星を掴む

 覚悟が必要と云う意味では何処の世界でも同じだった。
 文字通りの命懸けと云う意味でも共通している。
 闇社会の人間だから、常に一般人を食い物にして札束に囲まれて生きている人間ばかりとは限らない。
 闇社会の少し前の成功者なら、自分の名誉欲や力の誇示のために豪邸を建て、貴金属や絵画に囲まれた生活を見せ付けて毎晩遊び歩く姿をわざわざ見せていたが、ここ数年は一転している。
 成功者ほど生活のリズムを整え質素な生活を心がけ、栄養バランスに気を使った食事と適度な運動と、禁酒禁煙を肝に銘じて芸術や読書に勤しむ。
 健康と命は金で買えない事を悟った成功者たちは、挙って理想的な社会生活者の姿を維持しようと躍起になる。
 他人が筋トレをしても自分は鍛えられない。その理屈に沿って、自分が律さないと健康長寿でいつまでも現役で活躍できないという思想が広まっている。
 末端の三下は逆に一昔前の成功者を夢見ている人間が多い。
 自分の欲望に忠実で、若いうちは今が楽しければそれで良しと考える人間が多い傾向だ。
 健康は損なってから羨んでも手遅れなのに、暴飲暴食鯨飲馬食が野性的で蛮勇で粋だと錯覚している。公乃もどちらかと云うと後者に近い。落ち着いた年齢を迎えてからは、酒を控えシガリロの本数も半分に減らした。
 それでも勢いに任せて無理と無茶と無謀を押し通して、解決する力技を度々用いる。
 そもそも彼女がもう少し慎重派なら、個人経営の情報屋なのだから情報収集専門の要員を雇って、自分はパソコンの前でキーボードを叩いているだろう。
 公乃は汗が引くまでエアコンの風に当たり、更に扇風機を稼動させる。その後に冷蔵庫から取り出したウィルキンソンの炭酸水のペットボトルを取り出して一気に3分の2ほど呷って飲む。
 ソファにドカっと座って、漸く一息ついた顔をする。
 彼女の頭の中では、今し方買い出しに行った際に買った食材で何が作れて何日分冷蔵庫で保存するかを考え、模索していた。
   ※ ※ ※
「情報屋ですか?」
 秘書の女性は小首を傾げて自分が仕える上司の顔を見た。
 彼女の名は、田中井裕子(たなかい ゆうこ)。29歳。
 この【企業】にヘッドハンティングされて7年になる。
 上司の名は平井一(ひらい はじめ)。
 この【企業】の秘書課の部長を任されている。
 【企業】……表向きはそのように名乗ってはいるが、具体的な屋号は出さない。
 それだけで、その【企業】と発音するだけで通用する世界の隠語だ。
 否、誰も社名組織名を知らないから誰が呼んだのか【企業】と云う呼称が闇社会では一般的になった。
 噂では先代の会長が徹底して存在を秘匿する為に、大量の情報屋に情報操作を依頼して『本当の会社の名前』を消したとか。
 平井一は50代半ばの中年である。
 表向きの名刺には秘書課部長と書かれているが、実際にはこの【企業】のウエットな分野の職掌を担う部門のリーダーだ。
 秘書課と云う言葉の響きから誰もが警戒しないイメージなので明るい世界の住人が平井の名刺を見てもなんとも思わないだろう。
 彼の本当の仕事はヘッドハンティング。それもかなり特殊な。
 平井が率いる秘書課の社員は、全員が殺し屋か殺し屋紛いを生業にしてきた脛に瑕の有る連中だ。だが、荒くれ者は存在せず、軍隊のように統率が取れていた。
 腕が立っても頭脳と心が未熟な人間は人材として不適合だ。及第点を超えた人格者のみを集めた部署。
 それがこの【企業】の秘書課だった。
 平井の元に上層部から命令が発令された。それは人事異動の際に発生した人材不足を補う為に強力な情報屋をスカウトしてこいとの内容だ。 人事異動の際に発生した人材不足……言葉はマイルドだがこれは隠語で、組織内部で改革が行われた折に内通者を処刑した末、定数に満たない部署が出てきたので、当面を凌ぐ人材が欲しいのだ。
 定期的に行われるスパイの炙り出しで欠員が出るのがいかにも民間企業らしい韜晦となっている。
「しかし……情報屋と言われましても、殆どがテレワーク希望者しか居ない時分です。都合よく内外の情報を集めてくれる、安価な仕事を引き受けてくれる情報屋が居るとは思えません」
 平井の傍に控える田中井裕子は自分のデスクに有るPCに平井から転送されてきたPDFを閲覧しながら書面の疑問を口にした。
 相槌を打つ平井。
「そうなんだ。今時の情報屋は自分で情報を集めない。誰が情報を最前線で命懸けで集めているのかその苦労を知らない世代が多い。それにプライドと鼻だけは高い連中が多くて直ぐに会社を裏切る……だから情報部門はいつも欠員だ。『退職』が多くて敵わんよ」
 平井はほとほと困った顔で右手を左懐に伸ばそうとしたが田中井裕子に止められる。
「ここ、禁煙ですよ」
   ※ ※ ※
「へえ。それはそれは」
 心此処に有らず。
 そんな気の無い返事でハンズフリーで通話する公乃。
 まだまだ猛暑日真っ最中の午前11時。
 昼食の仕込みをしながら情報屋の伝で知り合った同業者と通話している。
 スマホをテーブルに置き、耳に嵌めたワイヤレスイヤホンで通話。通話相手は海崎マキと名乗っている情報屋で今年で25歳になるはずだ。 自称駆け出しの情報屋で、新人同然をアピールしている。若人の育成に力を入れている公乃としては何度か無料で特ダネをリークして助けた事がある。何か有ればこれからも助けるつもりだ。
 そのマキが話すには、個人経営の情報屋が謎のクライアントの申し出を断った途端に姿を消しているらしい。
 不穏ではあるが、この業界では誰かが突然姿を消す事は日常茶飯事で取り立てて珍しいことではなかった。
 通話内容の肝として公乃が覚えていたのは『謎のクライアント』の存在だ。この闇社会界隈では身元不明や、経歴不詳を作り上げて情報屋を頼る人間が殆どで、名前を名乗っていても殆どの場合、実名ではない。実際に公乃のフルネームも実名を幾らか変換したアナグラムだ。履歴書ほど胡散臭くて薄っぺらい書類はない。
 その世界で情報屋連中が『謎のクライアント』の接触でどのような遣り取りの末に姿を消したのか不明なので、用心するに越したことは無いと云う話題らしい。
 仲間内でも、警護専門の荒事屋である『護り屋』を雇っていても『姿を消した例』が有るので注意が必要だ。
 早くも情報屋界隈では『謎のクライアント』の噂が一人歩きして、都市伝説と怪談の狭間に存在するフォークロアとして流布されつつあるらしい。
 情報屋の互助会の理事を務める公乃としては注意喚起以上の手は打てない。
 情報屋のリテラシーとして、同業者や消費者などの特定の誰かを疎外や阻害する文言は軽率に口に出来ない。
 『謎のクライアント』が何かの狙いが有ってそのような接触を図っているのだから、ここで大声で注意喚起を促しては特定の誰かである『謎のクライアント』の行動を妨害する事になる。
 そうなれば情報屋としての公平性が失われる。
 こんな時ほど、地位のある立場に置かれた自分というのは面倒臭いと実感する。
「まあ、気をつけるわ。有難うね」
 公乃は通話を切った。
 彼女の今の興味は『謎のクライアント』の接触方法や目的よりも、今目の鍋で煮込んでいるビーフシチューに集中していた。
 中学生女子の体操服かと勘違いされそうな小豆色の短パンに青いTシャツ。後頭部で髪を緩く結わえて鍋を見つめる。
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