キサラギ・バラード

 その後、九死に一生を得る脱出を果たし、雑踏の路地でぽつんと佇んでいた。
 自分がどのような道を辿って、どのような手段で逃げ果せたのかは覚えていない。
 自分と同じく、逃げる事が出来た同郷人に対して気にかけている場合ではなかった。
 見知らぬ国で放り出されたと思いきや、『部長』がポケットに捻じ込んでくれた3枚の封筒の中身が早くも役に立つ。
 自分の偽造された戸籍の写しと、セーフハウスが記された地図、それに自分達を買い取った組織と協定を結んでいた組織への『紹介状』だった。
 『紹介状』……【この商品は高価なので優遇することを願う】と言う主旨の嘆願書でもあった。
 そして、いつの間にかそのポケットに落とし込まれていたのが『部長』がいつも腕に巻いていたロレックス・デイデイトだった。
 『部長』は良く冗談交じりに、「クラブで有り金を全部持っていかれたり、女に貢ぐ時には取り敢えず、高価なモノを現金の代わりに置いていけばいい」と言っていた。その言葉の意味は分からなかったが、友原三代と云う名を得て新しい棲家で暫くしたら、ふと理解した。
 三代に対する手切れ金であり慰謝料であり、これからの生活費の足しなのだと。
 深い付き合いの有る組織の人間から託された、商品と云う名の『客人』である三代からロレックスを取り上げる事をしない人間たちに囲まれていた。
 暴力と非人道の世界に住む人間でも、教養と知識と良識を持っていれば弁えるべきものは弁えて厳しく自身を律するのだと。
 その、名も知らぬ組織に厄介になっている間に、只飯を食らわせるわけにはいかないと、様々な『現場』で経験を積まされた。
 怪我をしたことも有る。鉄火場の最中に初潮が訪れてパニックを起こしたことも有る。酷い高熱に魘されていても『部長』の顔に泥を塗るまいと現場に出た事も有る。
 荒事をこなす為の技術よりも、荒事をこなす際のトラブルに見舞われても完遂する知恵と覚悟を学んだ。
 或る日……本当に或る日突然、三代はその拠り所の組織を追い出された。
 理由は簡単だった。
 『商品として面倒を見ていたが買い手が付かずに廃棄された』のだ。その理由を言い渡された時は目の前が真っ暗になったが、組織で面倒を見ていてくれた三下の一人がこっそりと教えてくれた。
「お前、元々、売られる予定は無かったんだぜ。生活していけるだけの『チカラ』を付けたら適当に追い出してくれって『あのオヤジさん』の書類に書いて有った。勿論、くせぇ言葉だがな。自分たちの組織が終わりになった時に捌けなかった売りモンを逃がして少しでも組織の罪状を軽くしようと思ってたんじゃね?」
 実は生き残っていた同郷人も何人かこの組織で引き取っていたらしい。
 放り出された後、嘗て封筒の一つに入っていたセーフハウスの地図を頼りに向かうと、確かに1Kマンションのセーフハウスは確保されており、電気ガス水道も直ぐに使える状態だった。
 1Kマンションの住人全員が脛に傷を持つ人間ばかりだったので、誰も何も詮索しなかった。
 キッチン部分の床下収納を開けると缶詰やミネラルウォーターとともに護身用なのか、ベルサM25と弾薬が混じっていた。
 こうして、『無職時代』の友原三代が生まれた。……当時16歳。
「…………!」
 ハッと三代は我に返る。
 新聞を読んで戦果を確認して、新聞紙の有り難味を噛み締めていたら遠い昔の事を思い出して少しばかり耽っていたらしい。
 記憶が曖昧だとか覚えていないとかそれどころではなかったとか、色々と圧縮された半生だったので、逆に定かでない記憶だからこそ何も忘れられない。
 忘れたいのに思い出せない不思議な記憶。
 夢の中で何か思い出して飛び起きる事が偶に有るが、夢から覚めると何も覚えていない。幸い、睡眠薬に頼る事無く安眠できているので深刻に考えていない。
 そうだ。新聞紙だ。
 日中だが寒い時期だというのに、せかせかと全ての部屋の窓を開放して、ウエス、油紙、今し方読んでいた新聞紙を一番風通しの良い床に広げる。
 調味料や缶詰が並ぶラックの奥から、クリーニングリキッドとブラシ、数本の工具を取り出して、どかっと胡坐を書く。寒さに震えて慌ててニット帽を被りドテラを羽織る。
 ベルサM25のクリーニングを行う。
 通常分解自体は動画サイトで幾らでも効率的な分解方法が見つかるし、トラブルの発見と解決方法も見つかる。
 基本的な構造は世界的に有名なワルサーPPKと変わらないので、目隠ししても組み立てられる。
 勿論無意味な特技だ。目が見えない状況での分解組み立てなど、曲芸だ。目が見えないのに鉄火場で的に弾を当てられるわけが無い。
 ベルサM25は結局、『帰ってきてしまった銃』なのだ。
 様々な銃を遍歴した。荒事師が群雄割拠するこの業界では殺し屋だの鉄砲玉代行業だの護り屋だのは腐るほど居る。圧倒的暴力を解決手段に用いる荒事師は腐るほど居る。
 当初はベルサM25は万が一の護身用として自宅に置いて、マグナムや多弾数オートを遍歴した。
 商売敵や同業者が犇き合う業界で、少しでも差異を出して異なったアピールポイントを持たないとその日の食べ物どころか、弾一発買うのにも苦労する事を知り、更に自分が個人事業主で経営破綻の瀬戸際だと強く自覚すると、少しでも基盤を整えようと情報屋や運び屋、闇医者、武器屋、地下の銀行屋と繋がりを持たねばならないと強く実感した。
 日々アピールポイントを模索している中、『凄く強く大きな暴力』ではなく、『クライアントが望む匙加減が微妙な微妙な暴力』をセールスしようと思考を切り替えた。
 するとマグナムや軍用の多弾数オートでは度が過ぎるので、あらゆる角度から消去と取捨選択を繰り返した結果、ハイベロシティで硬い弾頭の22ロングライフルを使用する拳銃が一番だと考えが至り、自宅で保存していたベルサM25を手に取った。
 22ロングライフルは確かに非力だ。だが、弾薬を選べば限りなく32口径に近い威力が期待できるし、32口径に今一つ及ばない。
 ベルサM25の長い銃身が成せる技だった。銃身が長いとそれだけ弾頭は加速して高威力になる。
 それに都合よく22口径だ。万が一の弾薬の枯渇でも、日本では22口径を使う狩猟用ライフルも多いために銃砲店に押し入れば何とかなる。
 欠点は銃身の磨耗が激しいことだ。これはクリーニングで補える問題ではない。
 ハイベロシティのイエローチップは確かに頼りになるが、ライフリングが早く減って命中精度に影響が出る。今は海の向こうのサードパーティや有志が作っている銃身を武器屋経由で取り寄せている。
 様々な事柄が奇貨として働いた結果、今の友原三代と名乗ることになった女が存在する。
 その事象には何も無駄なことは無いようにさえ思える。
 クリーニングが終わると、手早く後始末をし、部屋の換気終了を確認すると窓を閉めて石油ストーブを点火する。
 エアコンやガスヒーターよりも早く暖まる。リサイクルショップで冬が来る前に買ったものだ。
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