星を掴む

 中年の男の名は、平井一という。
 実名とは思わない。身の上調書を調べたが巧妙に改竄された形跡が見られた。その名前も本名では無いだろう。
 平井一は暖炉に近付くと、その上に置いてあった重厚な造りのヒュミドールをハンカチで丁寧に拭いて、蓋を開いた。
 中からコロナシェイプの葉巻を取り出し、スーツのハンドウォームから取り出した、銀色に鈍く光るギロチンカッターで吸い口を切り落とした。
「まあ、大変なことに巻き込まれたと思っていても仕方ないかな」
 平井一は背中を向けたまま、暖炉の上にあったガス式のシガーライターで葉巻の先端をゆっくり炙りながら話を続ける。
 情報が全て繋がらない現況では、真実でも虚構でも生きた人間から集められる情報は全て収集したい。
 ヘルワン・モデル・ブリガーディアをアソセレルスタンスで構えて背中を狙う。
 消音器はまだ外していない。今はこの男の背中から銃口を外したくないのだ。
 二人とも濡れ鼠。
 頭から数分間もスプリンクラーの土砂降りを浴びていたのだ。風邪を引く気はしなかった。
 公乃は喉の渇きをさすがに抑えられずに、蟹のように横歩きしながらアソセレススタンスを維持したまま、ホームバーへ近寄り、左手だけで大型のタンブラーを探ってウォーターサーバーの冷水を入れて喉を鳴らして飲む。眼は平井一の背中から外さない。
 怒気を孕んだヘルワン・モデル・ブリガーディア。……そう思わせる。スプリンクラーの水で濡れたフレームやスライドが発砲の熱で蒸発して湯気を立てている様が怒りを表現しているようだ。
 喉の渇きにミネラルウォーターの冷水は凍えるほどに滲みこんだ。
 体内から心地よい返事が脳に返信される。
 発火しそうに熱かった体も温度が下がる。
 喉の渇きが治まる様はひび割れた大地に大雨が降るイメージ。
 生きた心地を味わっている。
 そして、生きている心地がしない状況に放り出されている。
「先ずはどこから話そうか」
 室内にハバナシガーの芳醇な香りが漂う。
 平井一は口腔に深く葉巻の煙を吸い込むと、優しく吐きながらこちらを向く。
 敵意が無い事を示す為か、葉巻を持つ右手とダラリと下げた左手を見せる。
 衣服の膨らみからは懐に拳銃を呑んでいないようだ。
「……先の不況で私は一考した。情報屋の消息を絶たせることで各組織や個人経営主は焦ってしまうし、情報屋も自己防衛に忙しくなる。たったそれだけで運び屋も護り屋も闇医者も武器屋も地下銀行も殆ど全てがカタギから搾取することで息を吹き返した」
 平井一はそこまで話すと、一旦区切って葉巻を吸う。
 その辺りまでは想像できた。誰もが想像していた。
 『火付け役』『仕掛人』『救世主』などと呼ばれる、肯定的犯人探しが始まろうとする機運を感じていた。
「……で、実のところ、本当に我が社は深刻な人材不足でね。上層部が大規模な『リストラ』を敢行した結果、優秀だが切らざるを得ない人材が大量に出た」
 公乃はその件を聞いて、直ぐに内通者の大量粛清を行ったのだと知った。
 それからも葉巻を吸いながら滔々と話す平井一。
 今回の……この現場を作り上げたのは我々だと素直に全て話した。
「何故……!」
 ヘルワン・モデル・ブリガーディアを握る右手に力が入る。
 空になったタンブラーをカウンターに静かに置く。
「先ず、我々は情報屋は誰一人として危害は加えていない」
「よくも抜け抜けと」
 公乃は嫌みったらしい顔で鼻で笑った。
「いやいや。本当本当。我が社の隔離施設で『保護』している。全員ね……表向き消息を絶ったとされる情報屋は全て生きている。我々の本当の目的は一つじゃない。一石で何鳥も得たいが為の工作なんだよ」
「工作……」
 公乃は思わず呟く。
 確かにたった一つの目的のために犯すには、大き過ぎるリスク。
 だが、大きな目的が複数存在していたのなら、勝機のある勝負なら乗らない手は無いだろう。……そんな都合の良い話が有るのなら、だ。
「先ずは今年に入って表も裏も脅かしている疫病で冷え込んだ需要と供給を活性化させること。我が社だけが儲かっては意味が無い。業界全体。……『こちらの世界』全体が潤わないとダメだ。この世界は歯車だ。全て必要な部品だ。みんなで幸せになる必要があるんだよ」
 理には適ってる。
 確かに公乃の懐具合も僅かに潤ってきた。この街ならず、近隣の街にも影響を及ぼし始めた。
「全盛を誇るほどの儲けを出しては司直の手が入る。だから何処の業界も、及第点を少し超えた程度の儲けが出た辺りで潮時だ。それと同時に我が社は、実は情報を統括する部門が他の組織と比べて脆くてね。外部からの『侵入』を堰き止めるのに毎日が戦争だ。『統括する人間が内通者の大ボス』だったのが原因なんだけどね……まあ、部外者の君に聞かせる話ではないのだけど」
 今、しれっと爆弾発言を聴いたような気がする公乃。
 全ての話を聞いた途端に抹殺されても仕方ないような情報だったような気がする。
「そこで業界のボーナスタイムは終了。『保護』していた情報屋は一両日中にでも解放……なんだけど、優秀な人材とは現在交渉中でね。120点の評価を得る『規格外』は全て欲しいのが人情でしょ? 解放する予定の情報屋には、我が社の匂いも片鱗も勘付かせていない。何処の誰に何の目的で『保護』されているのかも分からないだろうね。で、本題」
「……」
――――さあ、『来たぞ』。
――――何を聞かせてくれる?
「そちらで死体におなり遊ばされている方は君もご存知の、我が社とは犬猿の仲のはずの会社の偉いさんの一人。君をこの場に『自然と引きずり出すのに芝居を打ってもらった』んだよ。まあ、死ぬのは計算外にしても、その偉いさんは我が社の内通者なので『問題無い』。彼も末期のガンで最後に若い頃に帰りたいとぼやいていたし、『ここ』は丁度いい死に場所だったろう」
「私をこの場に引きずり出した理由は?」
 公乃は溜まらず自分から切り出した。
「ああ、それだけど……」
「そこからはわたくしが」
「!」
 緩く湾曲するホームバーのカウンターの隅に座る人影が口を挟んだ。脊髄反射でヘルワン・モデル・ブリガーディアを向ける。
 引き金を引く直前、意識がブレーキを掛ける。
 『いつの間に其処に居た!』
「マキ!」
 確かに海崎マキが居た。
 いつものカジュアルなファッションではなく夏物のレディスーツ。写真のキャリアウーマンが飛び出たような端整な佇まい。
 そして……『ああ、そうだ、マキはこんな顔だった』と今まで脳内になぜか浮かばなかったマキの顔が補正される。
「私の部下の田中井君だ。君を私に強く推すので少し、レベルの高い荒事師をけしかけたが……いやあ、申し訳ない。気が逸ってしまって君に攻撃を宣告するのを忘れていたよ」
 はははとあっけらかんと笑う平井一。
 田中井? マキ? 部下? 私を推す? 何故? 何を? 様々な謎がまたも吹き出す。
 業界の危機を救うために情報屋を狙った仕掛けは理解した。
 確かに冴えたやり方だった。見事だった。だが、その話と、マキの話しは僅かに別物の匂いがした。
 平井一に田井中と呼ばれた、海崎マキの顔をした女はストゥールから静かに立ち上がると、物静かで優雅な歩き方で公乃に近付く。
 撃とうと思えば撃てる。殺そうと思えば殺せる。その精神的余裕を保ったまま、公乃はマキの胸部に銃口を向けていた。
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