聴け、死の尤度を。

「腕利きだった。それを引いても、心も強かった。勘も良かった。『俺たちきょうだい』の中でも一番だと俺は思っていた」
 S&W M351cを構える。シリンダーには5発。先ほど2発消費した。
 目前の30代半ばと思われる精悍な顔つきの男は、顔を雨に打たれ始めても、S&W M351cの銃口に15mの距離から狙われていても、顔色を変えなかった。
 その男は右手にすらりと長い銃身のコルトウッズマンを携えていた。銃口は明後日の方向を向いている。
 江利子の左手首の内側に回ったダイバーズウォッチの針は午後7時を経過した事を報せている。
 15mの距離で対峙して5分が経過した。
 この男が夕暮れの境目の時間に幽鬼のように現れる前に、一人の男と銃火を交えて辛うじて射殺することに成功していた。
 今から思えば間抜けな話しだ。
 匿名のメールで「お前の過去を知っている」と云う文言を受けて酷く焦燥したのだ。
 江利子はそのメールが動揺を誘う為に送られたメールだと思っていたのだが、時間が経過するにつれて焦燥が恐怖に変わっていく。
 過去を知る者。
 これは『過去を全て消し去った人間』が聞けば、誰もが恐れおののく存在。
 相手の失態を誘う為に送りつける嫌がらせレベルの定番の文句。
 送りつけるのは簡単だ。
 この業界では冗談や悪戯では通用しない。
 送りつける方も明確な目的も無しに、荒事師を揺さぶる真似はしないのが吉だと知っている。
 江利子が動揺したのは、『過去を本当に知られているかもしれないと云う事実』ではなく、自分が『次のコロシの対象に選ばれていると云う事実』だ。
 挨拶を兼ねた先制攻撃としてテンプレの嫌がらせメール。殺し屋を中心とした荒事師の世界では宣戦布告同然と捉える。
 江利子は直ぐに心当たりを検索する行動には出なかった。
 無駄だ。心当たりが多過ぎる。
 老若男女問わず、標的ならば殺害してきた。
 殺害の妨害をするのなら殺してきた。
 自身の周りにも、六次の隔たりを以って地球の裏側から殺し屋が放たれた例を幾つも知っている。
 殺す側から殺される側に回った。
 非常事態。その一言に尽きる。
 この界隈で生きていれば必ず訪れる。
 それが今朝6時だった。
 『出勤』も見合わせて、後ろ暗い世界専門の便利屋に代行で『会社』の業務を依頼する。『普通のOL』なら急病で休む事も有るだろうから、退勤の工作は容易だ。
 今から15分前に戻る。
 のこのこと高層マンションの屋上へ『来てやった』。
 のこのこと罠に嵌る『真似をしてやった』。
 間抜け面さげて殺されに来る『振りをしてやった』。
 誰かは不明だが大きな障害だ。
 嫌がらせを放置してエスカレートし、殺害される瞬間まで自分が誰に何の要件で殺されたのか分からない奴も何人も見てきた。
 この高層マンションのお膳立ても丁寧に連中が用意してくれた。
 恐ろしく静かな高層マンション。
 プレオープンもまだ。昨日、全ての工程が終了したばかり。新品の匂いがする。非常階段ではなく、エレベーターを使用してやった。
 揺さぶりのメールの直後に届いたメールにはこの高層マンションの屋上で会おうと、場所と時間が記されていた。暗号化されていない、無用心なメール。URLも添付ファイルも無い。
 何の金にもならないからと放置して命を落とした例を知らなかったら、この手には乗らなかった。過去の事例は経験則として江利子に植え付けるための陰謀ではなかったかと疑っている。
 ……それほどまでに静かだったのだ。
 作動していない防犯カメラ。
 正常に作動するエレベーター。
 そこに至るまでの防犯システムが全てカット。
「…………」
――――誰だろう?
――――これだけの『力』を発揮できる大物がこの街にいたとは考えられない。
――――どこかの大手に雇われた誰かか?
――――狙われる動機は何だろう?
 その全てが解明するのだと思い、高層マンションの屋上に来てやった。
 瞬間。狙撃。
 即座に2発発砲。
 傍から見れば咄嗟に抜いたS&W M351cを大きく右手に振り、視線を合わせず、直感が働くままに盲撃ち。
 狙撃の発砲音は中折れ単発拳銃独特のもの。近距離。外さない距離からの外さない発砲。
「……ああ」
――――あいつか。
 肉袋が落ちる音を聞いた。
 音から計る距離では20m右手側、やや後方の遮蔽。
 風が強い高層マンションの屋上でも、ちょっとやそっとでは弾道が逸れない高初速弾頭を用いる拳銃。硝煙の鼻腔を擽る感覚を知っているが、馴染みの無い臭い。ライフル弾。
 その肉袋の方向を見なくとも理解した。
 今し方、盲撃ちに近い直感の発砲の初弾が逸早く、相手が発砲するよりも相手の体のどこかに命中し、一瞬の衝撃か硬直で引き金を引いてしまった。
 それで必殺の初弾は外され、その更に直後に2発目の22WMRが肉袋になる前の人物に命中してその人物は恐らく、致命的な負傷を負った。
 消えそうな悶える呼吸が聞こえても立ち上がる気配は感じない。
 シングルショットピストルを使う拳銃使いは何人か知っている。
 その中でも消去法で候補を絞ると脳内にこの街で該当する拳銃使いは一人しかヒットしない。
 14インチ銃身のコンテンダーを使い、口径は5.56mmに固執するフリーランスの殺し屋。名前は……なんだっけ?
 だが、もうそいつは使い物にならない。背後の、無力化され戦闘力の消えた人の気配を感じながら歩きだす。
 ぽつぽつと曇天から零れ落ちる。夕方を過ぎて涼しい風が吹いたと思ったら今夜は大雨になるそうだ。
 名前をど忘れした殺し屋は恐らく雇われただけだ。不自然な事象を組み立てたら自然と導き出せた。
 この街で通用している単発拳銃の遣い手が、マンション一本を貸切にできる実力者に雇われたのなら、その情報は直ぐに耳に入る。
 最近の『互助会』は横に対する連携が強く、フリーランスの殺し屋同士が殺しあうのを防いでいる。
 それもこれも、疫病の流行で人材の枯渇を恐れた大手が直列直系の組織から二次三次や外郭団体にまで、人材の無用な潰しあいを半ば、禁じていた。
 職掌や偶発や契約柄の殺し合いなら例外だ。仕方ない。
 それ以外ともなると、街の外部から来た誰かが大手と話を付けて……脅迫かもしれないが……目を瞑ってもらい、この街での『互助会』入りを敬遠した逸れ者を雇った、というところだろう。
 この街にはどれだけの逸れ者が居るのか不明だ。
 腕利きほど、癖の有る奴ほど、『互助会』の勧誘を拒否している。
 江利子は保留の返答をした。
 中堅や零細の組織でも寄り合い所帯になれば、それなりにコネが発生する魅力がある。
 その一方で、望まぬ仕事を拒否し難いので悩んでいる。
 『互助会』の構造はこう云った逸れ者を可視化させた。大小の組織にしても連携や調和を否定し反対する集団もある。
 表の世界のワクチンやマスクの反対派が可視化されたのを笑っていられない状況だ。
 裏の世界でも厄介な人間が先鋭化しているのが浮き彫りになった。中には『互助会』を軟弱者だの迎合しているだけの拝金金権主義だと罵って、営業妨害を行う組織や触発された個人も出てきたのだ。
「…………」
 江利子はS&W M351cをゆっくりと左右に振る。敵と云うより人の気配。複数。室外機が並ぶ風景。日中の熱を溜めた足元から輻射熱が立ち昇る。風が強い。
15/20ページ
スキ