聴け、死の尤度を。

 何処に行っても消毒液のボトルが視界に入る。
 誰もが飛沫防止マスクを付けている。
 テレビを見ても、国内の知らない場所も、国外の遠い世界でも、疫病の話ししか話題として流れてこない。
 世界がこんなに狭いとは、と錯覚した。
 一つの強力な人類の敵が現れても、現実では人類は一致団結とは程遠い姿を見せた。
 逸早く立て直した国が、遅れを取っている国に治療法や予防薬を売りつけるビジネスを開拓。
 アンダーグラウンドの世界でもここまで阿漕な商売を行使する奴は居ない。居れば調和が乱れるからだ。対立と衝突は新しい火種と敵を作り、コネを失う。
 防御に入って生き永らえている組織は、皮肉にも昨今の疫病を長期的に見て孤立するのは不利だと計算し、吸収と合併を繰り返し、更に見所の有る中堅の組織や個人を買収。その上で末端の崩壊を防ぐべく、零細企業同然の中堅以下の組織には『互助会』を作らせて『収入源の枯渇に耐えろ、備えろ』と渇を入れている。
 神聖ローマ帝国のように、寄り合い所帯の『互助会』が疫病による不景気を回避する為に一時休戦、条件付き同盟などで抗争は落ち着きつつある。
 皮肉にもアンダーグラウンドの方が一致団結の意味を理解して実行し、及第点の効果を見せている。
 だからこそ、その団結する組織力を破綻させかねない裏切り者や不貞を働く内部関係者の炙り出しに躍起になっている。
 自浄作用で以って膿を出し切るのに丁度いい機会だった。
 それに『互助会』に加入した中堅以下の組織は、表向きは更に権威有る組織からの押し付けで、嫌な顔をして手を結んだ有象無象だが、この際に相手の腹を探る絶好のチャンスだと捉えている。
 商魂逞しい零細組織は、自分のシノギの幅を広げる為にここぞとばかりに昨日までの敵に対してソロバンを見せて版図拡大を目論んでいる。
 或る意味、この界隈では平和な時代なのだ。
 命懸けの仕事は相変わらずだが、街中で手榴弾を放り投げる事件は暫く聞いていない。
 国外からの非合法な密輸品も帳簿通りに分配されて、大手組織から末端の『互助会』まで当面、組織を運営するだけの資金の種ができた。
 商談の邪魔をしたり情報屋を駆使して殺害対象を調べたりと、血で血を争う仕事が大きく減った。
 傾向としては、カタギからの恨み辛みが原動力のコロシの依頼が多くなったことくらいだ。
 表の明るい世界では疫病が流行ったが故に浮き彫りになった人間関係で、感情だけで暗殺殺害を依頼してくるケースが多い。
 その人物を殺した結果、二次的三次的に波及する影響を考える力の無い素人なので一層デリケートな判断が必要だった。素人は直ぐに口を割り、直ぐに呵責の念に押し潰される。
 意外にもアンダーグラウンドではカタギからの依頼には非常に敏感になっているのだ。
 殺しが難しいのではなく、依頼人は自分が満足すると簡単に全てを吐露する。ゆえに、何重もの『伝達屋』を使い依頼を受ける。
 カタギ、素人の依頼が多くて暫く、息抜きをする余裕も無かった。
 仕事をこなしていたのではない。仕事を選んで履行しても問題ないか調べるだけで体力も気力も削られていたのだ。
 カタギと素人こそ或る意味、アンタッチャブルな存在のように思えた。
 今日はそれを忘れる。
 律儀に土曜日の午後3時に休日を謳歌しているOLを装う。否、装わなくとも、自然体で一人の女性が寸鉄帯びずに街中で自由に過ごせと言われれば、『言われなくとも』このように振舞ってしまう。
 ウインドゥショッピングの挙動をするか、しないかだけで……溜まった家事に追われるか、追われないかだけの違いだ。
 休日を満喫するのに今の季節では丁度いい曇り空だ。
 季節の変わり目でもう直ぐ秋だが、今の日本は春と秋が消失した亜熱帯地方同然なので、直射日光の降り注がない日はそれだけで有り難い。突然の桁外れなゲリラ豪雨だけは勘弁して欲しいが。
 心の洗濯がたった1本の安物の葉巻と、そこそこ美味しいコーヒーが有るだけで生活の質が向上している。
 小さな幸せに身を任せるのもまた、心の余裕を持たせる生活習慣的訓練だといえた。
 この業界にも運良く隠居したら田舎に引き篭もって晴耕雨読に過ごしたいとか、美術館めぐりを堪能したいとか、自伝の執筆で小遣い程度に印税生活を送りたいと願う人間も居るが、経験上、読書、芸術、執筆といった精神的内向的作業を伴うクリエイティブな趣味は若いうちから、普段から嗜んでその趣味性を解しておかねば味わいは分からない。
 人の趣味志向や性癖は或る日を境に急変しない。
 自分の性分に合った趣味や娯楽は、普段からの心や精神の調律に用いるからこそ真価を発揮する物だ。更に経験則で言えば、老後を迎えて隠居した人間が隠居前に言っていたようにクリエイティブな趣味に埋没した例を見た事が無い。
 人は生命体であるがゆえに、脳は老化劣化する。死ぬまで同じ感性で生きられるはずがない。
 そもそも老化は経験で経験は老化だ。そこまで理解しているからこの世界で長生きできた。そこまで理解していないからこの世界に踏み込んだ。
 江利子は口中に深く紫煙を溜め込んで細く長く吐く。
 頭の中身がデトックスされるような安息に包まれる。
 こまめな休憩と休息と休養。これに勝る薬は無い。
 過去に何度も被弾し斬りつけられたが、自分は必ず回復して元通りになるから大人しく寝ていろと命令する癖がついていたので長生きしている一因だと思っている。
「…………」
――――あー……確かに。
――――隠居したハジキ使いが、自分に都合がいい展開だけの話をでっち上げて実録だと嘘ついて出版社に持ちこむ話……。
――――良く聞くけど、なんだか分かるような気がしてきた。
 平々凡々な実績しかなくて、大した危険も冒す勇気が無く長生きした老人の元荒事師が、自分の半生をスペクタクル満載の創作小説のように仕立た私小説を実話だと吹聴し、ネットの端で公開してる話や、コネや伝を使って出版社に持ち込む話を最近良く聞く。
 確かに自分の経験を針小棒大に騒ぎ立てて成功した話だけをつなげれば、カタギや素人衆は騙せるだろう。
 それならば脳内での内向的作業の負担も軽く済む。
 電子書籍枠なら最近では案外と簡単に書籍化されて販売されるので、確かに子供の小遣いよりは大きな金額が手元に入るだろう。
 五体満足に引退してしまったらそれも悪くない、と考えてしまう。
 脳内の、巡らなければならない思考が緩慢になり、僅かな倦怠や眠気に似た体感。
 完全にリラックスしている。
 葉巻の煙の質は紙巻煙草と違うので、ニコチンが口内の粘膜から摂取されると体は倦さを覚えるのに反して、思考思索は加速する。思わぬアイデアが浮かんだり、問題の解決方法が見つかったり、片付かぬタスクに優先順位を付けられたりする。デフォルトモードネットワークが加速するのに似た感覚。
 休日のOLを演じるべく始めた喫茶店通いだが、今では自由に紫煙と遊びながら脳内を整理整頓する時間と習慣として楽しみになっている。
 明日も生きていける気がする。
   ※ ※ ※
「妹は……弱くなかった……」
 目の前の彼はぽつぽつと降り出した雨空の下、そう語り出した。
 夏の暑さがまだ残る時期なのにM65を模したオリーブドラブのハーフコートを着ていた。
 身長180cm近く。中年の少し手前。逞しい筋骨。野性味の深い容貌。荒く纏めたオールバック。
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