聴け、死の尤度を。
江利子の業務は朝9時から午後5時まで。
帰宅ルートも規則正しく。ペーパーカンパニーを維持運営する際に発生する諸経費や帳簿の記録も、ひとかどの企業が実際に業務をこなして収益を得ていると云う隠蔽工作をしている。
江利子一人で中堅企業をでっち挙げてそこの社員を装っている。それだけでは直ぐに税務署に嗅ぎつけられるので、企業に発生する損益をシミュレートし細分化してカテゴライズして分配して然るべき部署を流出入している形跡を残して、江利子の銀行口座に『その身分に相応しい金額』が給料として振り込まれる。
勿論、彼女一人で全てを構築したわけではない。
それを補助、サポート、助力してくれる様々な非合法組織や『名前の出せない個人』にも力を請うた。
それに見合う金額も払って中堅企業を書類上、『元からそこに有ったように見せかける工作』をしたのだ。
そうしなければ源泉徴収の不備を突付かれると、労働基準監督署と税務署がすっ飛んでくる。
痛くも無い腹を探られてつまらぬボロを出す確率が高くなる。
国民の金の流れを管理することを職掌とする税務署は、真っ当な書類が揃っていれば金儲けには五月蝿くない。寧ろ無関心に近い。だが、金の使い方……使途不明金や脱税には麻薬探知犬より敏感に鼻が利く。
個人レベルでも隣の家が新しい車に買い替えをすると直ぐに家庭内で話題になり余計な勘繰りをして羨む。妬む。それが税制徴収レベルまで大きくなっただけだ。
ゆえに儲け過ぎない、下がり過ぎない健全な経営をする会社を維持するのは金がかかる。それが例え書類上の会社であっても。
これは特別、江利子が用心深いのではない。
表の明るい世界に溶け込む事を選んだアンダーグラウンドの住人なら、誰でも規模に差は有るが用いている常套の一つだ。中には本当に企業に就職してオフタイムに荒事をこなしている殺し屋も居る。会社の重役を殺害する為に何年も前から社員として潜入している組織のヒットマンが何人も居る。
江利子の経験で言うと、表の世界でまともに生きられない人間が裏の世界で伸び伸びと生きられるわけが無いとさえ思っている。
裏の世界の荒事や暴力を生業とする人間は、カタギの持たない圧倒的武力の銃火器や爆発物で一方的に恫喝、蹂躙、簒奪して濡れ手に粟のように金儲けが出来て笑いが止まらないと誤解しているようでは、絶対に生きてはいけない。
トイレットペーパーよりも薄い壁一枚向こうは即座に死が待っている。
暴力に生きるとは即ち、それ以外の全てから背いて生きることに他ならない。
国を跨いだ政争の具として軍隊と云うセクションが存在するのと同じで、それを行使する為には不断の努力と持続可能な環境維持が必要。それに注力すれば、それ以外には使い道の無いと道具なる。それ以外に使い道がある軍隊があるとすれば私兵でしかない。災害派遣や救難救助、医療支援などは使い道ではなく、軍隊が普段から繰り返し行っている訓練や修得している技能の応用が充分に効くだけだ。本来の国防や戦力としては定義が違う。軍隊の有益有用なアピールの場として昨今では何処の列強も自国の軍隊を疫病対策の人員補強として多用しているが、逆に言えば、その間に有事が発生すれば即応力が低下する。金と人を注いでも技能と経験は一朝一夕では身に付かない。
ゆえに、どの時代、どの国、どの界隈でも経験と技能が重要視される。
経験豊かで技能が高ければ、自ずと、自らの力の使い方を悟る。「自分の力はこれくらいでしか使い道が無い」と。
そしてその道で生きるために覚悟が決まり自分が、『居るべき場所』を強く意識する。
自らの力の在り様が見えていないと、自分の憧れだけを強く意識して傍若無人に振る舞い、敵の実力も見定められずに命を落とす。地雷原でサッカーをしている現実にも気がつかない。
裏社会では、実力イコール経験の豊さと技能の高さと言い換えられる。
金で売り買いされる身分のフリーランスの殺し屋であっても、契約しているヒットマンであっても、『過去の仕事』が名刺となり、高い報酬や契約料に繋がる。
この世界で生きていくと決めた『覚悟の度合いと意識の所在』が定まっている人間は殺しても死なない。
自分の死に場所と死ぬ時間を見据えたように生きる。
最後まで生きても、『覚悟の度合いと意識の所在』が定まっていない人間は人生を棒に振っただけの、生まれてきただけの、呼吸しているだけの、何者にも成れなかった自分の姿が惨めにしか思えず暗く深く黒いルサンチマンを抱えたまま新しい世代に迎合できずに『惨めに長生きしたことを後悔する』。
生きるのなら自分を磨け、努力を惜しむな、時代に生きる努力をしろと江利子は常々言い聞かせている。
ネット検索で何もかもが判明する便利な時代でも、その根底や基礎のソースを構築するのは人工知能ではない。
成長と進化と進歩を続けることを止めない人間だ。
殺し屋の業界に限らず、アンダーグラウンドでも情報屋が売り捌く情報を集めているのは情報収集専門のプロだ。
機械が自律して人を殺す時代が来るのは目に見えているが、その時には既に自律する機械を壊す自律した機械が投入されて人間同士の暴力の実行はテレビゲームの中だけの話しになるかもしれない。そうなっても生きる事を止めないのが人間であり人類だ。
結局はデータ主義に回帰しても、その基礎は人間が作り上げたものでしか無い。
手軽に栄光を掴みたいと願うのなら、ネット上で拾える上澄みだけの記事とデータを利用して、流行の疫病を利用したセミナーを開催した方がよほど稼げるし、幾らでも逃げられる。
江利子が特段古い人間と云うわけではない。
温故知新を忘れた人間はこの業界では長生きできないから転職しろと言いたいだけだ。
今までに『腕前だけ有望』な荒事師が沢山、命を落としてきた。『覚悟の度合いと意識の所在』が定まっていない人間は、つまらぬ場所で、つまらぬ理由で、つまらぬ形で命を落とすので思わず目を覆いたくなる。
「…………」
江利子はレンタルしたスチールデスクにそれら、仕事用の機材を並べてブラインドを下ろす。日差しが強くなる時間はこの部屋は蒸し風呂になる。エアコンは正に生命維持装置だった。
表向きの顔を維持するための電話には、役者崩れや特殊詐欺で使い捨てにされる若者を使う。
両者のどちらかが電話を掛けてその電話を機材が自動で音声ガイダンスで応答して、もう片方へ内線を繋ぐ要領で転送する。
雇った三下もどきは、自分たちが何処へ何のために無言電話を不定期に掛けさせられているのか分からないし、不定期に自分たちの携帯電話に着信する無言電話の相手や意図を知らない。
こうして、この書類上の企業は頻繁に商談やアポイントメントの電話を受けていると云う、『電子的な履歴と記録』だけが残る。
エアコンが効き始めてロスナイが空気を循環させ始め、快適な時間が訪れる。
江利子は先日の夜に使用した愛銃のS&W M351cのクリーニングに取り掛かる。こまめなクリーニングは欠かせたくない。1発しか撃っていないからクリーニングしないと云うのは、江利子の概念では、少量の便しか出なかったから尻を拭かなくても大丈夫だと言うのと同じだ。
それにリボルバーでも工業製品であるので、作動不良は必ず起きる。
帰宅ルートも規則正しく。ペーパーカンパニーを維持運営する際に発生する諸経費や帳簿の記録も、ひとかどの企業が実際に業務をこなして収益を得ていると云う隠蔽工作をしている。
江利子一人で中堅企業をでっち挙げてそこの社員を装っている。それだけでは直ぐに税務署に嗅ぎつけられるので、企業に発生する損益をシミュレートし細分化してカテゴライズして分配して然るべき部署を流出入している形跡を残して、江利子の銀行口座に『その身分に相応しい金額』が給料として振り込まれる。
勿論、彼女一人で全てを構築したわけではない。
それを補助、サポート、助力してくれる様々な非合法組織や『名前の出せない個人』にも力を請うた。
それに見合う金額も払って中堅企業を書類上、『元からそこに有ったように見せかける工作』をしたのだ。
そうしなければ源泉徴収の不備を突付かれると、労働基準監督署と税務署がすっ飛んでくる。
痛くも無い腹を探られてつまらぬボロを出す確率が高くなる。
国民の金の流れを管理することを職掌とする税務署は、真っ当な書類が揃っていれば金儲けには五月蝿くない。寧ろ無関心に近い。だが、金の使い方……使途不明金や脱税には麻薬探知犬より敏感に鼻が利く。
個人レベルでも隣の家が新しい車に買い替えをすると直ぐに家庭内で話題になり余計な勘繰りをして羨む。妬む。それが税制徴収レベルまで大きくなっただけだ。
ゆえに儲け過ぎない、下がり過ぎない健全な経営をする会社を維持するのは金がかかる。それが例え書類上の会社であっても。
これは特別、江利子が用心深いのではない。
表の明るい世界に溶け込む事を選んだアンダーグラウンドの住人なら、誰でも規模に差は有るが用いている常套の一つだ。中には本当に企業に就職してオフタイムに荒事をこなしている殺し屋も居る。会社の重役を殺害する為に何年も前から社員として潜入している組織のヒットマンが何人も居る。
江利子の経験で言うと、表の世界でまともに生きられない人間が裏の世界で伸び伸びと生きられるわけが無いとさえ思っている。
裏の世界の荒事や暴力を生業とする人間は、カタギの持たない圧倒的武力の銃火器や爆発物で一方的に恫喝、蹂躙、簒奪して濡れ手に粟のように金儲けが出来て笑いが止まらないと誤解しているようでは、絶対に生きてはいけない。
トイレットペーパーよりも薄い壁一枚向こうは即座に死が待っている。
暴力に生きるとは即ち、それ以外の全てから背いて生きることに他ならない。
国を跨いだ政争の具として軍隊と云うセクションが存在するのと同じで、それを行使する為には不断の努力と持続可能な環境維持が必要。それに注力すれば、それ以外には使い道の無いと道具なる。それ以外に使い道がある軍隊があるとすれば私兵でしかない。災害派遣や救難救助、医療支援などは使い道ではなく、軍隊が普段から繰り返し行っている訓練や修得している技能の応用が充分に効くだけだ。本来の国防や戦力としては定義が違う。軍隊の有益有用なアピールの場として昨今では何処の列強も自国の軍隊を疫病対策の人員補強として多用しているが、逆に言えば、その間に有事が発生すれば即応力が低下する。金と人を注いでも技能と経験は一朝一夕では身に付かない。
ゆえに、どの時代、どの国、どの界隈でも経験と技能が重要視される。
経験豊かで技能が高ければ、自ずと、自らの力の使い方を悟る。「自分の力はこれくらいでしか使い道が無い」と。
そしてその道で生きるために覚悟が決まり自分が、『居るべき場所』を強く意識する。
自らの力の在り様が見えていないと、自分の憧れだけを強く意識して傍若無人に振る舞い、敵の実力も見定められずに命を落とす。地雷原でサッカーをしている現実にも気がつかない。
裏社会では、実力イコール経験の豊さと技能の高さと言い換えられる。
金で売り買いされる身分のフリーランスの殺し屋であっても、契約しているヒットマンであっても、『過去の仕事』が名刺となり、高い報酬や契約料に繋がる。
この世界で生きていくと決めた『覚悟の度合いと意識の所在』が定まっている人間は殺しても死なない。
自分の死に場所と死ぬ時間を見据えたように生きる。
最後まで生きても、『覚悟の度合いと意識の所在』が定まっていない人間は人生を棒に振っただけの、生まれてきただけの、呼吸しているだけの、何者にも成れなかった自分の姿が惨めにしか思えず暗く深く黒いルサンチマンを抱えたまま新しい世代に迎合できずに『惨めに長生きしたことを後悔する』。
生きるのなら自分を磨け、努力を惜しむな、時代に生きる努力をしろと江利子は常々言い聞かせている。
ネット検索で何もかもが判明する便利な時代でも、その根底や基礎のソースを構築するのは人工知能ではない。
成長と進化と進歩を続けることを止めない人間だ。
殺し屋の業界に限らず、アンダーグラウンドでも情報屋が売り捌く情報を集めているのは情報収集専門のプロだ。
機械が自律して人を殺す時代が来るのは目に見えているが、その時には既に自律する機械を壊す自律した機械が投入されて人間同士の暴力の実行はテレビゲームの中だけの話しになるかもしれない。そうなっても生きる事を止めないのが人間であり人類だ。
結局はデータ主義に回帰しても、その基礎は人間が作り上げたものでしか無い。
手軽に栄光を掴みたいと願うのなら、ネット上で拾える上澄みだけの記事とデータを利用して、流行の疫病を利用したセミナーを開催した方がよほど稼げるし、幾らでも逃げられる。
江利子が特段古い人間と云うわけではない。
温故知新を忘れた人間はこの業界では長生きできないから転職しろと言いたいだけだ。
今までに『腕前だけ有望』な荒事師が沢山、命を落としてきた。『覚悟の度合いと意識の所在』が定まっていない人間は、つまらぬ場所で、つまらぬ理由で、つまらぬ形で命を落とすので思わず目を覆いたくなる。
「…………」
江利子はレンタルしたスチールデスクにそれら、仕事用の機材を並べてブラインドを下ろす。日差しが強くなる時間はこの部屋は蒸し風呂になる。エアコンは正に生命維持装置だった。
表向きの顔を維持するための電話には、役者崩れや特殊詐欺で使い捨てにされる若者を使う。
両者のどちらかが電話を掛けてその電話を機材が自動で音声ガイダンスで応答して、もう片方へ内線を繋ぐ要領で転送する。
雇った三下もどきは、自分たちが何処へ何のために無言電話を不定期に掛けさせられているのか分からないし、不定期に自分たちの携帯電話に着信する無言電話の相手や意図を知らない。
こうして、この書類上の企業は頻繁に商談やアポイントメントの電話を受けていると云う、『電子的な履歴と記録』だけが残る。
エアコンが効き始めてロスナイが空気を循環させ始め、快適な時間が訪れる。
江利子は先日の夜に使用した愛銃のS&W M351cのクリーニングに取り掛かる。こまめなクリーニングは欠かせたくない。1発しか撃っていないからクリーニングしないと云うのは、江利子の概念では、少量の便しか出なかったから尻を拭かなくても大丈夫だと言うのと同じだ。
それにリボルバーでも工業製品であるので、作動不良は必ず起きる。