聴け、死の尤度を。
偶に発生することだが、同じ現場で別件の標的を仕留めるためにそれぞれを追う殺し屋や追っ手が鉢合わせして、互いが互いを自分が仕留める標的が雇ったボディガードだと間違えて銃撃戦に発展する事が有る。
その可能性が捨てきれない。
その可能性は捨てきれない。
違和感が強くなる。
違和感が強くなる時ほど自分に敵意や殺意や悪意が向けられている時だ。
違和感を確定する時間が遅れると、脳内での判断力が鈍ったままなので先手を取られ易い。
別の案件で、勘違いで撃たれたにしても誤解を解く台詞を考える時間が有れば心に余裕が出る。
焦るなと言い聞かせる。怯えるなと言い聞かせる。勘繰りと焦燥と恐怖は違う。
S&W M351cを懐に仕舞う気はしなかった。
自分が標的の可能性も充分に有る。三下の気配ではない。
違和感が具体的な形を成し、心臓に突き刺さるようなイメージが脳裏に浮かぶ。
――――……プロ。
江利子は半分の可能性を確定した。
敵は敵だ。
勘違いでも、自分が標的でも、自分が攻撃されると前提して行動することにした。
自分を追う気配は無い。
それが判断材料。
気配の消し方や『違和感の抱かせ方』が巧すぎる。
プロならば陥る錯覚を逆手に利用されている。
プロならではの思考ゆえに、それ以外の思考にスイッチするのが苦手な人間が多い。
誰もが「自分ならばこうする」と考えるが、自分と云う主観を通すからこその錯覚を利用した罠。
何もしなくとも自問自答や恐慌状態に陥り勝手に自爆する。
呼吸を2回。
充分に脳に酸素を供給。
自然呼吸に近い腹式呼吸。
頚部や額や腋に冷感を意識する。
リセットとクリア。
黴臭い路地を真っ直ぐ走る。
数m走ったところで辻を曲がる。更に走り更に辻を曲がる。ランダムな移動。標的が潜むとされる位置からは少しずれている。
相手がプロの意識を誘うタイプの心理戦の遣い手ならば、これで江利子は『これで自分の戦術は看破された』と悟る。
そして、相手は次の手に出る。
プロならば二の手、三の手も何段構えにして用意している。計画の変更や予想の範疇外は想定の範囲内だ。
それでも尚、追ってくるのなら、応戦も已む無し。
空を裂く。
銃声。
ベニヤ板が数枚、貫通する。
「!」
――――挑発が行き過ぎたかな?
思わずクスリと笑う江利子。
右手のS&W M351cを強く握り直す。左手にスピードローダーを抜いて待機させる。
銃声からして32口径。自動拳銃。少々の消音。
サプレッサーを装着しているかそれに近い機構だ。
銃声は2発、3発と続く。
サプレッサーは音を『減らす』だけだ。その程度の効果しかない。
映画で見るような完全に近い消音を再現しようと思えば、かなり大型で取り回しが不自由なサイズになるだろう。
それでもこの状況で、酔狂ではなく計算してサプレッサーを用いていると云うのならそれは、『距離の韜晦』だ。
お互いが視認できる、開けた場所なら無意味だが、狭い空間で態と音が計り難いサプレッサーを用いるのならそれが妥当だろう。
「…………チッ」
小さく舌打ち。
狭い空間で好き勝手に発砲していれば、自分の銃声で鼓膜が痛む。
鼓膜を破ろうものなら瞬間的に平衡感覚を失いかねない。相手はそこまで読んでいるのか? サプレッサーによる減音で距離感を掴みにくくされたのなら厄介だ。
走りながらそこまで考えた。
今は足を止められない。狙撃されているポイントが分からない。壁の向こうか背後か屋根の上か……疑う場所は多数。
江利子の足元や辻を曲がった角に着弾。
背後……否、『後ろ』からの狙撃。銃声は一つ。
狙撃の腕前は不明。態と外しているのか、命中させるほどの腕が無いから心理戦で先制してきたのか。
背後の気配に圧される。
一人。足音が『重なる』。
違和感が氷解。
足音だ。
江利子の足音に合わせて歩いている。
歩幅や重心移動もコピーしている。
人間の感覚は視界が8割。それ以外はその他。然し、視界が塞がれると聴覚が飛躍的に伸びて、更に動物的勘が鋭くなる人間が沢山居る。
江利子は目が見えなければ銃撃戦の継続など不可能だと、最初から、全くの暗闇を想定した訓練を積んでいない。
今はその視界を塞がれた気分だ。
頼っていた目が見えるのに一時的に役に立たない。気がつけば相手の銃弾は江利子の体をかする程度の位置に着弾している。
耳を頼りにしていたのに、その耳が違和感に妨害されて今まで敵の気配を正確に察知できなかった。
『敵の数を正確に察知できたから』勝てる保証は無い。逆に技術に舌を巻いて逃げ出したくなる場合も有る。
明らかな殺意が伝わる。……それもいたぶってから殺害しようとする悪意も感じられる。耳から違和感が消えただけでそれほどの情報を拾う事ができた。
汗が背中と腋をぐっしょりと濡らす。
喉が渇く。
いつものジャケットを脱ぎ捨てたくなるほど体が熱い。
緊張で鳩尾だけが異様に冷たい。
どれだけ心に余裕を持つ事を標榜していても、鉄火場の中心で立っているときの緊張には慣れない。
国内の適正価格で購入したとしても1発100円前後で購入できる9mmパラベラムがバイタルゾーンに命中するだけで終わる生き方なのだ。
たった100円。
非合法ルートならもっと安い値段で購入できるタマが命中しただけで終わる命。
『小銭程度の価値しかないタマに全身全霊を懸けている』のが荒事師だ。即ち、自分たちの命や問題の解決方法は小銭数枚でカタがつく程度の問題であり、それに人生を捧げている仕事だ。
ゆえに、コストが発生する。
コストを抑えて速やかにスマートに仕留めるからこその、『殺し屋』『契約ヒットマン』といえる。
銃弾に追い立てられる『素振りを見せる』。振り返る暇も無く逃げ回っている姿を『演じる』。
半分本気で半分余裕だ。
振り向くと云う知的好奇心を煽られて、少しでも背後に視線を向けようものなら仕留められる。
根拠は無いが、そんな気がした。敵はその一瞬を狙っているのだと感じた。……全く根拠は無い。
違和感が消失した今は、違和感よりも直感に任せるほうが賢いだろう。
体の手綱を意識外に預けるのは穏やかな心境ではないが、状況に応じてのスイッチも時には必要だ。自分の信念を貫くよりも依頼を遂行して帰還するのが最重要だから。
最重要目標の殺害を果たせずに生還しても、それはどんなに壮絶なスペクタクルでも遁走の一言で片付けられる。
銃声が、続く。
辻をランダムに曲がりながら暗がりへと進む。外灯は無い。月明かりも群雲に消えそうだ。
サプレッサーからの発砲音を江利子は既に『聞き分けていた』。
サプレッサーは2種類。2人の人間が居るのかと思ったが、発砲のロスや発砲のタイミングを計算すると一人の人間が2挺拳銃で32口径の自動拳銃を操っていると読んだ。
『こんなに狭い場所を並走して発砲できるだけの幅は無い』。
彼女がランダムに見えるかのようなルートを辿っていたが、実際にはどんどん狭い道を選んで進んでいた。
結果的に、左右に壁、屋根から見下ろせない、辻を曲がる際の踵の音……発砲するなら背後に一人立つ幅しかない。
江利子と歩幅を合わせているのは流石だ。
人数の隠蔽工作もなかなかの腕前だ。
だが、『一人しか入り込めない路地』を、江利子を合わせて合計3人も走るのは物理的に無理が有る。
その可能性が捨てきれない。
その可能性は捨てきれない。
違和感が強くなる。
違和感が強くなる時ほど自分に敵意や殺意や悪意が向けられている時だ。
違和感を確定する時間が遅れると、脳内での判断力が鈍ったままなので先手を取られ易い。
別の案件で、勘違いで撃たれたにしても誤解を解く台詞を考える時間が有れば心に余裕が出る。
焦るなと言い聞かせる。怯えるなと言い聞かせる。勘繰りと焦燥と恐怖は違う。
S&W M351cを懐に仕舞う気はしなかった。
自分が標的の可能性も充分に有る。三下の気配ではない。
違和感が具体的な形を成し、心臓に突き刺さるようなイメージが脳裏に浮かぶ。
――――……プロ。
江利子は半分の可能性を確定した。
敵は敵だ。
勘違いでも、自分が標的でも、自分が攻撃されると前提して行動することにした。
自分を追う気配は無い。
それが判断材料。
気配の消し方や『違和感の抱かせ方』が巧すぎる。
プロならば陥る錯覚を逆手に利用されている。
プロならではの思考ゆえに、それ以外の思考にスイッチするのが苦手な人間が多い。
誰もが「自分ならばこうする」と考えるが、自分と云う主観を通すからこその錯覚を利用した罠。
何もしなくとも自問自答や恐慌状態に陥り勝手に自爆する。
呼吸を2回。
充分に脳に酸素を供給。
自然呼吸に近い腹式呼吸。
頚部や額や腋に冷感を意識する。
リセットとクリア。
黴臭い路地を真っ直ぐ走る。
数m走ったところで辻を曲がる。更に走り更に辻を曲がる。ランダムな移動。標的が潜むとされる位置からは少しずれている。
相手がプロの意識を誘うタイプの心理戦の遣い手ならば、これで江利子は『これで自分の戦術は看破された』と悟る。
そして、相手は次の手に出る。
プロならば二の手、三の手も何段構えにして用意している。計画の変更や予想の範疇外は想定の範囲内だ。
それでも尚、追ってくるのなら、応戦も已む無し。
空を裂く。
銃声。
ベニヤ板が数枚、貫通する。
「!」
――――挑発が行き過ぎたかな?
思わずクスリと笑う江利子。
右手のS&W M351cを強く握り直す。左手にスピードローダーを抜いて待機させる。
銃声からして32口径。自動拳銃。少々の消音。
サプレッサーを装着しているかそれに近い機構だ。
銃声は2発、3発と続く。
サプレッサーは音を『減らす』だけだ。その程度の効果しかない。
映画で見るような完全に近い消音を再現しようと思えば、かなり大型で取り回しが不自由なサイズになるだろう。
それでもこの状況で、酔狂ではなく計算してサプレッサーを用いていると云うのならそれは、『距離の韜晦』だ。
お互いが視認できる、開けた場所なら無意味だが、狭い空間で態と音が計り難いサプレッサーを用いるのならそれが妥当だろう。
「…………チッ」
小さく舌打ち。
狭い空間で好き勝手に発砲していれば、自分の銃声で鼓膜が痛む。
鼓膜を破ろうものなら瞬間的に平衡感覚を失いかねない。相手はそこまで読んでいるのか? サプレッサーによる減音で距離感を掴みにくくされたのなら厄介だ。
走りながらそこまで考えた。
今は足を止められない。狙撃されているポイントが分からない。壁の向こうか背後か屋根の上か……疑う場所は多数。
江利子の足元や辻を曲がった角に着弾。
背後……否、『後ろ』からの狙撃。銃声は一つ。
狙撃の腕前は不明。態と外しているのか、命中させるほどの腕が無いから心理戦で先制してきたのか。
背後の気配に圧される。
一人。足音が『重なる』。
違和感が氷解。
足音だ。
江利子の足音に合わせて歩いている。
歩幅や重心移動もコピーしている。
人間の感覚は視界が8割。それ以外はその他。然し、視界が塞がれると聴覚が飛躍的に伸びて、更に動物的勘が鋭くなる人間が沢山居る。
江利子は目が見えなければ銃撃戦の継続など不可能だと、最初から、全くの暗闇を想定した訓練を積んでいない。
今はその視界を塞がれた気分だ。
頼っていた目が見えるのに一時的に役に立たない。気がつけば相手の銃弾は江利子の体をかする程度の位置に着弾している。
耳を頼りにしていたのに、その耳が違和感に妨害されて今まで敵の気配を正確に察知できなかった。
『敵の数を正確に察知できたから』勝てる保証は無い。逆に技術に舌を巻いて逃げ出したくなる場合も有る。
明らかな殺意が伝わる。……それもいたぶってから殺害しようとする悪意も感じられる。耳から違和感が消えただけでそれほどの情報を拾う事ができた。
汗が背中と腋をぐっしょりと濡らす。
喉が渇く。
いつものジャケットを脱ぎ捨てたくなるほど体が熱い。
緊張で鳩尾だけが異様に冷たい。
どれだけ心に余裕を持つ事を標榜していても、鉄火場の中心で立っているときの緊張には慣れない。
国内の適正価格で購入したとしても1発100円前後で購入できる9mmパラベラムがバイタルゾーンに命中するだけで終わる生き方なのだ。
たった100円。
非合法ルートならもっと安い値段で購入できるタマが命中しただけで終わる命。
『小銭程度の価値しかないタマに全身全霊を懸けている』のが荒事師だ。即ち、自分たちの命や問題の解決方法は小銭数枚でカタがつく程度の問題であり、それに人生を捧げている仕事だ。
ゆえに、コストが発生する。
コストを抑えて速やかにスマートに仕留めるからこその、『殺し屋』『契約ヒットマン』といえる。
銃弾に追い立てられる『素振りを見せる』。振り返る暇も無く逃げ回っている姿を『演じる』。
半分本気で半分余裕だ。
振り向くと云う知的好奇心を煽られて、少しでも背後に視線を向けようものなら仕留められる。
根拠は無いが、そんな気がした。敵はその一瞬を狙っているのだと感じた。……全く根拠は無い。
違和感が消失した今は、違和感よりも直感に任せるほうが賢いだろう。
体の手綱を意識外に預けるのは穏やかな心境ではないが、状況に応じてのスイッチも時には必要だ。自分の信念を貫くよりも依頼を遂行して帰還するのが最重要だから。
最重要目標の殺害を果たせずに生還しても、それはどんなに壮絶なスペクタクルでも遁走の一言で片付けられる。
銃声が、続く。
辻をランダムに曲がりながら暗がりへと進む。外灯は無い。月明かりも群雲に消えそうだ。
サプレッサーからの発砲音を江利子は既に『聞き分けていた』。
サプレッサーは2種類。2人の人間が居るのかと思ったが、発砲のロスや発砲のタイミングを計算すると一人の人間が2挺拳銃で32口径の自動拳銃を操っていると読んだ。
『こんなに狭い場所を並走して発砲できるだけの幅は無い』。
彼女がランダムに見えるかのようなルートを辿っていたが、実際にはどんどん狭い道を選んで進んでいた。
結果的に、左右に壁、屋根から見下ろせない、辻を曲がる際の踵の音……発砲するなら背後に一人立つ幅しかない。
江利子と歩幅を合わせているのは流石だ。
人数の隠蔽工作もなかなかの腕前だ。
だが、『一人しか入り込めない路地』を、江利子を合わせて合計3人も走るのは物理的に無理が有る。