『憐れかどうかは私が決める!』

 日下良子(くさか りょうこ)は確かに左胸を撃ち抜かれた。
 左胸に鋭い痛み。
 間髪入れずに鈍い衝撃が全身を伝う。
 神経がそれを理解したのではない。感覚がそれを理解した。
 走馬灯を見た。
 走馬灯とは学術的には明らかに定義されていないが、一説では記憶の奥底に眠る、経験や知識を検索している状態だという。
 過去にも同じ危機を経験していないか? その時はどのような方策で生き延びたか? それを生体電流限界の速さで検索している状態で、脳に全てのリソースが割かれてしまい、視界から得る情報が処理落ちしてしまう。
 結果、視界がスローモーションになる。
 数瞬後に日下良子が地面に倒れるまでの1秒間が異様に長く感じられた。
 秒針の音が聞こえるくらいに静かな世界だった。
 何もかもが静止したかのよう緩やかな世界だった。
 自分だけが『生きている』とさえ錯覚する長く儚い時間。
 耳元では聞こえるはずのない秒針の音が何故か聞こえて、何故か秒針が59秒でぴたりと止まった。
 何も考えられないのではない。
 何も考える余地がないのだ。
 59秒で静止していたと思われる秒針が0秒の位置へ。
 同時に日下良子は大の字に地面に仰向けに倒れた。
 今度は倒れた衝撃が彼女を襲う。
 クロノスタシス。
 秒針が一周する際の59秒から0秒までの時間が非常に長く感じる現象。
 間違いない。
 『自分は死んだ。』
 確信した。もう助からない。痛みが冷たさに。衝撃が麻痺を呼ぶ。呼吸が静かに止まっていく。
 それでも静かな世界。
 こんなにも世界は静かだったのかとか確認させられる。
 昔、何処で拾い読みしたか、人間が臨終を迎えても、尚最後まで活動を続けている器官は聴覚だというのを聞いた。
 最愛の人を失くしたときは耳元で感謝の言葉を述べようと誓った過去を思い出したような気がした。
 その意識の主、自我を維持している本人、個を主張する存在は静かに呼吸を止めた。
 曇り空。雨。
 この季節にしては珍しく暖かい日の午後。
 気温は暖かいが気圧の前線が張り出て雨雲に覆われた全国。午後から雨の予報だった。
 ぽつぽつと雨が降り出し、5分もせぬうちに少し粒の大きい雨となり、日下良子が横たわる以外何もなく、体を濡らす。
 安いブラウンのトレンチコートも黒いスラックスも雨が作り出す地面の泥で汚れるが、日下良子には関係ない。
 もう関係ないのだ。
   ※ ※ ※
 もう関係ないはずだった。
「っくしゅん!」
 良子は自室のベッドの上でくしゃみをした。
 風邪だ。
 ここ3日ほど高熱を伴う風邪で寝込んだままだった。
 時節柄、近所の内科医院に駆け込んでも陽性か陰性かを判断する検査が完了するまで、小さな医院の建物の中に入れない。
 風邪の高熱と寒気と吐き気と痛みを堪え、検査完了まで30分も暖房器具が無い医療別館と云う名のプレハブ小屋で鎮座していられる自信がない。従って、通院はせず。
 幸いにも買い置きの鎮痛剤があった。
 それで凌いでいる。
 思い返せば……。先日に昼の山中で獲物を追いかけて仕留めようとした瞬間に気が緩んで、窮鼠猫を噛むの如く反撃を受けて銃弾をまともに受けてしまった。
 更に思い返せば、その時に死ぬか、この世界から足を洗う決心をすべきだった。
 胸ポケットに入れた、今では貴重で高価な、重量感が売りのアーマージッポーに20m先から放たれた9mmショートが命中し、ジッポーと重ねるようにポケットにしまっていたB7サイズの分厚いメモ帳のお陰で助かった。
 ジッポーだけなら死んでいた。
 戦場のエピソードで胸のジッポーで銃弾が防がれて助かった話しはよく聞くが、この話には少し足りない説明があり、正確には、エネルギーを失った流れ弾がジッポーで停止して、それと重ねてポケットにしまっていたポケットバイブルやミニダイアリーや軍隊手帳や包帯などがクッションになって衝撃を全身に分散させ易くし、致命傷に至らない場合が多いのだ。
 尤も、その場合、兵士は余りの衝撃と激痛で瞬間的に意識を失い、気がついて胸を探るとジッポーが銃弾を止めていたように見えたのが大方のケースだ。
 良子もそのラッキーに与った。
 もう二度目はないだろう幸運。
 これは神様なる存在が、これからも精進せよと励ましてくれているのか、これを機に悔い改めて娑婆で生きろと言ってくれているのか判断に困る。
 こんなことなら、二度目の人生を与えられた人間の自伝を何冊か読んで参考程度に記憶に留めておくべきだった。
 良子は気がつけば山中で濡れ鼠になり、回復したままの重い体と冷たい衣服を引き摺って、不快感と鉛のように重たい体と戦いながら撤収ポイントに停車させていた軽四ワゴンで順法速度で帰宅したのだ。
 その頃には日が暮れて気温も下がり、酷い寒気を感じた。
 吐き気を伴う不快感も覚える。空腹だったがそれどころではない。それ以上に苦痛。
 帰宅し、衣服を脱ぎ捨て洗濯物とクリーニングに分け、掃除を忘れていた風呂場の古い湯を沸かし直して湯船に飛び込み、歯をカチカチ鳴らしながら体を温めて一目散にベッドに飛び込んだ。
 髪を充分乾かす暇も、化粧を完璧に落とす時間もなく、飛び込む。
 そして一晩。見事に風邪を引いていた。
 それから3日間、空腹を堪えて風邪と闘病を続けていたわけではない。
 ……彼女には心強い援軍が居た。
 ルームメイトの三瀬夏喜(みせ なつき)だ。
 彼女は良子の稼業を理解している。そして良子と夏喜は同じアンダーグラウンドの人間だ。
 良子、29歳。
 夏喜、26歳。
 良子は万ず屋。金を出せば何でもやる。無職に限りなく近い人間。
 夏喜は武器屋。金を出せば何でも揃える……と豪語する店で働いている。
 良子は表向きの顔を維持するために、賃貸のハイツを借りたのだが、表向きの設定の金銭的破綻を防ぐ為に、ルームメイトと同居して家賃を折半しているという設定に切り替えた。
 そうしなければ、設定上の職業から逆算できる収入に見合った住居に住めない。
 この住居の立地条件における利便性は大きい。魅力的だった。
 だけど、今の設定ではお金が足りない。そこで、同じく、住居を探していた三瀬夏喜と家賃を折半して住むことにした。借主の名義は良子。
「あーあー……もう……」
 オレンジがかったショートボブを揺らしながら夏樹が良子の部屋に入ってくる。
 この厄病が流行る時代でなくとも、風邪で伏せる人間が居る部屋に入る時は使い捨てマスクをしている。
 夏喜の目が、明らかに呆れている。酷い有様の良子を見ての感想だった。
 この3日間、高熱を出す良子の身の回りを片付けたのは夏喜で、食事を用意したり体を拭いたり下着やパジャマの着替えや交換を手伝ったのも彼女だ。
 夏喜は風邪薬を勧めたのだが、高熱時特有の形容し難い悪夢が嫌だと風邪薬を嫌うので、良子の手元には風邪薬は置いていない。……風邪の時に風邪薬を飲むと悪夢が加速する体質らしい。
 内科医院に駆け込んだとしても、鎮痛剤と胃薬を貰いビタミンの点滴だけの処置を望むくらいだ。
 勿論、それを初めて知った夏喜は大層呆れた。背に腹は替えられないという言葉を知らないのか、と。
 妙な部分で偏屈な良子と同居している夏喜。
 彼女は24時間連続で良子を看病していたわけではない。夏喜にも仕事がある。地下の武器屋で非合法な商品を売買している店舗で働いているのだ。
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