星を掴む

 耳を劈く大きな恐慌。彼の拳銃を握る両手首は25口径の被弾により指を数本失い、重い荷物が落ちるように尻餅を搗いて失った数本の指を儚んで絶望の顔色を浮かべてのた打ち回る。
 残った指で保持していた中型自動拳銃を放り出して床を転がる。残弾が無くなったコルト25オートを捨てて、スライドストップがかかった状態で待機しているヘルワン・モデル・ブリガーディアのスライドリリースレバーを下げ、兎に角、左脇にのホルスターに突っ込んでから遁走を計る。
 背中から指を失った男の恐慌の叫び声が追いかけるように聞こえてくる。あの状態だと顔を見られたとしてもはっきりと思い出すのは難しかろう。
 今が冬なら遠慮なく目出し帽やバラクラバを被って顔を隠すのだが、熱中症で毎日何人も死んでいる猛暑の中で被り物をして活動をする体力は無い。今でも、大事に温存していた凍らせた水を失ったことの精神的ダメージが大きくて、喉は一層、冷水を欲している。飲めないと分かると余計に飲みたくなるのが人間の生理的本能だ。
 公乃はこけつまろびつ、建物から飛び出る。振り返る事無く夜陰に向かって滑り込んだ。
 今追撃を仕掛けられたら彼女に反撃の余地は限りなく無い。
 左脇のヘルワン・モデル・ブリガーディアは弾倉交換が必要。
 背負った荷物と肩からかけた荷物に体幹を振り回されながら撤収した。
   ※ ※ ※
 山荘風の別荘に忍び込んでの情報収集から3日が経過した。
 公乃は食材の買出しから帰宅するなり、食材が詰まったエコバッグを台所に放り出して、乱雑に衣服を脱ぎながらバスルームへと向かう。
 今は一刻も早く頭から微温湯を浴びて汗を削ぎ落としたかった。
 彼女が住む住宅は3DKの集合住宅。
 ハイツやマンションと云う造りではなく、昔ながらの古いだけの建物だった。駅から徒歩20分。築45年。後から改装したトイレとバスルームと洗面だけが真新しく、増設したエアコンも近年のモデルだった。
 身長168cm。体重57kg。ソリッドに鍛えた筋肉質で女性らしい丸みは尚健在。しなやかな四肢はアスリートを髣髴とさせ、しっかりと割れる直前の腹筋は贅肉の存在を許さない。
 それでいて女性としてのセックスアピールも具えたボディラインは筋骨に矛盾するかのように成長し衰えを見せていない。
 胸筋が発達しているのに主張が激しい豊満な胸と水密桃のように瑞々しい尻の肉。
 10代の頃に得たハリと艶のある肌理の細かい肌は未だにシャワーを浴びると水玉を作って零れ落ちる。
 公乃はシャワーヘッドをセットすると頭から35度の微温湯を浴びた。水量を最大にして顔や首筋を強く撫でて汗の脂を落とす。短くしたばかりのブラウンを含んだ黒いセミロングが水分を吸ってずっしりと重くなる。
 彼女の若鮎のような白いあばらが薄っすらと浮いて見えて艶かしい。髪をやや乱暴に掻いた時に見えるうなじは日焼けしておらず、この部分だけが鍛えられていない部分であるかのように脆弱に見えた。
 細い頸。小さな頭。細い顎。精悍な顔のパーツ。意志の強そうな、筆ですうっと引いたような眉。薄く可憐な唇。高く通った鼻筋。愁いを帯びた瞳は生命力の色彩に溢れていた。
 高矢部公乃。28歳。まだまだ女。これからの女。
 躍動する筋骨を具えた体躯は実戦で鍛えられたものだ。
 稽古やトレーニングに自分磨きの時間を割くことすら惜しい。
 彼女の持つ美しさは内面からのバイタリティが根源で、見る人間を『何故か』惹きつける魅力に溢れている。
 化粧は手抜きに限りなく近い。そのお陰で帰宅するなり直ぐにシャワーを浴びる事が出来る。彼女が化粧を蔑ろにするのには理由がある……不用に人の目を惹きたくないからだ。
 自分の魅力を知っているからではない。極力、誰の印象にも残らない顔付きや表情を保つ努力をしているのだ。
 闇社会の人間としては、明るい世界の人間の興味を惹く姿形は致命的だ。
 外見や行動に大きく制限がつくことに不満は無い。
 その逆も然りだからだ。
 明るい世界の人間が闇社会でカタギの振る舞いをしていれば商売にならない。
 半グレのような法的に線引きされた犯罪者予備軍でさえ、闇社会の人間からすればただの愚連隊で、三下に搾取される側の人間たちだ。
 様々な詐欺の頭目として逮捕される半グレのリーダーに暴力団構成員が度々登場するが、その暴力団構成員は殆どが組織内部では大した力や地位が与えられていない小間使いだ。
 つまり、半端者は半端者でしかない。
 表の世界と裏の世界、生きていく覚悟が有るのならどちらの世界で生存競争を展開するか腹に決めないと長生きできない。
 たっぷりと微温湯を浴びて充分に汗を落とすとバスルームから大股出てくる。
 そして後悔した。
 バスルームに入る前に自室のエアコンを作動させて置くべきだったと。髪や体表の水分をバスタオルで拭き取りながら舌打ち。
 公乃は下着を着けてバスルームの脱衣所から出ると、脱ぎ散らかした衣服を集めて一人掛けのソファに投げ出す。
 和室3間。4畳半が2つに6畳が1つ。
 ソファは調度としては不似合いだが、リサイクルショップで見かけて一目惚れだったので思わず買ってしまったのだ。
 衣服の中にヘルワン・モデル・ブリガーディアが差し込まれたホルスターは無い。ヘルワン・モデル・ブリガーディアは普段の生活では持ち歩かないと決めている。
 銃を握って闇社会を歩いている人間は、銃が無ければ生きていけない臆病者しか居ないと思われがちだが、それは闇社会の中でも荒事を主な仕事にする人間だけで、情報屋やそれに付随する仕事に従事する人間は寸鉄一つ帯びていない人間が多い。それこそ護身用に100円均一で買った木工用カッターナイフしか持っていない人間も居る。
 情報屋は割と保護されている職業だ。
 敵味方と云う概念が存在しない個人経営が多い。
 ダブルスパイなどの不義を犯したり、組織に飼われて組織のために情報を操作扇動する工作員的活動でもしていない限り、あらゆる組織、あらゆる個人経営が情報屋を頼る。
 火急の用件ほど高額で対応。鮮度と隠匿性が高い情報も高額。一方で情報収集の能力を誇示する為に名刺代わりに格安で特ダネをリークして顧客の獲得を行う場合も多い。
 従って、闇社会の人間はいつか必ず情報屋の手を借りるので情報屋だけは聖域の住人扱いだった。
 聖域の住人だから安心安全な場所でタカを括っているわけではない。情報戦や心理戦で同業者同士が潰しあうことも日常茶飯事だ。
 情報屋の世界は相手を殺すから勝利ではない。相手が情報屋としてこの世界で生きていけなくする、社会的抹殺こそが勝敗の決め方だ。
 闇社会で生きる術しか知らない人間が、闇社会を追い出されて明るい世界に追いやられれば、その世界では生まれた赤ん坊同然なので闇社会での栄華を再び取り戻すのは不可能だ。
 追い出された先の明るい世界で、表向きは社会的地位の高い職業に就いても、社会的地位が高いと云うことと、遣り甲斐のある仕事必ずしもイコールでは無い。寧ろ、スリル不足で心を病む人間が続出し、最後はアル中か抗うつ剤に溺れる。
 だからこそ明るい世界で生きるか闇社会で生きるかの覚悟が必要だ。一度生き方を決めたら安易に方向転換をしてはいけない。直ぐに足元を掬われて脱出する前に本当に命を消される。
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