キサラギ・バラード

 黒ブチの眼鏡。マッシュウルフの艶やかな黒髪。スレンダーな体型が灰色のレディーススーツの上からでも分かる。
 寒い時期なのに体の取り回しと機動性を優先したのか防寒儀は着ていない。
 年の頃、40前。あのほっそりとしたスーツの何処にそれだけの弾倉を隠しているのか。
 スズメバチの羽音のような特徴的な銃声が唸る。
「……」
 午前10時の幹線道路に挟まれた廃ビル。
 辺りの空気が悪いので排気ガス臭い。
 ビルは取り壊しが決定しているので、足場が組まれてビル全体が養生されている。
 少々の銃声では辺りの通行人には聞かれないだろう。そもそも住宅街と港湾部の間に位置するので普段から人の気配は少ない。
 人の気配が少ないからという理由なのか、短機関銃での乱射に遠慮が無い。
 然し……。
「?」
 ふと銃声が止む。予備弾倉が切れたかと思い、コンパクトを遮蔽の陰から突き出して左右反転した世界を伺う。
 そこには微笑みを浮かべている彼女が、右手にだらりとスコーピオンを提げて立っていた。
「あの尚江が『追い出される』ほどの腕前だからどんなものかと楽しみにしていたら……」
「尚江頼子の仲間か!」
 思わず三代は叫んだ。
「いえ。『手配師として』何度か雇った事が有るだけよ」
 その言葉にぞくりとした。
――――手配師?!
――――あのスコーピオン、やっぱり『あのスコーピオン』か!
 三代の脳内のデータベースに有った、女のスコーピオン使い。
 情報では手配師の事務方に徹して長いはずだ。
 その『伝説の一つ』に数えられる『あのスコーピオン使い』が其処に居た!
「雪代貴子!」
 半ばヤケクソじみた三代の叫び声。
――――と、云う事は……。
 左手側の半身だけが冷水に浸かったように冷たくなった。
 咄嗟に伏せた。
 遮蔽の角から頭部を晒した結果になったが、『まだ、その方がマシだった』。
「こいつ、気がついたよ!」
「!」
 左手側のコンクリの柱から新手の声。
 三代と同年代か少し年上か。
 若いショートカットの女だ。赤いパーカーにデニムパンツの活動的なスタイル。
 元気溌剌が服を着ればこんな感じなのだろう。
 寒い冬の風が吹きすさぶビルの最上階でも、その部分だけ小春日和のような温かさを感じてしまう。にこっと笑った悪戯っぽいその笑顔が不覚にもキュートに見える。
――――やっぱり!
 三代はベルサM25での反撃を放棄した。
 ゆっくりと立ち上がる。
 左手側のコンクリの柱から滑るように現れた元気な娘は、雪代貴子が常に先鋒として現場に繰り出している『綾音』と呼ばれる女のはずだ。 自分と同じベルサ使いだが……格が違う。
 「やってみなければ分からない!」と威勢の良い若者特有の精神で反撃に移る気概すら奪われた。
 『伝説』に謳われる二人が其処に居る。
 元ヤクザの娘、雪代貴子。
 貴子の尖兵、綾音。
 荒事師の業界では、割と福利厚生が充実した『企業』の社長と社員。
 正社員の数だけで見れば零細企業だが、雪代貴子の築いた人脈はあらゆる業界に伸びており、巨大組織の庇護に与る事が出来なかった一匹狼の成り損ねたちが集まる。
 その結果、独自の情報網や、何処の組織にも組しない荒事師や、後始末や補佐を行う運び屋、闇医者、地下銀行、武器屋、清掃業者、斡旋業者などの界隈に広く『細かく』、その勢力は浸透している。
 要するに実力は有るが、コミュニケーション能力の欠落欠如欠陥で一人だと直ぐに『消える』腕利きばかりを集めて仕事を手配している。
 運び屋、闇医者、地下銀行、武器屋、清掃業者、斡旋業者にも対人能力が低くて脱落していく経営主も多い。
 その経営主を救って裏社会の経済を支え、回転させて昇華させて今の地位を築いたのが雪代貴子だ。
 三代の同業者でも、個人事業主として長生きしそうに無かった荒事師が細々と生きている話を耳にして話を聞いてみると、遠からず、雪代貴子の恩恵を受けている者が多い。
 その裏社会の細腕繁盛記の女将がそこに居る。
「最初の『挨拶』を生き抜いただけで……あなた凄いわよ」
 雪代貴子が世間話でもするかのように言う。
 冗談ではない。こちらは『何と無く嫌な感じ』と云う寒気を伴う違和感に従って、咄嗟にコンクリの柱の遮蔽に飛び込まなければ蜂の巣になっていた。あれは何かのテストか?
 しかもその遮蔽に逃げるルートすら計算済みで、その証拠にがら空きの左手側には既に手下の綾音が待機していた。
 遮蔽に飛び込んだ瞬間に勝負は着いていた。
 これ以上の抵抗は無意味だと悟った。
 だから……ベルサM25にセフティをかけてトリガーガードに右手人差し指を通し、両手を挙げて、遮蔽から出てきた。
 チラリと左手側の綾音を見る。
 綾音。経歴不詳。綾音と云う名前だけが明らかだ。使う得物はベルサM85。
 トレードマークのベルサM85のグリップが腹のベルトから見える。9mmショート13連発。
「あなたをスカウトしに来たのだけど……興味ない?」
 雪代貴子は涼しい声で言う。この寒くて震えそうな中。
「興味無いと言ったら?」
 雪代貴子を前に両手を頭の高さまで挙げて投降の意思を見せておきながら、口調だけは敗北していない風を装っている自分の滑稽さに内心苦笑い。
 尚江頼子といい雪代貴子といい、この業界……否、裏の世界でも指折り数えられるレジェンドに好かれて光栄だと自分を哂う。
「……」
「……」
「……」
 3人の間に暫しの沈黙。
 どいつもこいつも……噂に背鰭尾鰭がついた伝説じゃない。
 尚江頼子など、髪の毛一本分の幸運が訪れたから『生きる事が出来た』ようなものだ。今度対峙すれば確実に数秒で首を刎ね飛ばされているだろう。
 雪代貴子の脅威は短機関銃だけではない。手下の綾音を想像しうる限り、三代が『背中を晒すポイント』に配置していた。偶然などでは無いだろう。短機関銃の初撃は普通の荒事師なら致命的負傷を負っていた。雪代貴子は恐らく手加減していないし、三代が次に取る行動もチェスの盤上のように読んでいた。その気になれば雪代貴子はスコーピオンを使わなくともブラフを重ねるだけで三代を転落死させる事が出来るかもしれない。それだけの実力者だ。
 綾音と呼ばれている女は素性が不明。それだけでも恐ろしい。この情報社会の現代に於いて、プロフィールを全て隠蔽抹消するのは不可能だ。抹消したとしてもいつ、どのように、何故抹消したのかと云う履歴が残る。それすら残っていない。そして、綾音と云う人物は名前として存在しているが、実際に目にした人間は皆無に近い。見た者は、死ぬ。
 尖兵にして最強の駒の綾音を連れた、或る意味、業界最大手のトップである雪代貴子は、微笑んだ。
 それは、今まで他愛も無い世間話をしていて、別れ際に見せる親愛の笑顔を思わせた。
「別に。断るのなら、何もしない。『私も綾音も、誰も』」
「じゃあ、何故……?」
「前に尚江頼子をスカウトしたのだけど……振られてね。それでその尚江頼子が『また遊んでやる』って言った若い子がどんなレベルなのか興味を持ったの……ああ、あなたのプロフィールは知ってるわ。壮絶な過去ね。一昔前のハリウッドなら幾らでも目にした展開よ」
「……単刀直入に頼みたいのだけど」
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