聴け、死の尤度を。

 どうせ中身は暗号化されたURLしか羅列していないだろう。
 バッグをソファに投げ出して、エアコンを作動させる。まだまだ暑い。部屋全体が熱を帯びている。暑苦しい不織布のマスクを外して手洗いとうがいを済ませる。
 携帯電話を取り出し、メールを確認。
 然るべき手順を踏んでURLを辿る。
「…………」
 予想通りに仕事の内容だ。
 キッチンの作業用に置いた丸いストゥールに腰掛けて画面をタップし続ける。
 少し前まではこちらから能動的に仕事を選ぶ為に掲示板を徘徊したものだが、この疫病が続く世の中になってからは掲示板も流行らず、直接、殺し屋稼業の宣伝をしている。
 掲示板と情報屋経由の宣伝。
 それでも仕事は減る一方だった。
 なので、今回の仕事はえり好みをしている余裕は無かった。
 依頼人……殺して欲しい人間は相変わらずだが、支払う余裕が無い為に躊躇するケースが増えている。
 フリーランスの殺し屋を一応表看板にしているが、専属契約で何処かの組織の庇護に与ろうかと考えているほどだ。
 ストゥールを換気扇の下に移動させ、引き出しから取り出したアルミホイルで簡易的な灰皿を作る。
 ソファに放り出していたバッグから茶色の紙箱を取り出し、中から葉巻を一本抜き出す。
 グアンタナメラ・デシモス。
 ハバナ産の手頃なドライシガー。
 中指の2倍ほどの長さ。小指より僅かに細い程度の太さ。吸い口はカット済み。湿度を気にしなくてもいいドライシガーなので肩肘張らずに楽しめるので愛飲しているが、今は自分を鎮静させる為にグアンタナメラ・デシモスを口に銜えた。
 余裕を取り戻す儀式のように使い捨てライターで先端を炙る。いつもの安息感を覚える甘味を帯びた木の香りが口内に広がる。
 換気扇に向かって細く長く紫煙を吐く。
――――これで手を打つか……。
 標的は中堅暴力団の三下。
 最近は疫病の影響が顕著に現れてか、金の羽振りが悪くなった組織が足元から瓦解する現象が立て続けに発生している。
 見せしめの為に殺害を依頼されるのだが、その仕事内容に感情は持ち込まないようにしていた。
 今は好き嫌いで仕事を選んでいる時期ではない。
 標的は小物でも逃走ルートに就くまでに仕留めないと敗北だ。
 依頼を遂行できずに、金を稼ぎ損なうだけでなく評判にも傷がつく。手抜きはしない。
 ハバナのドライシガーは3分の1ほどが灰燼に帰した。
 最近のヤクザはリテラシーが下がったと言うが、厳密には若い世代の意識の在り様が変わったと言うべきだろう。
 属する組織より、例え敵対する組織でも給料と福利厚生が格上ならば簡単に転職する。
 忠義や仁義に背くと云う言葉は今では死語になりつつある。
 その転職ついでに、退職金代わりに元の組織の金や非合法な商品をくすねる。その行為自体がどんなに危ない行為なのかも自覚していない。その行為に及んでから、自分は取り返しのつかない事をしていたと気が付いて、転職先に泣きながら助けを請うが、転職先の組織としてもトラブルは避けたいので転職の話は無かったことにされる。
 ……このような経緯で、害虫のように殺害される三下や準幹部が増えている。
 今回もそれと全く同じ要件だ。
 その証拠に、これでもかと言わんばかりに必要な情報や資料が添付されている。依頼人の組織としては速やかに抹殺して、見せしめとしてもらいたいのだ。
 組織内部の引き締めに見せしめを多用するのは、実のところ、トップに対する求心力の低下を伴うので、外注で殺し屋を雇うのは諸刃の剣だ。
 とはいえ、中堅クラスで契約や子飼いの殺し屋を囲っている組織はこの業界では少ない方だ。
 どこも辛い。誰も悪くない。
 疫病が流行らなければこんな悲劇は発生しなかった。
 新入の三下にしても、殆どが表世界からのドロップアウトで、その大元は昨今流行の疫病で職を失ったり借金で首が回らなくなった者も多い。
 世知辛い味がするグアンタナメラ・デシモスをアルミホイルの灰皿に置いて暫し、添付されている情報と資料を眺める。
 世知辛くとも、自分の顔付きが殺し屋の顔になっているのを実感する。
 脳内で様々なピースが組み立てられて、殺害から逃走に到る計画立案が複数、構築されつつある。


 夜9時。今日も午前中は暑かった。
 まだ熱中症警戒情報が発令されている。
 夕方になり、少し涼しい風が吹くようになった。それでも湿度が高く、少し動けば汗が吹き出る。最近では万が一に備えての鎮痛剤と抗生物質に加え、塩飴と冷却ジェルシートも定番の装備になっていた。
 日が暮れて月明かりが頼もしい時間帯。
 風は弱い。
 湿度のお陰で感覚以上に不快指数が高い気がする。
 辺りは静か。廃屋の方が多い住宅街。殆どが長屋で取り壊しに着手されている区画も多い。
 行く宛が無いのか、権利を実行しているのか、こんな寂れた、忘れられたかのような区域に留まって生活している人間が居ると思うと胸が苦しくなる。
 同情ではなく、自分も道が違えばここで住んでいたのかもしれないと云う危惧だ。
 廃棄されたに等しい区画ゆえに人工の光源が乏しい。
 直線で見通せる辻や路地も少ない。
 道幅も違法な改築と増築を繰り返した結果、都市計画時に立案していた図面と大きく異なる。脳内に叩き込んだ地図の半分くらいは役に立たないと割り切った。
 長屋が連なる路地。灯かりが点く住居も点在して有るが、半分くらいは真っ当な人間の住処とは思えない。財産レベルでの優劣ではなく、『ここで住む人間』を演じている雰囲気すらある。誰も彼もが脛に傷を持つ世界を見せる。
――――道理で……。
 道理で、事前の調査でこの区画に住む人間の居住実態が『不明』なわけだ。
 何が収入源か分からないのに、居住する権利だけ持っている人間が細々と生活する『世界』。
 すなわち、容赦なく発砲できる安心感。
 発砲音を聞いても誰も通報しない。誰もが痛くも無い腹を探られる危険を感じている。
 S&W M351cを灰色の麻のジャケットから抜き出す。左脇から抜き出されたS&W M351cは今夜も艶消しの黒い肌が、早く暗がりに紛れようと足掻いているようだった。
 標的は一人。
 潜む物件も判明している。
 事前に与えられた情報と資料が多いと作戦立案が楽だ。
「……」
 ふと、足を止める。このまま真っ直ぐ進み、幾つかの辻を曲がって辿り着くはずの、長屋の一室に標的は居る。
 突然の感覚で、直感と違和感のどちらを怪訝に思うか? と訊ねられれば江利子は違和感を優先する。
 ざわつく胸騒ぎは危険を感じた。
 直感かと思ったが、一時保留して、深呼吸。後に歩みを止めて直感を疑う。
 それは違和感に転じる。
――――どうして?
 脳内の生体微電流があらゆるシナプスを駆け巡り、論理的に必要な思考の全てを置いてけぼりにして、江利子は疑問を感じた。
 違和感を纏う疑問。
――――『誰か、居る』……『腕の立つ誰か』が居る……。
 警護専門の護り屋や金で雇った他の三下か、手配した荒事代行業者かと考えを廻らせる。
 どれもこれも該当する。
 人数を『気配として察知できない』暗闇は、虎の潜む洞窟に飛び込む覚悟を強いた。
――――誰が? 何人? 何処の誰?
――――標的じゃない。
――――他の『業者とかちあった?』
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