聴け、死の尤度を。

 加納武一のこの街での人間的評判は最悪だ。……だが、腕前は鈍らではない。
 必ず『技』を持っている。
 その『技』が犬のように利く鼻だった。
 狭い街だと荒事師や殺し屋の情報は瞬く間に広がるが、『技』ばかりは対峙して生き残った人間からしか情報を集められない。そして勝った秘訣をひけらかす荒事師は居ない。
 それは絶対の企業秘密だ。
 自分の『技』を知った者は死ぬ。
 そう言う世界だ。
 加納武一の見た目に惑わされた奴は即ち、命を落とした奴なのだろう。
 彼の鼻で以ってすれば、臭いを感知できれば、暗闇でも狙撃できるに違いない。
 まさかと思い、遮蔽伝いに風上に回ると、加納武一もその度に風下に迂回して、頑なにそのポジションを譲らなかった。
 香水を蒔き、運動靴を脱げば、彼は遮蔽の向こうで足音を消した。
 種明かしが分かれば対策も簡単だとは限らない。種が分かったから絶望する事態も有る。OLの嗜みの香水を所持していなければこの勝負はどうなっていたかは分からない。
 彼は決して弱くなかった。
 腕前が確かな殺し屋だった。
 絶対の自信がルガーブラックホークに表れている。
 『このルートに誘われていた』、『この位置から狙撃するように仕向けられた』、『先制を打たれるとは思わなかった』。
 それだけだ。
「……で」
 江利子は靴を回収して、悠々と履きながら視線を向けずにコルトウッズマンの男に向かって言う。
「有沢宏枝」
「?」
「……知らないか」
「知らないわ」
 声は背後からした。
 コルトウッズマンの男は、有沢宏枝なる女と思われる人物の名を口にしたが記憶になかった。
 殺した対象は多い。名前も知らされずに殺した対象も多い。何処の誰に恨まれても仕方が無い。
 恨み。
 復讐心は一番怖い。
 その爆発的衝動は、古今東西に於いて、国家を転覆させる力として働いてきた。
 本当に知らない。
 その人物はいつ何処でどうやって殺した?
 江利子はシリンダーに残弾6発のS&W M351cを再び握り、声の方向に向く。
「そうか」
「…………」
 江利子の背後15mの位置で立っていた、その男はM65のハーフコートをはためかせながらバックステップを素早く踏んで、全く背後を見ずに屋上の端まで来た。
 背後はフェンス。それ以上逃げられない。左右以外に移動も出来ない。
 胸がざわつく。
――――拙い!
――――何か『使う気だ!』
 江利子の背中が凍りついた。
 咄嗟に遮蔽に飛び込まずに体を伏せた。
 爆弾の爆風を回避するように、雨で濡れた床に飛び込む、無様な回避だ。
 コルトウッズマンの男は間髪遅れて発砲した。
「……?」
 ゴキブリのように這いながら遮蔽に転がり込む。
――――着弾……?
 確かに男が発砲した。
 軽い、金属音が爆ぜる音がした。
 室外機の間を、溜まった雨水に濡れる不快感を無視して匍匐前進する。
 先ほど運動靴を脱いで走ったために、今頃足の裏が焼けるような痛みを訴える。
 着弾の音が『不自然なようで不自然ではなかった』。
 違和感とも怪訝ともいえない。
 此方に向けて撃ったのだから、弾頭が外れればどこかに当たって砕けるのは当たり前。
 男は確かに此方を狙って撃った。
 その時点で怪しいと思った。
 思ったのに……上手く言語化できない概念じみた不安に駆られる。
 何かがずれている。
 男は移動している。
 足元の水溜りを踏む音が聞こえる。
 雨が少し強くなり、目に時々雨粒が入り、瞬間だけ視界が途切れる。 暑い季節に雨と高層マンション屋上の独特の強い風は助かる。体温上昇を適度に抑えてくれる。屋外なので、湿度は高くとも気流が発生し、不快指数は高いが密閉された屋内より過ごし易い。
 匍匐前進を繰り返して、充分に距離を取った辺りでS&W M351cに補弾しようと、バラ弾を落とし込んだジャケットのポケットに手を伸ばした時に銃声。
「……!」
 着弾。
 頭を更に伏せて移動。
 銃声と着弾。
 何も違和感はない……はずだ。
 確かに22ロングライフル独特の発砲音で、22口径の鉛弾独特の爆ぜる音。
 22ロングライフルの弾頭は鉛むき出しのファクトリーロードが多く、市場でも人気だ。
 つまり極平凡な実包を使っている。
 コルトウッズマンにも22口径弾にも謎は無い。
 それでも背中を撫でられるような不快感と正体の掴めない焦燥感にじらされる。
 恐怖を煽る気配も殺意も敵意も悪意も……この場合は大した問題ではない。
 気配を自在に操って、圧倒して自爆を誘う、『撃たない拳銃使い』もこの世には存在する。
 2人の拳銃使いが対峙すれば必ず、独自の『技』の博覧会になる。
 幾つの技をどれだけ磨いて、どのタイミングでどれを用いたか? ……それに尽きる。
「先に言っておく」
 彼は遮蔽の向こうで喋り出した。声の反響や風向きで遮蔽の向こう何mに居るのか推し量る。
――――え?
「……!」
――――そんなはずは……!
 江利子は思わずそれを疑った。
 声の位置を脳内で割り出して、その答えと計算方法と勘と経験が鈍ったのかと焦り、自分の身を晒す危険を冒しながら、コンパクトを翳して遮蔽の向こうを広く観察した。
 彼は、『フェンスを背後にした位置から全く移動していなかった』。……否、移動はしていた。
 『左右』に。
 強風に、彼のハーフコートがはためく。
 確かに移動していた。
 小刻みに右へ左へと。
 前進しか勝てる手立ては無いはずなのに、自分から背後にフェンスを背負う。
 右手側に行けば屋上の角。
 行き止まり。
 左手に行けば背丈よりも高いダクト群で乗り越えるには時間がかかる。
 彼は蟹のように左右への移動しか繰り返していない。その意図が読めない。彼が間抜けではない証拠に……。
「!」
 コンパクトの世界の向うで彼は発砲した。
 コンパクトを保持していた左手首付近のコンクリの壁に着弾し、弾頭の欠片で手首を薄っすらと切る。掠り傷にも入らない負傷だ。
 それでも不自然と違和感と怪訝が渾然とした『何か』に恐怖した。
 確実に命中させられる意識。
 技術と経験の差。
 得体の知れない『技』。
 確かに今、江利子は彼の『技』の攻撃を受けている。
 11時方向。距離20m。南東の風、やや強し。雨、推定5mm以下。
 この距離なら普通なら命中させられる。……普通ならば。
 今は普通ではない。
 追い立てるためや移動する為の牽制射撃すらない。この期に及んで弾薬が惜しいわけでも有るまい。
 江利子の頬を雨粒が軽く叩く。風がほんの少し強い。
 屋上特有の強風。
 屋上に配置された豊富な遮蔽のお陰で、複雑な気流を発生させている。
 彼が雇った加納武一とは違う異質な雰囲気。
 雨がほんの少し小雨に変わる。
 腕時計は午後7時半を報せていた。
 辺りが暗くなるかと心配していたが、センサーが稼動して保安用の電灯が次々に点く。
 彼のハーフコートがまたも翻る。
 頭を出そうとした瞬間に銃声。22口径。数センチずれていれば22口径の弾頭が江利子の脳天を大きく削いでいた。
 彼はただ、コルトウッズマンを片手で構えて、死んだ目で此方を伺っている。
 抑揚を感じない表情。
 肉体を持つ幽霊と云う形容が相応しい姿。
 時々、右へ左へと細かくじりじりと移動する。
 江利子は膠着している状況だと疲弊するだけだと知っているので、移動に専念する。
 室外機の上から奇襲するか、大きく迂回して側面から叩くか、もっと距離を詰めて雨風の影響を絶対に受けない距離まで接近するか……。
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