キサラギ・バラード

 気温は限りなく0度に近い。先ほどまで雪がちらついていた。
 風が無い分、マシだといえた。
 血流が悪くなると指先の反応が遅くなり、アドレナリンの循環も鈍くなる。
 三代は暴力を生業にしている割には、繊細な体質だった。男の体躯では無い。鋼のメンタルではない。飽く迄、場数を踏んでいるだけの若い女なのだ。
 この業界でも、若い女は何人も居るが、冬場に誰にも教えてもらわずに使い捨てカイロで指先を温める理屈を体得している人間は少ない。
 23歳と云う年齢だけならば、三代はまだまだ駆け出しの若造だ。
 白い息が邪魔。
 フレームレスの奥の目が無言で物語る。
 眼鏡の曇り止めの効果が切れると面倒臭くなる。
 ただでさえ昨今は疫病の流行でマスク着用が謳われている。昼の街中ではマスクをしない方が目立つ。マスクをすれば途端に眼鏡が曇るので歓迎しない。
 流行している疫病を根幹から治療する特効薬やワクチンの開発と浸透を願うばかりだ。
 眼鏡が曇るのを警戒し、疫病拡散予防のマスクはしない。
 視界が曇る要因は一つでも減らしたい。
 この眼鏡は伊達ではない。レンズが入っている。前にコンタクトレンズを使用していたが、ふとした拍子で外れてしまい、クライアントが満足する仕事を残せなかった過去があるので眼鏡を使用している。経験上、眼鏡はフレーム付きよりフレームレスの方が他人の目には印象が薄く映るのは思わぬ効果を拾った。
 景観を乱すとの理由で、この辺りには防犯カメラは要点にしか設置されていない。
 『人の出入りを記録として残してしまう』と面倒な事が多い組織は、表向きは防犯カメラを設置しているが、実際には記録機能はなく、不寝番が見張っている場合が多い。
 抗争が発生して、組織の人間が出入りする様子を全て記録していたのでは、司直の手が入ったときに言い訳できない事が多いのだ。今から向かう洋館も防犯カメラに記録の機能は無い。
 洋館……正確には洋館を強く意識してデザインされた洋風一戸建て。部屋数は合計で10個。他にも納戸や書斎、大型収納なども備え、パニックルームや地下室も有る。
 洋館を所有する組織が、万が一に見舞われたときに、篭城できるように設計されているが、法律上、中古物件だった。20年以上前に組織が金を出しこの物件を建築し、カタギに売りつけて最近に買い上げた物だ。
 それは勿論、抗争に備えた要塞ではなく、反社会勢力とは全く縁の無い人間が使っていた履歴の有る家屋を購入しただけという事実を作り出すためだ。
 この洋館を買ったカタギの人間は結局、自分達が利用されていたのを知らずにこの家を手放した。手放す理由も、この物件以上に『地価が高い』物件を組織の息の掛かった不動産屋が紹介して購入させて、その購入資金の大半を洋館拵えの家屋で支払わせたのだ。
 大規模な反社会組織が拠点を構えようとすると、必ず治安当局からマークされるので、拠点の一つ確保するのにも大掛かりな改竄と大金と時間を必要とした。
 今夜、三代が暴力の限りを尽くしても洋館内部での出来事は起きなかった事になるだろう。
 曳いては、郊外で勃発している銃撃戦も存在しない事件として片付けられる。
 現場が幾ら増援を要請しても、騎兵隊が駆けつけないとなると、生き残った三下やその指揮官から不満が募る。だが、増援を出そうにも増援が控えている拠点が襲撃されたとなっては増援どころではなくなる。……つまり、助けを寄越せなかった言い訳が立つ。
 言い訳を立たせて、内紛の種を揉み消すとなると、敵対組織に対しても負けてしまった言い訳が出来る。
 襲撃者が敵対組織の嫌がらせだったとしてもだ。
 メンツとプライドで成り立つ上層部は勝ち方以上に負け方に神経を尖らせる。
 メンツとプライドが邪魔をして、動じていない優位性を見せ付けるために、痛いものを痛くないと無理をする。
 茶番。まさに茶番。
 その茶番を、如何にも壮大なオペラで有るかのように、相手組織が悲劇の主人公で浪花節のように涙する機会を与え、じわじわと弱体化していく為の舞台装置として三代のような人間が存在する。
 三代を雇ったクライアントは勿論、敵対組織側。
 三代の仕事が無事に遂行されれば激しい抗争に一段階進む……のではなく、勝利した敵対組織が手打を言い出して、譲歩する為の会談の場を開いて、相手組織を同じ土俵に引きずり出しやすくするのが最終的な目的だ。
 今夜の仕事では負傷者を大勢出せばそれでいい。
 三代の個人的目標には勝ち負けは存在しない。
 極論からすれば、自分の命と引き換えに一人の人間を負傷させればそれも成功の内なのだ。
 内部事情が漏れていることに気がついた組織は、増援を出すのも躊躇い、現場の銃撃戦に増援を出す時間が大幅に遅れる。負傷させるのが一人か複数かの違いだけだ。
 手榴弾を一個だけ放り込めば済む問題でも、絶妙な匙加減で暴力を提供する、暴力のレンタル屋としては、それは職掌から僅かに外れる。
 手榴弾では匙加減が出来ない。爆破でカタがつく問題ならとっくの昔にこの街は市街戦の被害に遭っている。
 壁沿いに歩く。
 長い塀だ。高さは規格どおりの寸法。その塀の上に鉄条網やスパイクや偽装した高圧電流などは無い。
 反社会組織や犯罪組織は規模が大きければ大きいほど、電力の消費量には気を使う。
 抜き打ちの手入れで警官が押し込んで、何も証拠が見つからなくとも、電気の使用量が極端に高いことからガサいれのやり直しをすると、地下や屋根裏で大麻を栽培していたり、合成麻薬を抽出・精製していたり、侵入者対策の違法な電圧の高圧電流を仕掛けていたりと様々だ。
 密輸品の売買を行っていれば室温や湿度、換気などで商品を管理するので、不自然に増設した機器で大量の電気を消費するために犯罪が露見することもしばしば。
 そもそも真っ当な職業に就いていない組織や人間が、膨大な電気代を払えるわけが無い。
 最近では反社会組織向けに電力を融通し足元を見る売電屋も出てきた。エネルギーの確保は裏の世界にまで深刻な問題として取り沙汰されている。
 裏手口に着く。
 何も疑わずにドアノブを左手で回す。
 ステンレススチールのドアがやや軋みながら開く。
 クライアントが内通者を使って鍵を開けておくように指示していたのだ。尤も、その内通者が誰なのか知らない。この敷地内に居るのか、何処かに隠れているのか。……それとも既にこの敷地内からは抜け出したのか。
 芝生を踏みしめる。
 裏手口を潜ると芝生が広がっており、人が頻繁に歩く一直線に芝生は取り除かれて滑り止めを効かせた砂利が敷き詰められている。砂利の上を歩けば細かな音が発生するので避けたのだ。
 目前20m先に洋館の勝手口が見える。
 月明かりで光源は薄っすらと確保されている。
 庭には遮蔽になりそうな樹木は植えられていない。庭石すら無い。
 勝手口を目指して歩きながら、右手を左脇に滑り込ませる。
 そして、抜く。
 ベルサM25。
 基本構造はワルサーPPKのデッドコピーだ。
 アルゼンチン製の射的ピストル。
 22口径10連発。スタイルとしてはワルサーPPKの銃口からロングバレルが突き出しているのと変わらない。
 全長は205mm。重量は740g。プロのスポーツ選手が使う拳銃ではなく、庭先でのプリンキングにうってつけの自動拳銃。
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