キサラギ・バラード
――――この女、こんな小さな遮蔽に隠れていたの!
自分がぶつかった柱を見て全て理解した。見た目は幽鬼でも、幽鬼の如く現れたのではない。
先ほどまで居た位置に尚江頼子の切っ先が突き刺さる。
そして、ガラスを引っ掻くような不快な音を立てて白い刃が壁を削りながら三代の首筋に向かう。
「!」
反射的にベルサM25を尚江頼子の足元に数発叩き込む。足の甲に孔を開けてやるつもりだった。彼女は難なく、飛び退く。
1mの距離が保たれたままの2人の間に初めて、1m50cmの空間が出来た。
三代は先ほど廊下で4人のヤクザを片付けた時のように、擬似フルオートのパンプファイヤを仕掛ける。
残弾など、最早数えていない。咳き込むような連射音が部屋中に響く。耳を劈く。空薬莢が舞い散り、床に無秩序に散乱する。
尚江頼子は黒いトレンチコートを翻し、人型の旋風を思わせる回転を見せると、たなびくコートを体に巻きつけてミイラ状になる。
「……!」
直ぐに悟る三代。
何の打撃にもなっていない。
確かに胴体に2、3発は命中したはず。
思考と別の動きをするように、長い弾倉を自重で落下させて通常弾倉を叩き込む。
そしてスライドを戻そうと左手をスライドに掛けたとき……。
「そんな!」
流石に死を『確認』する。
尚江頼子の切っ先が、スライドが後退して開いたままの薬室に差し込まれてスライドが元に戻せない。つまり、新しい実包を装填できない。
「ぐぐ……」
「……」
二人とも、睨み合う。
折角の1m50cmのアドバンテージが、一瞬で50cmに縮まった。
ゆるりと尚江頼子の体をミイラのように拘束していた黒いトレンチコートが解ける。
足元にポツポツと22口径の弾頭が転がり落ちる。
その黒いコートは伊達では無いらしい。
何かしらの強靭な防弾繊維で編んでいるのは明らかだ。
「!」
「!」
対峙して膠着して、瞬き一回分の直後に二人同時に拳を繰り出した。
三代はスライドを閉じる事をやめた左手を、尚江頼子は健在な右手を同時に繰り出した。
拳同士が中空で交差して互いの腕を掠り、互いの顔面を捉える。
――――??
――――え?
三代は拳に全く感触を覚えなかった。
確かに殴った。
確かに尚江頼子の首は殴られた反動で向こうを向いた。
彼女の黒髪が乱れて昔の負傷……銃弾で欠けた右耳朶が見えた。
なのに……全く、手応えが無い。
正に柳の枝を殴ったようだ。
尚江頼子の拳は三代の頬に火傷しそうな擦過傷を作り、フレームレスの眼鏡が砕けながら派手に弾け飛んだ。
右頬がヒリヒリと痛む。
ピーラーでざっくりと頬の表皮を削られたような痛みだ。
まともに顔面に受けていたら首の骨が折れていたかもしれない。
首があらぬ方向を向いていたはずの、尚江頼子の首がグルンと回って元に戻る。
人間と戦っている気がしない。
歯を食い縛って尚江頼子にタックルを仕掛ける。
足を踏ん張り、腰を捻り、その時に発生した遠心力を背筋を伝わらせて肩甲骨全面に存分に乗せて体当たり。中国拳法で云う靠法に似た運動エネルギーがまともに尚江頼子の体に体当たり。
尚江頼子の体の芯を捉えて彼女は大きく後方に吹っ飛ばされる。しばしば中国拳法の八極拳は最大の打撃力を持つ拳法だと流布されるが、それの正体が靠法だ。鉄山靠と呼ばれる技は遠心力と重心バランスを応用した体当たりゆえに、恰も対戦相手は派手に遠くに吹っ飛ばされるので絶大な破壊力が働いたと勘違いされる。
床に転がった尚江頼子は横転を続けてエネルギーを分散させた後、健在な右手で床を押し、体の回転を後転に変形させると、黒い球体が床を転がっているように移動した。
あの速度と移動の仕方では三代の体当たりなど、全くのダメージにはなっていないだろう。
トッと右手で床を押し、左軸足で床を蹴った尚江頼子は再び黒いトレンチコートを翻しながら立ち上がる。
コウモリが集まって人型をなす吸血鬼のようだった。
勿論、その隙を見逃す三代ではない。22口径を次々と叩き込もうとするが、スチールデスクやソファの上をヒラリヒラリと飛び跳ねる彼女の裾に命中するだけだ。
しかも命中という表現は正しくない気がした。22ロングライフルの威力が吸収されて床にポトポトと落ちるのだ。風穴すら開かない。
「!」
飛び上がる尚江頼子。
失策だったと唸る三代。
視界の7割以上を、広げた黒いトレンチコートで覆い隠される。
彼女の黒いスーツと黒いシャツと黒いネクタイが見えたような気がしたが、それも直ぐにフェイドアウトするように視界から消える。
顔にコウモリが張り付きにきた感覚。
何もかもが拙い!
敵は22口径が効かない。
自分より身体能力が上。
場数でも恐らく負けている。
閉鎖的狭空間で、刃物に対して拳銃では一気に逆転する要素だらけだ。
黒い世界で白銀の糸が閃く。
間髪入れず右手を首元に宛がう。
「!」
「……」
ベルサM25のスライド下部とトリガーガードの付け根辺りに義手の刃が弾かれた。
火花が散る。
冷や汗が全身から吹き出る。
ベルサM25を数瞬でも翳すのが遅かったら、三代の首は刎ね飛ばされていた。
兎に角距離を取らねばと焦る一方。
尚江頼子は切り付けるだけでなく、突き業も鋭く素早く、小賢しい。距離を取ろうにも尚江頼子の軸足爪先から義手の切っ先まで大きく伸びると2m以上の間合いが有る。
小刻みなバックステップでは間に合わない。
気がつけばフライトジャケットの襟元がズタズタに切り裂かれている。
手元が涼しいと思ったら、袖の手首内側もいつの間にか切りつけられて、袖が破れている。手首の腱を狙われていたらしい。実際に切り付けられた創傷の自覚は無いが、それが現実のものになるのも時間の問題だ。
遠くで市倉が独りで奮戦している銃声が聞こえる。
駆け出せ。
自分に命じる。
弱腰になっている、臆病風に吹かれ始めている自分を奮起させる三代。
動け動けと何度も心の中で叫ぶ。
尚江頼子の首を狙った凶刃を、ベルサM25で防いで1秒も経過していない時間が過ぎた。
まだ視界の端に火花がスローモーションのように飛び散っている。
行け、と心の中の自分が叫んだ。
言われなくとも、と心の中のメタ認知の自分が叫んだ。
三代は一歩、猛然と踏み出した。爪先からの、前方突入から尚江頼子の返す刃の下を潜りながら健在な右手を左手で制して……。
脳内でチェスのようにシミュレーションが展開される。
踏み出した、たった一歩から無限の戦略と無数の戦術を思考する。
さあ、踏み出せ。
分かってる!
三代は軸足を踏ん張って右爪先を強く踏んだ。
途端。
え? と三代の頭が一つ低くなるのと、尚江頼子の目が邪悪に笑ったのが同時だった。
そして三代が薬莢を踏みつけて勢いよく転倒のモーションに『なってしまった』のと、尚江頼子の目が全くの意表を衝かれた顔に変貌したのも同時に起きた。
三代は、自分の空薬莢を踏みつけるドジをしでかした。
尚江頼子は、既にその刎ね飛ばす首に照準を定めていた。
「……」
「……」
コンマ数秒間、気まずい。
微妙な空気。
意識より体が先に反射神経で動いてしまうプロ同士の命の遣り取りなら偶に発生する、場面。
何しろ、本人たちは考えがあって体を動かす前に動物的本能が先走って体だけが動いてしまうのだ。
自分がぶつかった柱を見て全て理解した。見た目は幽鬼でも、幽鬼の如く現れたのではない。
先ほどまで居た位置に尚江頼子の切っ先が突き刺さる。
そして、ガラスを引っ掻くような不快な音を立てて白い刃が壁を削りながら三代の首筋に向かう。
「!」
反射的にベルサM25を尚江頼子の足元に数発叩き込む。足の甲に孔を開けてやるつもりだった。彼女は難なく、飛び退く。
1mの距離が保たれたままの2人の間に初めて、1m50cmの空間が出来た。
三代は先ほど廊下で4人のヤクザを片付けた時のように、擬似フルオートのパンプファイヤを仕掛ける。
残弾など、最早数えていない。咳き込むような連射音が部屋中に響く。耳を劈く。空薬莢が舞い散り、床に無秩序に散乱する。
尚江頼子は黒いトレンチコートを翻し、人型の旋風を思わせる回転を見せると、たなびくコートを体に巻きつけてミイラ状になる。
「……!」
直ぐに悟る三代。
何の打撃にもなっていない。
確かに胴体に2、3発は命中したはず。
思考と別の動きをするように、長い弾倉を自重で落下させて通常弾倉を叩き込む。
そしてスライドを戻そうと左手をスライドに掛けたとき……。
「そんな!」
流石に死を『確認』する。
尚江頼子の切っ先が、スライドが後退して開いたままの薬室に差し込まれてスライドが元に戻せない。つまり、新しい実包を装填できない。
「ぐぐ……」
「……」
二人とも、睨み合う。
折角の1m50cmのアドバンテージが、一瞬で50cmに縮まった。
ゆるりと尚江頼子の体をミイラのように拘束していた黒いトレンチコートが解ける。
足元にポツポツと22口径の弾頭が転がり落ちる。
その黒いコートは伊達では無いらしい。
何かしらの強靭な防弾繊維で編んでいるのは明らかだ。
「!」
「!」
対峙して膠着して、瞬き一回分の直後に二人同時に拳を繰り出した。
三代はスライドを閉じる事をやめた左手を、尚江頼子は健在な右手を同時に繰り出した。
拳同士が中空で交差して互いの腕を掠り、互いの顔面を捉える。
――――??
――――え?
三代は拳に全く感触を覚えなかった。
確かに殴った。
確かに尚江頼子の首は殴られた反動で向こうを向いた。
彼女の黒髪が乱れて昔の負傷……銃弾で欠けた右耳朶が見えた。
なのに……全く、手応えが無い。
正に柳の枝を殴ったようだ。
尚江頼子の拳は三代の頬に火傷しそうな擦過傷を作り、フレームレスの眼鏡が砕けながら派手に弾け飛んだ。
右頬がヒリヒリと痛む。
ピーラーでざっくりと頬の表皮を削られたような痛みだ。
まともに顔面に受けていたら首の骨が折れていたかもしれない。
首があらぬ方向を向いていたはずの、尚江頼子の首がグルンと回って元に戻る。
人間と戦っている気がしない。
歯を食い縛って尚江頼子にタックルを仕掛ける。
足を踏ん張り、腰を捻り、その時に発生した遠心力を背筋を伝わらせて肩甲骨全面に存分に乗せて体当たり。中国拳法で云う靠法に似た運動エネルギーがまともに尚江頼子の体に体当たり。
尚江頼子の体の芯を捉えて彼女は大きく後方に吹っ飛ばされる。しばしば中国拳法の八極拳は最大の打撃力を持つ拳法だと流布されるが、それの正体が靠法だ。鉄山靠と呼ばれる技は遠心力と重心バランスを応用した体当たりゆえに、恰も対戦相手は派手に遠くに吹っ飛ばされるので絶大な破壊力が働いたと勘違いされる。
床に転がった尚江頼子は横転を続けてエネルギーを分散させた後、健在な右手で床を押し、体の回転を後転に変形させると、黒い球体が床を転がっているように移動した。
あの速度と移動の仕方では三代の体当たりなど、全くのダメージにはなっていないだろう。
トッと右手で床を押し、左軸足で床を蹴った尚江頼子は再び黒いトレンチコートを翻しながら立ち上がる。
コウモリが集まって人型をなす吸血鬼のようだった。
勿論、その隙を見逃す三代ではない。22口径を次々と叩き込もうとするが、スチールデスクやソファの上をヒラリヒラリと飛び跳ねる彼女の裾に命中するだけだ。
しかも命中という表現は正しくない気がした。22ロングライフルの威力が吸収されて床にポトポトと落ちるのだ。風穴すら開かない。
「!」
飛び上がる尚江頼子。
失策だったと唸る三代。
視界の7割以上を、広げた黒いトレンチコートで覆い隠される。
彼女の黒いスーツと黒いシャツと黒いネクタイが見えたような気がしたが、それも直ぐにフェイドアウトするように視界から消える。
顔にコウモリが張り付きにきた感覚。
何もかもが拙い!
敵は22口径が効かない。
自分より身体能力が上。
場数でも恐らく負けている。
閉鎖的狭空間で、刃物に対して拳銃では一気に逆転する要素だらけだ。
黒い世界で白銀の糸が閃く。
間髪入れず右手を首元に宛がう。
「!」
「……」
ベルサM25のスライド下部とトリガーガードの付け根辺りに義手の刃が弾かれた。
火花が散る。
冷や汗が全身から吹き出る。
ベルサM25を数瞬でも翳すのが遅かったら、三代の首は刎ね飛ばされていた。
兎に角距離を取らねばと焦る一方。
尚江頼子は切り付けるだけでなく、突き業も鋭く素早く、小賢しい。距離を取ろうにも尚江頼子の軸足爪先から義手の切っ先まで大きく伸びると2m以上の間合いが有る。
小刻みなバックステップでは間に合わない。
気がつけばフライトジャケットの襟元がズタズタに切り裂かれている。
手元が涼しいと思ったら、袖の手首内側もいつの間にか切りつけられて、袖が破れている。手首の腱を狙われていたらしい。実際に切り付けられた創傷の自覚は無いが、それが現実のものになるのも時間の問題だ。
遠くで市倉が独りで奮戦している銃声が聞こえる。
駆け出せ。
自分に命じる。
弱腰になっている、臆病風に吹かれ始めている自分を奮起させる三代。
動け動けと何度も心の中で叫ぶ。
尚江頼子の首を狙った凶刃を、ベルサM25で防いで1秒も経過していない時間が過ぎた。
まだ視界の端に火花がスローモーションのように飛び散っている。
行け、と心の中の自分が叫んだ。
言われなくとも、と心の中のメタ認知の自分が叫んだ。
三代は一歩、猛然と踏み出した。爪先からの、前方突入から尚江頼子の返す刃の下を潜りながら健在な右手を左手で制して……。
脳内でチェスのようにシミュレーションが展開される。
踏み出した、たった一歩から無限の戦略と無数の戦術を思考する。
さあ、踏み出せ。
分かってる!
三代は軸足を踏ん張って右爪先を強く踏んだ。
途端。
え? と三代の頭が一つ低くなるのと、尚江頼子の目が邪悪に笑ったのが同時だった。
そして三代が薬莢を踏みつけて勢いよく転倒のモーションに『なってしまった』のと、尚江頼子の目が全くの意表を衝かれた顔に変貌したのも同時に起きた。
三代は、自分の空薬莢を踏みつけるドジをしでかした。
尚江頼子は、既にその刎ね飛ばす首に照準を定めていた。
「……」
「……」
コンマ数秒間、気まずい。
微妙な空気。
意識より体が先に反射神経で動いてしまうプロ同士の命の遣り取りなら偶に発生する、場面。
何しろ、本人たちは考えがあって体を動かす前に動物的本能が先走って体だけが動いてしまうのだ。