キサラギ・バラード
つまり……。
尚江頼子の放った白刃は間違いなく標的たる三代の首を刎ねているはずだった。
三代はその白刃を掻い潜って、尚江頼子の体に密接しているはずだった。
三代が空薬莢を踏みつけてしまい、2人の脳内のコンピュータに計算ロスが発生した。
尚江頼子の刃は虚しく空を切り、三代は前のめりに尚江頼子の足元に顔面を叩きつける瞬簡に、右膝で阻止した。
「!」
その頭上へ尚江頼子の殺意が鋭く降り注ぐ。
咄嗟に左手を翳す。
翳してからしまった! と目を剥く。
激しい金属音。金切り声のようだ。
その隙間に銃声が聞こえた。
「…………」
「…………」
頭上に翳した左手は健在だった。指を一本ずつ動かす。五指ともに問題無し。
ただ、尺骨橈骨の辺りが『衝撃』で折れそうだった。皹が入っているかもしれない。
「ぐ……ぬ……」
尚江頼子は胸骨のド真ん中にぽつんと小さな孔を開け、血走った目を見開いていた。
三代の左手が……ロレックスの純金のベルトが必殺の刃を止めていた。
尚江頼子の凶刃が『偶然、止められた』。
三代は咄嗟にベルサM25を発砲していた。
尚江頼子の防弾衣服もネクタイとその下のシャツまではこの距離――彼我の距離70cm――では22ロングライフルのハイベロシティを完全に停止させることは出来なかったようだ。
その場で両膝を衝いた尚江頼子は、崩れるように体を右手側に倒してそのまま動かなくなった。
手応えはあった。骨を砕く音だ。胸骨を叩き割ったはずだ。即死には至らないだろうが、救急救命が必要な状況のはずだ。
体を震わせ、小さく咳き込む尚江頼子を見ながらゆっくりと立ち上がる三代。
吸血鬼の心臓に白木の杭を叩き込むことに全力になる映画の主人公の気分が分かった。
化け物。今殺さねば。止めが必要だ。
目前の脅威から命辛々脱出して『偶然』勝利した結果、緊張が解れて膝や肩が震える三代。
市倉が一人で2階より上でまだ奮闘しているのか、銃声は止まなかった。
カタカタと震える右手でベルサM25を構える。
左手は痺れで使い物にならない。
照準をぴたりと尚江頼子の頭に定めた時……。
尚江頼子は突然、右手のバネだけで上体を起こしその勢いのまま、すっくと立ち上がり、大きく後退のジャンプを見せる。
黒のトレンチコートがまたも大きく視界の光源の半分を奪う。
尚江頼子は右手を下から上へ振り上げた!
「!」
何か投擲されたのだと反射的に蹲った。
鈍い金属の衝突音が聞こえたと思ったら、天井に設置してあったスプリンクラーが破裂するように水を噴出させた。
三代の足元に純銀製と思しきカルティエのライターが転がる。
その高級なライターに目を落とした間に、尚江頼子は何処にそんな体力が残っていたのか、黒い大きな球体を思わせる形状に体を丸めて窓ガラスを体当たりで叩き割り、遁走した。
去り際に彼女は抑揚の無い、性別すら判然としない声で
「また遊んでやるよ」
と、言い残した。
――――とんでもない……。
――――二度とゴメンよ。
軽口で応酬してやりたかったが、神経の使いすぎと疲労が蓄積して口から声が出ずに心の中で呟く。
今更ながらに喉の猛烈な渇きとニコチンへの渇望が湧いてくる。
まだ鉄火場は続いている。
ベルサM25の残弾を確認すると、市倉を援護すべく2階へと向かう。
足取りが重い。
本日の体力を全て使い切った気分だ。
……実際に、使い切ったのかもしれない。
それでも、命と引き換えに依頼を遂行するのがプロだ。
プロ意識だけで足を上げてしっかり踏みながら2階へと進み始める。
この日の仕事はどのような結末で終了したのか覚えていない。
深夜に帰宅したのは覚えているが、帰宅するまでの記憶があやふやだ。カロリーの損耗が激しく、脳がまともに機能していない。
こけつまろびつ生き残った。
衣服も脱がずにベッドに倒れ込み、翌日まで気絶したように眠った。
悪夢を見た。
過去のフラッシュバックではなく、尚江頼子が延々と「また遊んでやるよ」と言うだけの拷問のような夢だった。
※ ※ ※
昨日の出来事は夢か現か。
市倉と云う助っ人と共に、旧いテナントビルに鉄砲玉として吶喊した。
その後に黒い女と出会い、干戈を交えた。
苦戦の後、勝敗がはっきりしないまま、三下連中と銃撃戦を続行して……帰宅した。
一番重要な、『事の顛末』が一切合財、記憶に無い。疲労が極まって早く帰りたいという意識すら覚えていない。
プロとして失格。
市倉は生きているのか死んでいるのか。
仕事は達成したのか否か。
午前10時を経過した壁時計を、ぼうっと眺めながら板チョコを齧る。……違和感がする。
そんなことより、頭が体が精神が糖分を大量に必要としている。
具体的にチョコレートを齧ってブラックコーヒーで舌を洗ってまたチョコレートを齧りたい。
何か違和感。
神経の使いすぎで緊張が限界を超えて、脳がアラートを発令した状態に陥っているのだ。通称、脳疲労。
ストレス過剰状態が脳の思考能力の限界を超えて、心身症を発症するのが特徴の脳疲労。
様々な情報を取り入れる事が原因なので、幼少の頃の知恵熱もこれに類する。
速やかな休養が最善の回復方法で、良質な睡眠が推奨される。
他にもDHAやαリノレン酸やビタミンC、Eが大量に含まれる食材を効果的に摂取することも勧められる。
尤も、そのどれもが揃っていても、直ぐに献立を考えて台所で調理する事が出来ない倦怠感や疲労感や頭重、眩暈に悩まされているわけだが……。
一番手っ取り早い回復方法としてチョコレートの糖分とカカオに頼っている。
脳が活動を継続させるエネルギーの根源は糖分だ。活動を継続させるエネルギーと回復させる栄養素は必ずしも一致しない。
今食べているチョコレートは、万が一の保存食として蓄えていた缶詰のチョコレートだ。
他にも複数のエネルギーバーを齧った。更にマルチビタミンのサプリメントも飲む。
自律神経が乱れているのか、満腹中枢がぐちゃぐちゃになってまともに機能していないのを実感する。
ただ、甘い何かを食べているだけの状態。
目が窪んで、隈が薄っすらと浮いている。
衣服も脱ぎ散らかしたままで、床にベルサM25が転がっている。
ブラとショーツの下着姿にドテラを羽織り、裸足で台所の棚や冷蔵庫を漁る。左手首にはベルトに深い瑕が刻まれたロレックス。
まともでない思考を振り絞って、電子レンジで温める白飯を取り出して電子レンジに放り込む。甘い物ばかり食べていたので次に塩分を含んだたんぱく質が欲しくなってきた。
今の三代は、脳味噌と体に錘をつけた状態で調理しようと考えているのと同じだ。
贅肉が削ぎ落とされて実戦でのみ鍛えられた見事な筋肉やしなやかな肢体も、不健康に曇る容貌のお陰で魅力が半減していた。
狭い肩幅ながらに実った胸も、蜂の如くくびれた腰も、水蜜桃を思わせる尻も、どこか色香がくすんでいた。完全に脱げば平均を超えるプロポーションも実に残念なことに下着にドテラ姿でだらしなさしか強調されていない。
冷蔵庫を開けて、ハッシュドコンビーフとツナ缶を取り出し、残り物のサラダを見つける。
違和感。
先ほどからの違和感は何だろうか?
そして、ドン、とテーブルにマヨネーズを置いた。
丁度、電子レンジが白飯を温め終えた事を報せた。
尚江頼子の放った白刃は間違いなく標的たる三代の首を刎ねているはずだった。
三代はその白刃を掻い潜って、尚江頼子の体に密接しているはずだった。
三代が空薬莢を踏みつけてしまい、2人の脳内のコンピュータに計算ロスが発生した。
尚江頼子の刃は虚しく空を切り、三代は前のめりに尚江頼子の足元に顔面を叩きつける瞬簡に、右膝で阻止した。
「!」
その頭上へ尚江頼子の殺意が鋭く降り注ぐ。
咄嗟に左手を翳す。
翳してからしまった! と目を剥く。
激しい金属音。金切り声のようだ。
その隙間に銃声が聞こえた。
「…………」
「…………」
頭上に翳した左手は健在だった。指を一本ずつ動かす。五指ともに問題無し。
ただ、尺骨橈骨の辺りが『衝撃』で折れそうだった。皹が入っているかもしれない。
「ぐ……ぬ……」
尚江頼子は胸骨のド真ん中にぽつんと小さな孔を開け、血走った目を見開いていた。
三代の左手が……ロレックスの純金のベルトが必殺の刃を止めていた。
尚江頼子の凶刃が『偶然、止められた』。
三代は咄嗟にベルサM25を発砲していた。
尚江頼子の防弾衣服もネクタイとその下のシャツまではこの距離――彼我の距離70cm――では22ロングライフルのハイベロシティを完全に停止させることは出来なかったようだ。
その場で両膝を衝いた尚江頼子は、崩れるように体を右手側に倒してそのまま動かなくなった。
手応えはあった。骨を砕く音だ。胸骨を叩き割ったはずだ。即死には至らないだろうが、救急救命が必要な状況のはずだ。
体を震わせ、小さく咳き込む尚江頼子を見ながらゆっくりと立ち上がる三代。
吸血鬼の心臓に白木の杭を叩き込むことに全力になる映画の主人公の気分が分かった。
化け物。今殺さねば。止めが必要だ。
目前の脅威から命辛々脱出して『偶然』勝利した結果、緊張が解れて膝や肩が震える三代。
市倉が一人で2階より上でまだ奮闘しているのか、銃声は止まなかった。
カタカタと震える右手でベルサM25を構える。
左手は痺れで使い物にならない。
照準をぴたりと尚江頼子の頭に定めた時……。
尚江頼子は突然、右手のバネだけで上体を起こしその勢いのまま、すっくと立ち上がり、大きく後退のジャンプを見せる。
黒のトレンチコートがまたも大きく視界の光源の半分を奪う。
尚江頼子は右手を下から上へ振り上げた!
「!」
何か投擲されたのだと反射的に蹲った。
鈍い金属の衝突音が聞こえたと思ったら、天井に設置してあったスプリンクラーが破裂するように水を噴出させた。
三代の足元に純銀製と思しきカルティエのライターが転がる。
その高級なライターに目を落とした間に、尚江頼子は何処にそんな体力が残っていたのか、黒い大きな球体を思わせる形状に体を丸めて窓ガラスを体当たりで叩き割り、遁走した。
去り際に彼女は抑揚の無い、性別すら判然としない声で
「また遊んでやるよ」
と、言い残した。
――――とんでもない……。
――――二度とゴメンよ。
軽口で応酬してやりたかったが、神経の使いすぎと疲労が蓄積して口から声が出ずに心の中で呟く。
今更ながらに喉の猛烈な渇きとニコチンへの渇望が湧いてくる。
まだ鉄火場は続いている。
ベルサM25の残弾を確認すると、市倉を援護すべく2階へと向かう。
足取りが重い。
本日の体力を全て使い切った気分だ。
……実際に、使い切ったのかもしれない。
それでも、命と引き換えに依頼を遂行するのがプロだ。
プロ意識だけで足を上げてしっかり踏みながら2階へと進み始める。
この日の仕事はどのような結末で終了したのか覚えていない。
深夜に帰宅したのは覚えているが、帰宅するまでの記憶があやふやだ。カロリーの損耗が激しく、脳がまともに機能していない。
こけつまろびつ生き残った。
衣服も脱がずにベッドに倒れ込み、翌日まで気絶したように眠った。
悪夢を見た。
過去のフラッシュバックではなく、尚江頼子が延々と「また遊んでやるよ」と言うだけの拷問のような夢だった。
※ ※ ※
昨日の出来事は夢か現か。
市倉と云う助っ人と共に、旧いテナントビルに鉄砲玉として吶喊した。
その後に黒い女と出会い、干戈を交えた。
苦戦の後、勝敗がはっきりしないまま、三下連中と銃撃戦を続行して……帰宅した。
一番重要な、『事の顛末』が一切合財、記憶に無い。疲労が極まって早く帰りたいという意識すら覚えていない。
プロとして失格。
市倉は生きているのか死んでいるのか。
仕事は達成したのか否か。
午前10時を経過した壁時計を、ぼうっと眺めながら板チョコを齧る。……違和感がする。
そんなことより、頭が体が精神が糖分を大量に必要としている。
具体的にチョコレートを齧ってブラックコーヒーで舌を洗ってまたチョコレートを齧りたい。
何か違和感。
神経の使いすぎで緊張が限界を超えて、脳がアラートを発令した状態に陥っているのだ。通称、脳疲労。
ストレス過剰状態が脳の思考能力の限界を超えて、心身症を発症するのが特徴の脳疲労。
様々な情報を取り入れる事が原因なので、幼少の頃の知恵熱もこれに類する。
速やかな休養が最善の回復方法で、良質な睡眠が推奨される。
他にもDHAやαリノレン酸やビタミンC、Eが大量に含まれる食材を効果的に摂取することも勧められる。
尤も、そのどれもが揃っていても、直ぐに献立を考えて台所で調理する事が出来ない倦怠感や疲労感や頭重、眩暈に悩まされているわけだが……。
一番手っ取り早い回復方法としてチョコレートの糖分とカカオに頼っている。
脳が活動を継続させるエネルギーの根源は糖分だ。活動を継続させるエネルギーと回復させる栄養素は必ずしも一致しない。
今食べているチョコレートは、万が一の保存食として蓄えていた缶詰のチョコレートだ。
他にも複数のエネルギーバーを齧った。更にマルチビタミンのサプリメントも飲む。
自律神経が乱れているのか、満腹中枢がぐちゃぐちゃになってまともに機能していないのを実感する。
ただ、甘い何かを食べているだけの状態。
目が窪んで、隈が薄っすらと浮いている。
衣服も脱ぎ散らかしたままで、床にベルサM25が転がっている。
ブラとショーツの下着姿にドテラを羽織り、裸足で台所の棚や冷蔵庫を漁る。左手首にはベルトに深い瑕が刻まれたロレックス。
まともでない思考を振り絞って、電子レンジで温める白飯を取り出して電子レンジに放り込む。甘い物ばかり食べていたので次に塩分を含んだたんぱく質が欲しくなってきた。
今の三代は、脳味噌と体に錘をつけた状態で調理しようと考えているのと同じだ。
贅肉が削ぎ落とされて実戦でのみ鍛えられた見事な筋肉やしなやかな肢体も、不健康に曇る容貌のお陰で魅力が半減していた。
狭い肩幅ながらに実った胸も、蜂の如くくびれた腰も、水蜜桃を思わせる尻も、どこか色香がくすんでいた。完全に脱げば平均を超えるプロポーションも実に残念なことに下着にドテラ姿でだらしなさしか強調されていない。
冷蔵庫を開けて、ハッシュドコンビーフとツナ缶を取り出し、残り物のサラダを見つける。
違和感。
先ほどからの違和感は何だろうか?
そして、ドン、とテーブルにマヨネーズを置いた。
丁度、電子レンジが白飯を温め終えた事を報せた。