星を掴む

 今煮込んでいるビーフシチューは昼食と夕食にいただく。そのために朝からコトコトと煮込んでいたのだ。
 暑い夏だからと冷たい物ばかりを飲食していたのでは、自律神経が狂ってしまう。偶にはカロリーが高い熱い汁物を胃袋に流し込んで発汗を促さないといけない気がした。
    ※ ※ ※
「…………」
――――2人……3人か。
 口に銜えたシガリロを反射的に吐き捨てなかった自分を褒めたい。明らかに尾行されている。背後に気配。敵意や殺意が混じっている。
 折角、『現場』から無事に抜け出して跡を残さずに暗がりに滑り込んだのに、その背後を悠々と取る人間が現れた。
 背中にいつものデイパック。中身は半分凍らせた2リットルの水が2本。まだ口は付けていない水。
 その水を、安全を確保してから飲もうかと思いながら、黄色い紙箱から抜き出したインドネシアのシガリロを銜えたときに、徒ならぬ気配を感じた。
 喉の奥に苦い物が引っ掛かる。
 右肩から左脇にかけて提げたボストンバッグにはいつもの機材。背中のデイパックから氷水を抜こうとせずに偶々見かけた自動販売機でミネラルウォーターを買う。
 何も知らずに買う素振りを見せながら、左右と背後に視線を走らせた。シガリロを左手の指に挟む。
「……3人」
 小さく呟く。
 自動販売機の横にもたれてミネラルウオーターのペットボトルを開封して呷る。
 喉を心地よく洗い流す冷たい水。一気に3分の2を飲む。
 指に挟んだシガリロを銜えながら、先ずは状況の整理を行う。
 午後10時半前後。
 取り壊し間近のシャッター街。外灯が等間隔。光源は問題なし。背中は無人の店舗兼住宅のシャッターに任せている。湿度が高く不快。夜だというのに気温は31度を下回っていない。見渡す限り、右にも左にもカタギの人間の姿は無い。何処の店舗も立ち退き宣告を守って無人。空は落ちてきそうなほどに朽ちたアーケード。
 公乃は深く一服した。
 このシガリロを吸い始めた頃、当時のパッケージは黄色いスチール缶だったが、今ではエコだの省資源だのの煽りで紙パッケージになっている。10本入りの黄色く平べったい紙箱。いつもコイツだけは手元に有った。ライターに拘りは無い。使い捨てでもマッチでも構わない。脳内を整理するときや一仕事終えた後の緊張を解く嗜好品としてシガリロは自分にとって最適だった。
――――さて。どうしたものか。
 左脇がズシンと重くなる。
 嫌な鉄火場に巻き込まれる直前になると何故か左脇のヘルワン・モデル・ブリガーディアが急に重くなる。
 今夜の仕事ではヘルワン・モデル・ブリガーディアを発砲していない。
 薬室に1発装填してある。フルロード。予備弾倉は合計4本。システムショルダーホルスターの右脇に2本と後ろ腰のベルトポーチに2本。グリップ分を合計して40発プラス1発。デイパックにはブリスターパックのバラ弾が30発。
 長丁場の鉄火場を想定しての装備ではない。
 自宅に帰れなくなった場合を想定しての予備弾だ。
 シガリロの煙を細く長く吐く。
 自分は隙だらけであることをアピール。
 実際には全方位に対して剃刀のような注意を向けている。
 シガリロの作用が頭の中を静かに整理する速度に拍車を掛ける。
 視界に人の影が見え始めた。遮蔽の陰。距離は近いもので約7m。一番遠いもので15m。右手側7mの位置に一人。左手側10mと15mの位置に一人ずつ。
 時間だけが流れていく。
 情報屋の自分が命を狙われる心当たりを探す真似はしない。誰かの得になる片棒を担いだのなら、もう片方に逆恨みされて当然だ。情報屋は生きて逃げられると、自分が狙われたことで警戒し防御網を張るが、ここで一気に仕留めれば『死体は命を守る真似』はしない。
 個人経営の情報屋を狙うからにはそれなりの理由が有るのだろうが興味は無い。
 元をただせば情報屋としての公乃に用が有るのか、過去の鉄火場で致傷させた何処かの誰かの恨みを果たしに来たのかも不明だ。今はその方面の解析は不要だろう。
 ミネラルウォーターを飲み干す。
 ペットボトルを併設されたゴミ箱に押し込みシガリロを銜える。
 存分に一服。シガリロを吸いながらの激しい活動は自殺行為だ。酸素の血中濃度が低下して数秒で息切れを起こし数分で膝から倒れる。銜え葉巻で戦闘行為全般に臨むのはスクリーンの中の主人公だけだと思ったほうがいい。
 10分後。
 シガリロの吸い差しを地面に吐き捨て、爪先で蹂躙する。その間も一切神経を途切れさせていない。敵意、殺意、悪意に似た嫌悪感を滲み出していた。
 右肩から機材が入ったボストンバッグをゆっくりとずり下げ、地面に置く。まだまだ熱いアスファルトの地面。緩衝材で包んでいる撮影機材だからこの程度の熱では影響を受けないだろう。
 刹那、公乃の体が、弾かれて起き上がる人形のように素早く走り出した。
 正面にあるシャッターが下りた店舗。その店舗の大きなショウウインドウを兼ねた窓にヘルワン・モデル・ブリガーディアより2発発砲して大きな皹を作り、腕を交差させた頭からの体当たりでガラスを破る。
 建物内部に飛び込むことに成功した。
 背後での動きに乱れを感じた。
 突然の脈絡の無い行動に、追跡者が虚を衝かれたのだ。
 真っ暗な店内。黴臭く埃が舞う。肺に侵入してくる不快なそれらに鼻腔を汚されてくしゃみが出そうになるのを堪える。
 伏せる。床の大粒の砂利や埃がざりざりと顎先を撫でる。
 右手のヘルワン・モデル・ブリガーディアを握る手に汗がじっとりと滲み出す。
 背中に背負ったデイパックはそのままだ。床に伏せた状態から左手で後ろ腰から予備弾倉を1本、抜く。
「!」
 発砲。躊躇わない。外さない距離。4m。素早く動かない標的。小さい標的だが問題ない。
 光源の加減で暗い店内を窺おうとした人影が携えていたポンプアクション式ショットガンの銃身中ほどに、9mmパラベラムのフルメタルジャケットが命中し、チューブマガジンのショットシェルが暴発する。仰天の声を挙げた人影は男だった。
 その男が体勢を整えて反撃に出るまでに更に追い討ち。発砲。狭い店内に銃声が轟く。耳を劈くような轟音に思える。
 ショーウインドウの枠から覗き込もうとしていた人影が、ポンプアクション式ショットガンを捨てて顔を半分ほど覗かせた時にその顔半分を9mmパラベラムで吹き飛ばされた。
 暗闇でも咄嗟にサイティングし易いようにサイトには蓄光のドットポイントを打ち込んである。
 公乃も馬鹿正直に古臭い銃を使っているわけではない。今回の現場では必要性が感じられなかったので完全に違法な強力なレーザーサイトは装備していない。
 その場でうつ伏せのままは拙いと判断し、虫が這うように低い匍匐前身で床を移動して店の奥に後退する。顔と視線を店外から外さない。気配の主がもう一人、そこに存在している。
 店の奥に上がり込む出入り口を見つけると、思い切って立ち上がりその住居スペースに走りこんだ。
 それを狙っていたかのように銃声が公乃を襲う。いつもの黒いサマーカーディガンの裾に孔が開く。背後から強襲してきた銃声から察するに6インチ銃身以上のマグナムリボルバーだ。
 腹に響く銃声は9mmパラベラムのそれとは比較にならない。
 ダブルアクションで素早い追撃が無かったのは公乃の移動が早かったからか?
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