聴け、死の尤度を。

 江利子は口角を吊り上げた。
 辻を左へ曲がる。一瞬だけ辻の角が遮蔽になる。右足の踵を鳴らし、急ブレーキ。そしてそのまま軸足として180度背後を振り向く。
 『狙った行動だが、狙った射撃ではない』。S&W M351cのやや重い引き金を軽快に3度引いた。
「!」
「!」
 確かにそいつは……人影は強く呻いた。
 右手と思しき手から長いサプレッサーを装着した小型の自動拳銃が衝撃で放り出されて苦痛に耐えながら、バックステップを踏んで辻の角を利用した遮蔽の陰へと後退した。
 地面に転がるサプレッサーを捻じ込まれたベレッタM2032トムキャットに目もくれずにS&W M351cをカップ&ソーサーで構えて、左手側の壁に体の左側面を擦り付けるようにして足音を殺して歩く。
 地面に被弾した証拠の血痕が飛び散っている。
 3発撃って、少なくとも1発は命中した。
 血痕の飛び散り方から見て擦過傷ではない。肉に食い込む手応えを感じた。
 視界から得られた情報が正しければ、右手か右肩を負傷した人影は男。
 身長175cm。年齢不詳。容貌不詳。衣服は薄い。Tシャツにショルダーホルスター姿。筋骨は発達している。3mにも満たない近距離からの22WMRを受けても怯まずに後退する判断力が有る。
 場慣れしている。
 脳内の検索エンジンに何人かの2挺拳銃使いがヒットしたが、何れにも該当せず。
――――誰?
――――やった!
 江利子の心と脳内で自分と遊離した自分が同時に声を挙げる。
 江利子はこの時のために、逃げ回る事を決断していたのだ。
 そして見事に手傷を負わせた。
 警護専門の護り屋ならこれで引くだろう。
 標的を守る事を本業とする護り屋は基本的に戦わない。戦っているうちに警護対象が殺害される事を防ぐ為に、警護対象と距離を開けない。それでも警護対象から離れる時は時間稼ぎの時だけだ。
 纏わりつく違和感を拭った時に判明している。
 自分を追ってきた人間は護り屋ではない。時間稼ぎではない。
 護り屋はそもそも『静かな殺害に特化した得物』を選択しない。
 派手な銃声を撒き散らして囮になることはあっても、姿形を消そうとはしない。
 だから、『誰だ』と心の中で言った。
 そして、読み通り命中させられた自分を褒めた。
 相手の虚を衝く反撃は計画も実行も難しい。
 タイミングがまったく計れないからだ。
 銃弾の隙間を掻い潜って反撃の余地を見つけるのは、心の余裕を捨て去らないと不可能に近い。
 余裕を捨てて、一瞬で余裕を持つ。
 呼吸一拍分の時間。
 辻を曲がった勢いで体を180度回転させて、盲撃ちに近い発砲を3回行った。
 結果、命中した。決定打に欠けるが、遮蔽の向うに退かせるだけの効果が有った。
――――? ……居ない? 居る?
「……」
 その3m先の角の向うに確実に居る。
 シリンダーに残された弾薬は4発。
 左手小指と薬指の間にスピードローダーを1個挟んである。
 スピードローダーを使う間も無く勝負は決まるはずだ。
 そして、相手も『殺す気が有るのなら』、勝負を仕掛けてきてもおかしくない。
 両者供、勝負のかけ時が見えているはずだ。
 なのに、遮蔽の向こうでは右手に傷を負っているはずの襲撃者の呼吸が音量のボリュームを下げるように小さくなる。
「?」
 嫌な予感。
 誘うわけでなし、襲うわけでなし、一息つくわけでなし。
 何か企んでいるか、何か仕掛けようとしているか……。
 S&W M351cを握る手にじっとりと脂分の多い汗が浮き出る。頸を汗の珠が一筋、流れる。
 確かに居るのに、気配が有るのに……殺意、敵意、悪意が煙のように消えた。
 気配を感じさせながらも殺意、敵意、悪意が消えることの方が恐ろしい。
 それは……恐怖を失った者が纏う『圧力』だからだ。
――――探る……か!
 S&W M351cの銃口を大きく右手側に振りベニヤの板で作った壁に向かって発砲した。
 1発。22WMRの突き抜ける銃声。
 停止力より貫徹力に優れる、小口径で高速の弾頭は風雨で脆くなったベニヤ板をボール紙のように貫通し、遮蔽を易々と貫いた。
 遮蔽は遮蔽だ。防弾とは意味が違う。
「!」
 『突然のそれは、何か喚く声を唸ってもよかったはずだ。』
 何も聞こえないのに、手負いの狼のような獰猛な顔付きが遮蔽の向うから飛び出してきた。
――――別人? 違う! 確かに『こいつ』だ!
 先ほど視界に捉えたシルエットを持つ同じ人物が、右手をダラリと下げたまま左手に持った図太いサプレッサーを捻じ込んだ32口径のベレッタM3032を型も術も無く、雑に構えて体を大きく晒して江利子の前に飛び出てきた。
 撃たなければ死ぬ。
 死にたくなければ撃て。
 脳の命令とメタ認知が合致した答えを出す。
 それは生体微電流の早さで四肢に、末端に、指先に命令が行き届き、2発、引き金を引く。命の重みを感じるトリガープルだ。
 銃声が重なる。
「……」
「……」
 視線が交差する。
 充分に3回も呼吸ができた。
 新陳代謝が停止しているのか、痛みを感じない。脳内麻薬が横溢し、またも遊離感や離人感を覚える。
 体を離れて俯瞰しようとするもう一人の自分の手を、意識下に置かれている自分が引っ張って幽体離脱のように離れようとするメタ認知の自分を食い止める。
 痛みも衝撃も感じない。過去に何度も味わった、被弾した時に味わう脱力も感じない。余程、大量の脳内麻薬が分泌されていたのか。
 先に動いたのは目前3mの男。右手のベレッタM3023が幽霊の掌のようにゆっくりと擡げられる。
 その銃口の狙う先が江利子の顔面に来る直前に、構えたままだったS&W M351cを発砲。弾倉は空。速やかに再装填することを忘却。
 僅かに逆光になり、その男の顔は最後まで不鮮明だった。
 男は額に小さな風穴を開けてうつ伏せに倒れた。後頭部の射出孔から脳内の圧力で脳漿の欠片が一塊、噴出した。
「…………」
 江利子は漸く事態を理解した。
 その瞬間に腰を抜かした。
 無様にもその場に膝から落ちて、地面に尻を衝く。
 喉がカラカラに渇く。脂汗が髪の間から幾筋も流れ落ちる。鳩尾が痛い。瞳孔が拡散したように開きっぱなしになる。
 3m先の遮蔽から飛び出してきた男と対峙して、即座に2発発砲。S&W M351cから飛び出した22WMRは確実に男の左胸鎖乳突筋と胸骨のど真ん中に命中し、普通なら重傷を通り越して即、重体に陥る深手を負わせた。
 なのに男は立っていた。
 尻餅を搗く直前に視界に入った、地面に転がるシリンジを見て分かった。
 この男は薬物を、この鉄火場のど真ん中で麻薬を注射して感覚を能力の限界まで引き上げて勝負に臨んだ。
 その結果、麻薬による錯乱で神経が遮断されて痛みを感じず、バイタルゾーンに叩き込まれた2発の22WMRの弾頭をものともしなかった。
 衝撃は感じただろうが、それだけだ。
 その薬物の快楽物質が脳に作用しているので、男が放った銃弾は江利子の元居た陰を撃つ。
 つまり、虚空を穿つだけに終わる。江利子は2発で勝負が決したと信じ、同時に被弾も覚悟していた。
 男は数瞬前なら確実に勝利していたが、薬物により、フィジカルは上昇したが判断力が僅かに遅れて無為な発砲に終わる。
 土壇場で薬物を摂取する荒事師は主に2種類しか居ない。
 緊張が切れそうな常習者か、一時的なブーストとして薬物を頼る常習者。
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