熱砂の中へと訪れた

 フライパンの上で焼かれるミミズの気分を手軽に味わえる季節が今年も来た。
 路傍で立ちつくし、額の汗を尻ポケットから取り出したハンドタオルで拭う。
 左手にした500mlのミネラルウォーターのペットボトルは2本目だ。
 水分を補給してもその途端に汗となって体外へ排出されるイメージが強くなる。
 もうどれほど待ったか分からない。夏物のジャケットとスラックスとはいえ、限度がある。近年発売された冷感スプレーも試したが焼け石に水だ。
 これならば服を着たまま水風呂に飛び込んで、全身ずぶ濡れのまま屋外に出たほうが余程歩き易いのではないかと真剣に考える。人間の汗腺は人間が思っているほど優秀な冷却機能ではない。……直射日光を遮って風通しの良い衣服で出歩いた方がまだマシだ。
 それでも限度はある。
 近年の研究では、人間が屋外を活動できる気温は31度だという説も出てきた。老人たちが口を揃えて昔は良かったと云うが、夏の気温に関してだけは本当に昔の方が良かったに違いない。
 殺人的な日差しが地表を舐める時間帯。
 セミも鳴かない日中午後2時。
 白い太陽のはるか西方に入道雲。きっとあの直下では雷を伴うゲリラ豪雨なのだろう。その恵みの百分の一でも分けて欲しいと切に願う。
 笹井啓子(ささい けいこ)が日除けすらないバス停で立ち止まって30分。
 普通の人間なら熱中症で倒れている。
 そうでなくとも昨今の疫病のお陰で飛沫を防ぐマスクが手放せなくなった。政府の発表ではフィジカルディスタンスが保てるのならマスクを外しても良い、外さないと熱中症になる、と叫んでいるが、実際の街中では無言の同調が続くので、マスクを付けない方が却って人の記憶に残ってしまう。
 早くに理容室で髪を襟足短めのマッシュウルフに整えてもらって正解だった。この炎天下では頭髪が熱を帯びてしまい頭が茹でられる。
 しかし……限度はある。
 不意に、啓子はミネラルウォーターを頭から浴びせる。薄い化粧は多少のウォータープルーフなので問題は無い。
 踵を返し、またも背後にある自動販売機でミネラルウォーターを買い、喉を勢いよく潤す。あたかも本日初めて水で喉を濡らすように美味そうに飲む。
 街中よりも少し外れた場所にあるバス停。
 繁華街とは違う街。典型的住宅街。
 新旧の住宅が混在してぽつりぽつりと廃屋や貸しガレージがある。防災用地の公園や同じく災害時に使われる休耕地も見られる。
 大気が汚れてくすんだ青空。
 旧い世代の言う「抜けるような青空」と云う物を見た事が無い世代の啓子。今年で32歳に成るはずだ。
 正直なところ、自分でも自分の出自をはっきりと理解していない。
 生まれた時から家庭崩壊でネグレクト。更に家庭内暴力。小学校を辛うじて卒業し中学生時分は不登校児で一度も学校へ通った事が無い。
 それでも……少なくとも30年以上は生きる事ができた。
 きょうだいが居たはずだが顔は覚えていない。名前もあやふやだ。忘れたいのではなく、そんな者は居なかったと認識した方が自分と云う自我を守るのに適していると悟ったのだ。
 勿論、高校受験など関係の無い話だ。
 家出したが、誰も捜索願は出していないだろう。
 記憶の中であやふやなきょうだいも何人か突如として居なくなっていた。この家では人が突然居なくなるのだと思っていたし、それが普通だと思っていた。
 家出するつもりは無かったが、深夜にふと起きて、窓の外を見ると半グレたちが好き勝手に酔っ払いに暴力を働いているのを見てから何と無く興味を持ち、4LDK2階建ての家を夜中に抜け出してもっと近くでその暴力を見ようとした。
 その時に頬に触れた冷たい夜風の心地よさに世界が一転した。
 自分は、自由だ。
 自分は、自分だ。
 パジャマにサンダル履きのまま、夜陰に溶けるように16歳当時の啓子は歩きだした。
 そして紆余曲折を経て今に到る。
 紆余曲折の中で一番大きな出来事は『笹井啓子と名乗ったこと』だろう。
 昔の名前と決別するというほど大層な覚悟ではない。
 一人で自由に生きて行くのには戸籍が必要だった。
 抵抗無く春をひさいで作った金で戸籍を取得した。
 偽造ではなく、実在する人物の戸籍だ。
 その本来の笹井啓子は今頃土の中で冷たくなっているか、海の底で魚のエサになっている。
 日常と非日常。
 この二つはTVで見るほど解離した存在ではなかった。表裏一体で、延長線で持ちつ持たれつの関係だった。
 ホームレスからスタートして気軽に始めた売春でそこそこの金を稼げるようになると『親切なホームレス』の姿をした『非日常へといざなう存在』は彼女を暴力団員の情婦としてスカウトした……。
 全てはそこから始まった。否、始まったとしたらそこがスタートだろう。
 明確に生きていることを実感して毎日を生きる喜びを知ったのは。
 それから十数年。正確に覚えていない時間を過ごし、自由気ままに生きてきた。その末……否、途上が今だ。
「……」
 暑い。
 8月の炎天。この暑さは6月の終わりから急激に始まり未だ以って変化の兆しを見せない。予報では今年は10月のかかりまでこの熱波が続くと云う。
 頭からミネラルウォーターを被り、我慢ならずマスクを外して、今し方買ったばかりの新しいミネラルウォーターを呷る。
 バス停。午後2時を少し経過。
 炎天下。本日の気温は35度。
 出歩くのを想像するだけで気絶しそうな気温。
 日除けすらない、ベンチだけのバス停。住宅街の大通りを巡回する市営バスが漸く到着。懐のスマートフォンが恐ろしく熱い。左脇に吊るした得物だけは冷たく待機しているがその相棒に頬擦りするわけにはいかない。
 啓子のクリーム色のスーツが颯爽と市営バスに乗り込む。エアコンの効いた車内で残りのミネラルウォーターを飲み干す。
   ※ ※ ※
 笹井啓子。32歳。無職。
 各地を点々とする風来坊。
 今は、県内では中堅に位置する暴力団で非正規雇用の荒事師として働いている。職掌は鉄砲玉やコロシといった定番のものから債権回収業やシノギの集金も行っている。
 昨今の疫病の流行で組織全体の収入だけでなく、優秀な人材の流出に歯止めが利かずに、何処の組織も今の体裁を守るだけで精一杯だった。そんな中で長期や正規の人材の登用より、その場限りで使い捨てできる、身元不明だが、支払いが良いうちは裏切らない非正規雇用の方が重宝された。
 この業界では取引相手としては外国人を大事にするが、組織の構成員として日本の気風や仕来りを全く理解していない外国人は敬遠された。
 少し前に、外国人同士の小規模な銃撃戦が突然街中で始まり、全員逮捕された。
 国の内外に於ける反社会組織と、その構成員の意識の違いから事件は大きく飛び火して司直の手が入り、複数の組織が壊滅した。
 日本の文化と土壌を理解していない外国人を雇ってもトラブルの元だ。それを身に染みて感じている組織ほど、腕前は問わずに金を払って非正規雇用を増やそうとする。
 組織同士は相変わらず群雄割拠。
 その中で自分の組織は経済的にも人材的にも低下しつつあり、もう一押しで壊滅すると云う姿は死んでも見せられない。
 ゆえに、忠誠心や質は低下するが金でその場限りの人材を雇って表向きの構成員の数には変化が無いことをアピールする。
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