聴け、死の尤度を。

 広いはずの面積でも室外機や給水塔や配電設備その他諸々の遮蔽によって視界は明瞭なのに見える角度が狭い。薄暗い時間帯。時々瞬きさせてしまう小雨。
 そんな時に幽霊がゆらりと現れるように、そこに『居た』のが彼だった。
「妹は……弱くなかった……」
 そして15分後の今。
 少し雨脚が強くなった世界の下で彼は空を見上げていた。右手に力無く握っているコルトウッズマン。
 S&W M351cを構えながらじりじりとその男に近付く。20m。それ以上は危険だ。コルトウッズマンは同じ22口径でもS&W M351cより初速に劣るロングライフルを10発飲み込める。
 この程度の風でも命中精度が下がるほどの弱装弾だ。
 ハイベロシティなファクトリーロードだとしても、この風の中で命中させるのは至難の業だ。
 なのに彼は、この場でコルトウッズマンを携えている。
 『何か仕込んでいるに違いない。それとも、何か【技】が有るのか?』
 奇しくも22口径同士。
 この距離なら……風の影響を受ける前にこの男に『着弾』する。
 この距離なら男の銃弾は風の影響を受けてまともに命中しない。
 命中しても威力は幾らか削がれている。
 この男の身の上や履歴や職務経歴には興味は無かった。
 確実に敵だと分かった。それだけで充分だ。この高層マンションをシノギにする組織は大手しかない。そこを洗えば簡単に身元は割れる。
 何故狙われたか、何処の誰かはどうでもいい。1発数十円の22WMRを叩き込めば万事解決だ。
 幸い、精気の無い死んだ目で中空を見ている。
 江利子に意識は向けられていない。
 放置されたラジオのように、独り言じみたことを呟いているだけだ。 敵意も殺意も何も無い。今回の首魁格なのに、一切が伺えない不気味さだけが増す。
 ギリと引き金に力を加える。小さくシリンダーが動く。
 あと少しで必殺の22WMRが撃発されるところで銃声。
「!」
――――『やっぱりね』。
 江利子は男の胆力を信じ込んでいなかった。
 必ず何か仕掛けているはずだと考えていた。
 手練の中には、『この男』のように気配を一切消すことに特化した荒事師が多く居る。
 何も感じない、感じさせない、読ませない、読めない不気味さを強くアピールして銃口を向ける人間の意識を集中させて罠や【技】を仕掛けてくる奴が。
 意識に介入する為に気配を消すか主張するか、或いはそれをスイッチさせるかは人の個性によるが、それを自律神経に関係なく意識して行う事ができる奴は確かに存在する。
 銃声。銃声。
 22口径ではない、数発の銃声が江利子を仕留めようと……しない。
「なあ、さっさとやろうぜ!」
「……あいつ」
 江利子は見上げるように高い室外機の上に立つ人影を見た。
 そこに居たのは最近『人気が高い若手の一人』だった。
 加納武一(かのう たけかず)。
 身の上調書が正しければそのような名前で22歳を自称している。
 派手な水色を基調としたトロピカル風アロハシャツをはだけさせ、ジーンズパンツにスニーカーの青年。髪は今風の若者に溶け込むべく金色に染めている。それとも元からこういう趣味なのか。
 加納武一はその軽佻浮薄な見た目と口調を裏切って、古風なウエスタンスタイルのガンベルトを提げていた。輪胴式。確か得物は……。
「よっと」
 彼は2mの高さをものともせずに軽々と飛び降りて、猫のように着地し、すっくと立ち上がる。
 にやけた顔。依頼ならば『どちらの世界の依頼人でも問わずに』仕事を引き受ける嫌な奴だ。
 『この世界』の調和と連携を乱す一翼に加担している。『互助会』そのものの、弱腰な思想に反駁して好き勝手に仕事を引き受けている。
 好き勝手に仕事を引き受けることは邪魔ではない。それは依頼されて職掌を遂行しているのだから真っ当な職業といえた。
 ただ、この時期に集団から離れて誰彼構わず仕事を引き受けて『殺戮を愉しむかのような』イメージを広げられては、他の業種の荒事師まで風評被害に悩まされる。
 これが、彼なりの仲良しクラブに陥りつつある(と見える)『互助会』に対する反駁の方法なのだ。
 彼の振る舞いはやがて、『互助会』と関係組織や個人のイメージも悪くする。
 早く始末したいが、『仕事で人を殺している』彼を邪魔だからと妨害殺害すれば、他の思想や主義を同じとする逸れ者を呼応させてしまう。……まだまだこの街には厄介な人間は多い。
 図太い神経。
 睨み付ける江利子。
 目の前で悠々と加納武一は、愛用のルガーブラックホークを再装填する。
 6インチ銃身。
 先ほどの発砲は、自分に視線を向けさせる為の空に向けた威嚇発砲。
 生理的に受け付けない。
 このような人間と仲良くできなくとも、隣にこのような人間が居る事を意識し、線引きと譲歩と妥協を繰り返すから共存が成り立つ。
 嫌いだからと云う理由だけで排除するのは人の道から外れる以前に、自分が優生的に守られていると云う思想の表れのような気がして嫌になる。
 つまり、彼はそう言う人間だ。
 自分が好き勝手に振舞っても、誰も自分を妨害できない構造を理解している。
 自分を嫌う人間は『何をされたら一番困るか』を知っている。
 人間の心理を衝き、構造のバグを弄んでいる。
 『依頼遂行のために標的の人を殺しをした』『殺し屋として真っ当な職掌』『妨害するのなら敵と看做す』。……確かに何も間違えていない。
 嫌いだからと云う理由で妨害するプロの荒事師は居ない。
 感情の抑えられない不適格な頭脳を持った荒事師が何人か義憤に駆られて殺害を試みたが、ことごとく失敗し、『極当たり前に反撃されて葬られている』。火の粉を振り払えないプロは居ない。
 加納武一も、その意味ではプロだった。
 火の粉の振り払い方は知っているのだ。
 そして可哀想な話に、義憤に駆られて加納武一を襲撃した荒事師は『裏の世界での常識を知らない人間』として扱われる。
 誰もが義憤に駆られる人間を応援したい。だが、感情で先走って、『殺害依頼が出て契約が結ばれて狙われていない』同業者を襲撃するのは道から外れる行為と看做されてしまう。
 それが可哀想だ。
 神経を逆撫でして、風評被害を拡大させている可能武一の理屈がまともなのだから堪ったものではない。
 生理的に受け付けない。
 睨み付ける江利子。
 S&W M351cのグリップを強く握る。強く握りすぎてチェッカリングが掌に刻まれるような痛みを覚える。
 いけない、と思い、直ぐに腹式呼吸。
 状況の整理と理解と把握と選択を行う。
 脳内のチェックリストに一つずつチェックする。
 20m目前の名前の分からないコルトウッズマンの男は過去に殺した誰かの身内らしい。
 加納武一は雇われただけの戦力で江利子に恨みは無い。
 殺意敵意無く、引き金を引く悦楽症タイプのフリーランスの殺し屋だ。
 背後に倒れる単発拳銃の男は……もう戦力足り得ないから除外。
 コルトウッズマンの男が一番の脅威だと誰が見ても分かる。
 加納武一は、実力を知っているだけに軽視してはいけない脅威だと知っている。
 S&W M351cを保持する手が緊張と疲労で下がりつつある。
 長丁場は避けたい。
「なあ、この女ぁ、殺しても良いだろ?」
 加納武一は確かに男にそう聞いた。その男の方に向いて、そう聞いた。
 その瞬間に江利子は牽制抜きの本気の殺意を込めた22WMRを全弾放った。
 銃弾が、短機関銃のように速く唸り、5発の銃声が連なる。
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