『憐れかどうかは私が決める!』

「……それでも」
 加納孝也は額の汗を袖で拭いながら言う。
「それでも依頼は依頼だぜ……その辺は何もご破算になっちゃいねぇ」
 良子はそれに関しては意見の一致だ。本来の依頼を果たすことと邪魔が入ったから依頼を履行できなかったでは話が別だ。
 本来の依頼は遂行すべき事柄で、依頼人の『駒と陣地を用いた組織内部のゲーム』には関係ない。
 『殺害依頼が出たので殺害した』という事実だけが尊重される。
 事実を尊重させる為に障害を排除した。
 彼と彼女は、その障害が何処の何者の仕業なのかは『知らないし、考えも及ばない』ことだ。2人で殺し合いをしていたら邪魔が入ったので排除した。
 これも彼の目がそう語っていた。
 目は口ほどに物を言う。
 加納孝也も彼女の目を見て小さく頷いた。
 それはそれ。これはこれ。
「仕切りなおさない?」
 良子はスキットルの水を呷りたい衝動に駆られながらもそれを抑えて加納孝也に言う。
「いいね。そう願いたいよ」
 良子と加納孝也は地面で瀕死の状態の男たちを引き摺って、通路の端に雑に置く。地面に引き摺った生々しい血の跡が描かれる。
 瀕死の男達が倒れていた場所こそが、最初に良子と加納孝也が対峙していた場所だった。
「長く生きてりゃ、こんな事もあるもんだなあ」
「ふふ……あなた、歳幾つよ?」
「内緒。また今度遭ったら教えてやるよ」
 加納孝也の年寄り臭い台詞に少し気が緩んだ良子。加納孝也の唇にも小さな笑顔が浮いている。
 2人は背中合わせの状態から、誰が合図したわけでもなく、振り返る。
 彼我の距離20m。互いに必殺の距離。屋内。無風。空気は冷たく、末端組織の活動が鈍くなっている。
 先ほどの笑顔とは打って変わってアドレナリンが沸騰するのを感じる。
 次第に視野や聴覚に狭窄が起こり始める。
 正確に言うと、良子は加納孝也にしか神経を集中させていないが故の神経の正常な反応だった。
 今なら、加納孝也の呼吸も読み取れる。
 こちらを感情の無い顔で『視て』いる加納孝也も同じだろう。
 2人とも直立不動。
 同じタイミングで左足を肩幅近くに広げる。
 両脇を軽く開く。
 ゆらりと2人の手が動き、それぞれの手に握られた得物がショルダーホルスターに仕舞われる。
 辺りの空気が一段と冷えたのか、鼓膜が痛い。
 呼吸をすれば胸が息苦しい。口から白い吐息が漏れる。
 睨み合う……ではなく、見詰め合うという表現が相応しい。
 今からこいつを殺すのか。
 今からこいつに殺されるのか。
 焼けつきそうな緊張。
 殺意も敵意も悪意も憎念も抱かずに、仕事として目の前の人間を殺す。
 殺す覚悟も殺される覚悟もできた人間が互いに牙を剥く機会を窺えばそこには一つの……2人しか居ない一つの世界が構築される。
 風鳴りしか聞こえないだだっ広い空間。
 日は落ちた。
 光源は窓の外から差し込む遠くの街の賑わいがもたらす僅かな灯かりだけ。
 互いの顔を認識するのがやっとの灯かり。これ以上は暗くならない。だが、これ以上に寒くなるだろう。
 気温が下がれば女性ゆえに基礎体温が低い良子は明らかに不利。彼はそれを見越して『視ている』のだろうか。
 指一本でも動かそうものなら即座に右手が左腋から相棒の拳銃を抜く。
 それはお互いが共通している認識だ。
 お互い、それを確認しあったわけではない。
 彼なら、彼女ならそうだろう、そうするだろうと『信じていた』。
――――いい男じゃないの。
――――婚活の機会が来ればこんな男捜そう。
――――多分、女には尽くすけど金は緩いタイプかな?
 良子は能面の表情の下で不覚にも加納孝也にある種の好意を寄せていることに気がついた。だからと言って、殺害しないとはいかない。
「いい女じゃねぇか。出会う機会が『こう』じゃなかったら、どうなってたかな?」
 加納孝也も無表情のまま、好意を示す。だからと言って手加減する気は無いのは構えを見れば分かる。
 加納孝也の台詞に対して良子は唇の端を軽く吊り上げることで肯定した。
 この距離から互いが離れて激しい銃撃戦に展開するのは避けたかった。
 体が、足が、腰と腕以外が寒さで血流不足になり、油が切れた機械のようにギクシャクとしているのが分かる。
 寒すぎるのだ。
 それに、もう弾幕を張るほどの予備弾倉は無い。
 先ほどの闖入者を撃退するのにかなり消耗した。
 トレンチコートのハンドウォームには空の弾倉を捻じ込んでいるだけでバラ弾は持っていない。
 視る。見つめる。睨む。
 2人とも、互いの顔を見ながら、視線だけで表情を表現している。
 やりたい仕事とやらねばならない仕事は、必ずしも一致しない。
 やらねばならない仕事は往々にして、やりたくない仕事に内容が似てくる。
 エメットの法則。……先送りや後回しにした仕事を片付ける時に消費するリソースは何倍にもなってストレスに感じる法則。
 きっと、ここでこの仕事をやり遂げなければ後に大きな何かが何らかの形状でのしかかってくる。そしてそれを解決するのに信じられないほどの労力を使用している。
 エメットの法則。何故かこの場で突然、その言葉が脳裏を横切る。
――――ああ。仕事だ。
――――彼は標的。
――――『倒すべき強敵ではなく、仕留めるべき獲物!』
 良子の脳内のタスクが全て動員されてビジネスとしてコロシを行う冷徹な思考に完全に切り替わる。
「!」
 加納孝也の表情に緊張が張り付く。それまでの無表情ではなく、『職人としてその場で臨んでいる人間』の顔していた。
 2人は何を聞いたのか、見たのか、感じたのか、同時に体が……左肩が僅かに後方へ揺れて、僅かに開いた上着の隙間に、僅かな隙も無く右手が入り込み、居合いの呼吸のように愛銃を抜き放った。
 加納孝也のコルトキングコブラ。
 良子のS&W M6904。
 両方ともダブルアクション。
 良子のS&W M6904はこの場ではセフティをかけていない。
 トリガープルが、トリガーストロークが、エイミングが、グリッピングが、引き金に掛ける想いと信念が、全てが一体となり一つの打ち倒すべき本当の標的を狙う。
 打ち倒すべき本当の標的。
 自分の限界。
 それしかない。
 全てをコンマ数秒に賭けた一撃を放つ上で必要なのは全てが揃った上で尚も必要とするモノ……自分の今までの経験と知識と勘を総動員した本来の自分自身を凌駕する実力が必要。
 『自分以上の自分でなければ、この標的は倒せない。』
 『この標的を倒すことは、自分が成長したこと。』
 『学習の成果は実戦でしか発揮できない。』
 故に……。
 答えは出た。
「…………え、マジ?」
「…………マジ、か」
 重なる銃声が長く轟いて硬直した2人が口から漏らした言葉がそれだった。
 数学の世界では『この現象』は10億分の1だと計算されている。
 良子の9mmパラベラムと加納徹夜の357マグナムが中空でかち合った。
 その時点で10億分の1。
 そして勝利したのは357マグナムだった。良子の9mmパラベラムを粉砕して彼の変形した357マグナムは良子の左胸に吸い込まれて、彼女は静かに両膝を地面に衝く。その顔には『何も信じられない顔』と『諦観』と『勝利を疑わなかった顔』が同居していたが現実は非情だった。
 グラリと良子の体が仰向けに揺れる。
「…………ああ! クソ!」
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