聴け、死の尤度を。

 表の顔と裏の顔を一人で使い分けるとなると、朝は何が何でも短期決戦だ。
 この時ばかりは女に生まれた事を面倒に感じる。
 自分が陽の目を憚って生きるタイプのアンダーグラウンドの住人なら、寝癖や化粧や昨日と違うコーディネートの出勤用のスーツに悩まないのに。
 ベランダの洗濯物も取り入れる。
 昨夜は珍しく雨が降らなかったので夜のうちに乾いてくれた。
 家事に追われる兼業主婦の気持ちが何と無く分かる。
 家事をこなしつつ、出勤の準備。これだけでも大変なのに更に朝食を作って食べると云う絶対に手が抜けない要件が控えている。
 洗濯物は帰宅してから畳んで直す。
 洗濯物は表の世界だろうと裏の世界だろうと、生きている限り絶対に発生する問題だ。江利子はアニメの主人公ではないので、季節を問わずに同じ衣服で生きていける人間ではない。
 燃えるゴミの日は明日なので今日はまだ余裕が有る。
 不精と分かっていても3日分の洗濯物を取り入れたバスケットをリビングの端に置く。
 3LDKのハイツ。駅から15分の好条件。
 それなりに安い物件だったが、更に賃貸価格を下げるために、事故物件を探してきた。
 殺人事件が発生した事故物件だが、殺人を友とする江利子には関係ないどころか日常なので心理的な問題は無い。
 事故物件のレッテルは3ヶ月間だ。3ヶ月新しい住人が住んで問題なければ事故物件のレッテルが剥がされる。それでも貸主としては物件のイメージを守りたいために、安くした賃貸料を3ヶ月経過した途端に値上げするのは微妙なところ。
 そこを不動産業に伝の有る業者に有料で依頼し、口利きしてもらい、値下げ価格のまま維持してもらっている。
 金の使い方はこうでなければならないと自画自賛した江利子。
 目前の1万円のために後日の100万円を捨てるのはバカバカしい。
 さすがに駐車場は別料金だった。別料金の駐車場に合わせて軽自動車を買ったのだ。その分、駐車スペースの料金が安い。……実際には節約する事に手を抜いていない普通のOLを演じる為の偽装だ。
 軽自動車は維持費も税金も安い。その上、通勤距離から逆算すればガソリン代も安く上がる。
 江利子はつまり、そういう女だった。何もしなくとも、何も講じなくとも脳の構造が主婦だ。
 安売りの玉子を1パックだけ買う為にガソリンを3リットル分も消費しないための計算ができるタイプの主婦だった。
 その江利子が朝から胃袋に詰め込む朝食はハイカロリーではなかったが、直ぐに消化できるほど少ない量ではなかった。
 彼女自身が燃費が悪いのもあるだろうが、理念の一つとして、適切な栄養補給と適度な満腹中枢の刺激を疎かにする人間は総じて思考力と判断力と決断力が鈍いと信じているからだ。
 一考する余裕を生み出すのは、蓄えたエネルギー。
 その理念に基づき、江利子は片手鍋に適量の水を入れて沸騰させ始めた。
 その間に冷蔵庫から取り出したネギと豆腐と乾燥ワカメを目分量で軽量する。味噌、出汁も目分量。
 自炊は得意ではないが最低限の食事は自力で作れる。効率を重視するなら保存食や動物性たんぱく質の塊で事は済むが、経済的でないのと栄養の偏りが危惧される。
 一人分の味噌汁を作りながら、一方で昨日の昼食の時に炊いた冷や飯を電子レンジで解凍する。暑い季節なので早く消費したい。
 レタスとキャベツを手で大雑把に千切ったサラダに茹で玉子と人参と玉葱で作っておいたドレッシングもどきを大匙ですくって垂らす。酢とオリーブオイルを塩胡椒で調えただけの簡素な味付けだ。
 次々と器にそれらを盛り付け、トレイの上に置く。
 とどめにハムステーキを焼く。
 全部を一度に行うにはキッチンが狭すぎるうえに手が足りない。空いたコンロでテフロン加工が施されたフライパンを熱して4枚1パックで売られていたハムステーキを2枚落として蓋をする。
 この無心になれる時間が実は大好きだった。
 何も考えないで済む。
 忙しい時間帯なのに、忙しいタスクをこなしているはずなのに、何故か、目前の調理に集中できた。
 若しかしたら、このひとときの瞑想に似た無心を味わいたくて手抜き料理や保存食を頼らないのかもしれない。
 先の事も過去の事も考えずに済む時間。
 余裕が無い現代人とは大昔から聞くフレーズだ。
 大昔から『現代』の人は忙しかったのかと思わず皮肉を含んだ微笑を唇の端に浮かべる。
 まさに理想の時間。自分はまだ余裕を失っていない。笑うだけの余裕が有る。誰も彼もが忙しい時間を人間らしく生きていると振り返る事が出来る時間。
 時々、ふと、自分は明るい世界の住人だったらこんな小さな幸せで満足していただろうかと自問することもある。
 フライパンを何度か火力調整して白い大皿にそのままひっくり返す。
 程好く脂が染み出たハムステーキがジャンクな艶を放って江利子を誘っていた。
 忙しくても食べる。人間の基本的欲求を捨てるのは人間を捨てるのと同じだ。
 古今東西に於いて、食事を蔑ろにしたばかりに敗北をした例は海の砂の数より多い。
 子供の喧嘩から全世界を巻き込んだ戦争まで。
 テーブルの前に座り、江利子は箸を手に取ると、掌を合わせて2秒ほど瞑目し……空腹を満たす為に、生きる勢いで次々と胃袋に流し込む。
 流し込むが、良く咀嚼することも忘れない。
 無闇に流し込むだけでは消化器官に負荷が掛かる。『流し込み易いように』良く噛む。
 当初は、食欲を満たした重い胃袋に被弾すれば腹膜炎を起こす可能性が飛躍的に上昇して死亡率も跳ね上がるので、その対策としてよく咀嚼して消化吸収の効率を上げるために行った。
 今では、栄養の吸収効率や満腹中枢の持続時間、エネルギーへの体感での換算などから鑑みて、どう考えても咀嚼回数が鍵だと知った。
 朝の食事にかける時間もたっぷり20分確保する。
 食事の時間を大事にする為に、日常のタスクやルーティンを組んでいる節も有る。
 ハムステーキで脂と塩分を舌に乗せると、それを洗うように質素なサラダを頬張る。120gほどの温め直した白飯も次々に放り込み味噌汁で嚥下する。
 大量に口に放り込んでいる割には咀嚼を重ねてからの嚥下なのでハムスターの食事を連想させる。
 暑い季節を乗り切るのに充分な栄養。栄養を補給するのに適した食事。食事を食事たらしめる咀嚼。江利子に必要なのは、ただの『エサ』ではない。人間の真っ当な食餌なのだ。
 そして、ひとときの幸せを満喫した後にやってくるいつもの気だるい雰囲気。血糖値の上昇。
 心が、朝から或る種の拒否反応を起こしている。
 朝食後の洗い物問題。
 こればかりは何ともし難い。
 食洗機を購入すべく目下、検索中だ。
 調理と食事は好きでも後片付けは苦手だ。
   ※ ※ ※
 季節が変わろうとしている。
 夏の終わり、秋口に見られる赤いトンボが近所の河で飛んでいる。夕方。風の向きも変わってきた。
 『勤務先』から帰宅してのハイツの階段を昇っているときに携帯電話がバイブレーションで着信を報せた。
「!」
 このバイブレーションのパターンは『本来の仕事』だ。顔色を変えずにそのまま自宅に。
 携帯電話のディスプレイを確認。メールが1件。
 直ぐにメールの内容を確認しない。急ぎの連絡ならどうにかして電話を調べてかけてくるだろう。急ぎでない用件だからメールでの着信だ。
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