き捨てる。
 ジャケットが湿った風で捲れる。
 ここまで来てエルマKGP68を隠す気はない。
 穏便に話し合いをしに来たのではない。
 対話も意思疎通も不可能だと切り替えてエルマKGP68を抜く。安全装置を外し、いつものように弾倉も薬室も確認。掌に伝う確実な作動音。コッキングピースを戻すと心地よい金属音が小さく耳に届く。
 桟橋のラダーから砂利運搬船に乗り込む。
 連中は油断している……筈が無い。
 狭い船内の角で常に待ち構えていると想定。
 耳にプラグ型の耳栓を差し込む。銃声が篭り易い船内で発砲すると、その大音量が鼓膜を襲い、鼓膜が破れたり、聴覚障害を引き起こしたりするので、狭い空間での耳の保護は優先度が高かった。啓子が使っている耳栓もアメリカのシューティングレンジで使われる、射撃専門の耳栓だ。
「……」
――――人の気配……有る。
――――隠れているわねぇ……。
 殺意や殺気は感じられない。敵意は感じる。
 殺すために手薬煉を引いているのではなく、排撃したいために待ち構えていると云う方が正確かもしれない。
 感覚として、狭い空間に入ると、人間の気配だけが増幅されて身に襲ってくる。言語として変換できない、概念のような姿で『何かが居る』と教えてくれる。呼吸は聞こえない。影も見えない。それでも確かに、こちらに攻撃の意思を向ける人間が潜んでいるのが分かる。
「…………」
 淀んだ空気。
 エアコンは効いていない。態と船内のエアコンを作動させていないのだろうか。
 送風機で換気されているので気流は大きい。
 等間隔で低い天井に電灯が設えられているので光源には困らない。錆と潮と湿度が充満している。送風機で換気が行われていても全身にぼろきれが纏わり付くように不快な空気が漂っている。
 耳を澄ます。
 耳栓をしていても、一定以上の音域や音帯をカットするだけなので、安眠用の耳栓とは比べ物にならないほどの快適。
 足音を拾うくらいは問題はない。
 それにこんなに狭い船内では、小さな物音でも音が反響して厭でも聞こえる。
 自分の呼吸がやや乱れ始める。
 知らずの内に緊張しているらしい。緊張を意識した途端に喉が渇き始めた。鼻から大きく息を吸って腹式呼吸で鎮静を図る。
 歩みを、ようやく進める。
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