『憐れかどうかは私が決める!』

 地下とは勿論、『表向きは明るい世界の商社だが、実際には暗い世界御用達の商社』と云う意味だ。
 実際に下水道と並んでアスファルトの下で営業している店で働いているわけではない。……尤も、最近では本当に地下施設を利用して営業しているアンダーグラウンドの商社や商店も増えてきた。
 ここ3日間、夏喜は12時間勤務を終えると、良子のために早く帰り、看病に徹した。
 愛情や友情という篤い感情ではない。
 稼ぎ頭に倒れられたままだと、この賃貸物件が維持できないから早く回復して現場復帰して欲しいのだ。
 この疫病禍の時勢でなければ、担いででもかかりつけの内科医院に放り込んでいる。
 ベッドで上半身を起こして洟をかんでいる良子。
 カーテンの隙間から冬にしては珍しく明るい日差しが漏れている。時間は午前10時を少し経過。6畳ほどの洋室。質素だが、女性らしいセンスの棚やフロアマットが敷かれている。
 兎角、荒事を生業にする人間は、自分の命や生活や身辺に無頓着だと思われがちだが、実際には事細かに表向きの設定どおりに生きようとする人間が多い。
 命に無頓着な闇社会の荒くれ者は映画のスクリーンの中にしか居ないと思ったほうがいい。
 急遽、『誰か』に自室内に訪れられた時に必要最低限の家具しかないと逆に怪しまれてしまう。それに普段から明るい世界の住人と交流を持っておかないと、怪しい人物だと注目されてしまう。日常の中に溶け込んでこその非日常で生きる人間の嗜みだ。
 良子は丸めた鼻紙をゴミ箱へ力無く放り投げると、茹でられる頭をゆっくりと枕に戻す。
――――こりゃあ、ダメだ。
 夏喜はため息を吐く。
「コンビニでポカリと桃缶買ってきたから」
 夏喜はぶっきらぼうに言うと良子の部屋を出た。
「…………昭和の小学生みたい……」
 良子は高熱の涙目で歪む天井を見ながらボヤいた。
 今までの夏喜からの報告だと洗濯物とクリーニングは片付けて、仕事道具の拳銃は弾倉を抜いて、薬室を空にした状態で乾燥させているらしい。
 衣服は兎も角、仕事道具の拳銃は風邪が回復次第、念入りに手入れしないといけないと強く誓う。
 記憶の端が正しければ、胸に被弾して気絶してから辺りを見回すと、泥水に浸かっていた相棒のS&W M6904が視界に入った。
 夏喜の店で取り寄せてもらった相棒だ。今では入手困難な珍品だ。
 ダブルアクションオンリーのコンシールドガンの定番として嘗ては評判を呼んでいたが、最近の自動拳銃と比べると少々重い。それでも材質は堅牢で、最新のエアウェイトやポリマーフレームと比べるとフレームやスライドに対する信頼性が高い。
 職掌上、高い火力は必要ない。
 良子の職業は平たく言うと万ず屋。
 金さえ貰えばコロシでも誘拐でも賞金稼ぎでもする。
 寧ろ、最近は疫病のお陰で景気が冷え込んで手広く仕事を引き受けるしか道は無い。
 コロシだけを生業にする殺し屋でさえ、内職で雇われて『鉄砲玉』や警護を引き受ける時代だ。職業と職業の境目が判然としなくなっている。……特に暴力が絡む仕事で糊口を凌いでいる人間には辛い時代だ。
 この時代で一番辛いのは、自分の存在意義を主張し難くなったことだろう。
 疫病が流行して、誰も彼もが内職や副業に手を出し、誰も彼もが『何でも屋』を名乗らないと飢え死にする。何処かの組織の庇護に与れるのはほんの一握りの実力者だけだ。
 疫病が流行したお陰で、表の世界の景気が冷え込み、表の世界から搾取することをシノギにしていた裏の世界の住人は、搾り取れる物が無くなってドミノ倒しのように不景気に陥った。
 早々に解散した小規模組織が目立つ。中堅組織でさえ、組織同士の抗争を展開して群雄割拠に持ち込める資金が無いので、貯金を崩している状態。
 大手組織も噂では資金繰りが難しく、権力者や為政者に近い存在と持ちつ持たれつの関係を維持するのに躍起だそうだ。
 大手といえども、自分たちだけ一方的に甘い汁を吸える状態ではないらしい。
 零細企業で一人親方の良子ともなれば毎日が必死で、表の世界向けの設定通りに企業に就職して、真っ当に働きたいと思いながら疲労に任せて眠りに落ちる。
 辛うじて看板どおりの仕事を全うしているのは情報屋くらいだろう。情報だけは時代やメディアが変わっても有用な武器だ。
 夏喜の勤め先の武器屋が回転資金の目処を立てられるのも、表裏の世界の情報を融通してもらっているからと云う裏側がある。
 その万ず屋と武器屋がルームシェアリングで生きているのだから、何とか毎日を生きるに困らない収入がある。
 良子と夏喜。
 万ず屋と武器屋。
 たとえルームメイトでも、お互いに身内割引はしない主義だ。
 良子としても、夏喜と知り合いになれて同居できるのは幸運だったのかもしれない。……例えば、風邪で倒れても看病してくれる心強さがある。
 実のところ、今の良子に苦痛を与えているのは風邪だけではない。
 左胸を被弾した折に奇跡的に助かったのはいいが、ジッポーと分厚いメモ帳だけでは完全に弾頭の衝撃を相殺できず、エネルギーの大部分が全身に伝わった。
 その折に左胸骨を圧されて数箇所に皹が入った。その瞬間的に圧されて発生した痛みで気を失って、雨天の下で大の字になって寝転がっていた。
 気絶から目を覚まして、左胸を中心に襲い掛かる痛みを堪えるべくその場で、いつも持参している鎮痛剤を飲んで誤魔化していた。
 帰宅して風邪で倒れながらも、今度は高熱と風邪の痛みの対処として鎮痛剤を連用していた。……そんな雑な服用では胃が荒れてしまうと良子の身を心配した夏喜が闇医者から格安で譲ってもらった使用期限切れの中和剤を鎮痛剤と飲ませた。
 勿論、服用前に胃腸をいたわり、風邪でも少しはまともに食べられる食事を用意した。
 風邪の高熱に胸骨の皹による痛み。
 普通なら飢え死にしているか、肺炎になって入院しているだろう。
 心が弱っているのか、いつも以上に夏喜に感謝する。
 言葉にこそ出さないが、感謝するだけではなくて何か恩返しを考えておかないといけないと何度も考える。自分が男だったなら毎日でも抱くのに。
 感謝の毎日。
 これこそが、良子が暗い世界から足を洗うのを躊躇う大きな理由の一つだろう。
 表の明るい世界では、こんなに自分の事を考えてくれる人は居なかった。損得勘定を含んだとしても、自分のようなはみ出し者の近くに居ようと思ってくれる人間はいなかった。
 表の明るい世界では金の切れ目が縁の切れ目と云う言葉が有るが、こちらの世界では、金が切れようが人の心は切れない事が多いと勝手に思い込んでいる。
 自分もそうだ。
 『金の無い人間だからこそ』、利用価値や存在価値がある。何も無い、無敵の人間が持て囃される世界でもある。
 その無敵の人間が初めて人の温かみに触れて心地良さを知ると、表の世界の方が非情な世界に思えてしまう。
 裏の世界に居場所と値打ちを見つけてしまったのは、良子にとって幸か不幸か、それは末期を迎えないと分からない。
 泣けてきた。
 悲しいからではなく、嬉しくて泣けてきた。
 良子は頭から毛布を被るとそのまま寝息を立て始めた。
「…………」
 良子の部屋のドアに背を凭れさせて夏喜は苦笑い。まあ、いいか。
 買ってきた桃缶を食べさせようと思っていたが、辛い病人を叩き起こすほどでもないだろう。
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