星を掴む
マキに対して猜疑心が渦巻き始める。
友人に対しての冒涜だと自分を罵ったが、マキが公乃と云う【ライバル】に対して、好意的に今まで損得勘定を見せないで付き合ってくれていること自体が不自然だった。
収録中もその思考に覆い尽くされるのを必死で抑えた。
今は目前の仕事に傾注しなくては。
いつ終わるのか推測すら出来ない現場での情報収集は、純粋な忍耐力を試される。
過去に、現場に張り付いたまま動けないから小便を漏らしながら撮影を続けたこともあった。
何ヶ月も追跡と尾行を繰り返した結果、予算が尽きて土壇場で自転車を盗難して追いかけたこともあった。
潜入する為に風俗嬢の真似事もした。
たったそれだけの情報を得るために自分……否、人としての在り方や尊厳も捨てる。
それがプロの情報屋だ。
クライアントを喜ばせるため。自分が生きるため。生きている実感を得るため。
様々な理由が公乃にはある。
どれもこれも叶えるためには命以外なら捨てる。
そのプロたる公乃の足元を、スッと掬う存在がこんなに身近に居た。
海崎マキ。
そう。海崎マキだ。
全て彼女が仕組んだのだとしたら? 『全て』とは? 何処から仕組んだ? 何のために? 誰の命令か? そもそも何者か? 自称25歳の女性。
軽くカールした黒髪が印象的な、顎先が細くて色白で、ほっそりしたスタイルで少しダウナーな雰囲気……マキは……?
――――あれ?
――――あれ?
公乃は機材を構えたまま、背中に氷を這わされたように寒気を覚えた。
――――マキって『どんな顔』だったっけ?
姿形や衣服や背丈はすぐに脳裏の浮かぶのに、その顔は擦りガラスを通したように不鮮明だった。脳裏に浮かぶマキの全体像で顔だけが欠落していた。……ベイカーベイカーパラドックス。
――――『あいつは誰だ!』
怪談話のオチまで聞いたように寒気が走る。
冷たい感触が全身を広がり額に大粒の汗が浮き出る。
今直ぐ機材を投げ捨てて逃げたい気持ちと、最後までこの現場を見届けなければと云うプロ根性が凌ぎ合う。
先ほどのウォーターサーバーでもう一杯余分に水分補給していればこの場で小便を漏らしていたかもしれない。
暑さとは違う理由で喉が渇き、不快な液体が喉から鳩尾にかけて上下する。
暑いのか寒いのか……熱いのか冷たいのか分からない。体内のセンサーが突然狂ったようだ。偏桃体が騒ぎ、アドレナリンが吹き出る。それに伴い様々な脳内物質が生成されて脳に投射される。
早く会合が終わって欲しい。
早くマキに会って『詳細』を聞きたい。
機材のカメラを構える手に脂汗が湧くように濡れる。首筋に汗の粒が幾重も辿って下降し、衣服に吸い込まれる。
鼻の頭にまで汗が吹き出る。
呼吸を整えようと、腹式呼吸に切り替えて自分を無機物だと自己暗示をかける。
土壇場の緊張でのシャッターチャンスを逃すまいと、背景に渾然と混ざるために何度も試して成功した腹式呼吸による瞑想状態。
爪先、脹脛、膝、太腿、股間、肛門、臀部、腰、下腹部、内臓、胃、手首、肘、肩、背中、肩甲骨、頸、顎、口元、鼻、眼、眉間、額、前頭部、頭頂部、後頭部の順で意識を向けて緊張をゆっくり解く。
その順番をゆっくりと心の中で腹式呼吸の吐く時のタイミングにあわせて一箇所ずつ行う。
程好い脱力。
意識してリラックス状態に陥らせる。
心臓や自律神経が一度でもこの腹式呼吸を用いた『自己暗示』で土壇場を凌いだと云う成功体験を得ると、何度でも実戦で用いて体が覚えてしまう。
どんな時も、この腹式呼吸による瞑想じみた脱力を行えば切り抜ける事が出来ると云う自信を持つ。
汗が心なしか止まったような気がする。
緊張が解れたので、自律神経が司る体表のセンサーが正常に作動し、空間内部を冷やしているエアコンの作用を正常に脳に信号を送り出したのだ。
鳩尾の不快感が和らぐ。喉の渇きは酷くなる気配は無い。水分は失っているので水を飲まない限り渇きが治まることは無い。
今の公乃のメンタルは聖人のように、水鏡のごとく平静ではないが落ち着いて状況を判断するだけの思考が廻り始めた。
この間、10分。
無防備な10分。
メンタルを自力で調整するのはそれだけ難しい。
10分の間に何らかの変化が訪れれば、軽いトランス状態の公乃では対処できない。なので、この呼吸法で自らを鎮めるのは諸刃の剣以上に危険なのだ。
機材を構える左手の指先が軽くなり、操作レバーにかけた右手の人差し指が軽くなる。
――――?
――――途切れた?
――――破談?
壁向こうの会話が突然終了した。
ファインダーのレティクルを何度覗いても、音質の調整は正常で音源は拾い続けている。対象が移動したとは考えられない。
時間にして……この建物に侵入して2時間経過した。
記憶が確かなら、午後8時を経過している。廊下は灯かりが点いている。前後左右に人の気配は無い。目前4mに目標のドア。自分は階段からの角を遮蔽にして収録機材を構えている。
状況の整理終了。
補足として、肌感覚としての涼しさや宿泊施設らしい清潔な空間、僅かに混じる夏草の香りなども付け加える。
即ち、静かな空間で、この上ないくらいの好条件で自分は現場に臨んで仕事を遂行している最中なのだと再確認。
そこの好条件に自分の命が狙われると云う余談は付け足さない。それは余談でも特記事項でもなく、命の危険は大前提だからだ。
シャッターを押すボタンの周囲に取り付けられた様々なレバーを操作し、壁向こうやドアなどに集音機のマイクを向けて音を拾うとするが、ありえない事に何も収録できない。
収録できていない、ではなく、収録できないのだ。
誰も何も話をしていないかのように静かだ。自分の鼓動が静かに打つ。
腹式呼吸を続けているお陰で平静が保てる。頭が冷静に思考してくれる。
先ほどは極度の緊張に晒されながら、極端な猜疑心に焦燥を募らせてパニックになっていたらしい。
ドアを開かない以上、部屋の内部の情報を集める事が出来ないので足音を極限まで殺してドアに近付く。
「…………」
人の気配が、在る。
確かにそこに……ドアの向こうに人は居る。
会合する勢力は二つ。
会合する人物が連れてきた警護は2人ずつ。合計4人。階下で殺害してしまったのは2階へ踏み込む事を禁じられた三下の運転手だろう。つまり、ドアの向こうの大広間では主要人物2人と警護4人の合計6人が居る。
事前に調査した数と食い違いは無い。
『邂逅してはいけない人物同士の会合』なので秘匿性が高く、それぞれの組織でもこの会合を知っている者はホンの一握りのはずだ。
双方の組織の懐刀的ポジションの人間が『双方のトップの指示を仰がず』会合を交わしているのだから、これ以上に重要な会合は無い。
……いかんいかん、と、公乃は下唇を噛む。
そこまで考えが及ぶと、必ず海崎マキとの出会いから現在に至るまでが謎として浮き彫りになるのだ。
不意に、ドアが軽く軋んだ音を立てて開いた。
右手が素早くヘルワン・モデル・ブリガーディアのグリップを握る。部屋の警護に気配を察知されたか!
意を決するより早く、右手は刀を抜く侍のようなモーションでヘルワン・モデル・ブリガーディアを抜いた。消音器を装備しているのでいつもより抜き放つ動作が大きくなる。
セフティは解除。薬室に1発。弾倉に7発。
右手一杯に伸ばし、ヘルワン・モデル・ブリガーディアを半開きになっているドアの内部へ向ける。
友人に対しての冒涜だと自分を罵ったが、マキが公乃と云う【ライバル】に対して、好意的に今まで損得勘定を見せないで付き合ってくれていること自体が不自然だった。
収録中もその思考に覆い尽くされるのを必死で抑えた。
今は目前の仕事に傾注しなくては。
いつ終わるのか推測すら出来ない現場での情報収集は、純粋な忍耐力を試される。
過去に、現場に張り付いたまま動けないから小便を漏らしながら撮影を続けたこともあった。
何ヶ月も追跡と尾行を繰り返した結果、予算が尽きて土壇場で自転車を盗難して追いかけたこともあった。
潜入する為に風俗嬢の真似事もした。
たったそれだけの情報を得るために自分……否、人としての在り方や尊厳も捨てる。
それがプロの情報屋だ。
クライアントを喜ばせるため。自分が生きるため。生きている実感を得るため。
様々な理由が公乃にはある。
どれもこれも叶えるためには命以外なら捨てる。
そのプロたる公乃の足元を、スッと掬う存在がこんなに身近に居た。
海崎マキ。
そう。海崎マキだ。
全て彼女が仕組んだのだとしたら? 『全て』とは? 何処から仕組んだ? 何のために? 誰の命令か? そもそも何者か? 自称25歳の女性。
軽くカールした黒髪が印象的な、顎先が細くて色白で、ほっそりしたスタイルで少しダウナーな雰囲気……マキは……?
――――あれ?
――――あれ?
公乃は機材を構えたまま、背中に氷を這わされたように寒気を覚えた。
――――マキって『どんな顔』だったっけ?
姿形や衣服や背丈はすぐに脳裏の浮かぶのに、その顔は擦りガラスを通したように不鮮明だった。脳裏に浮かぶマキの全体像で顔だけが欠落していた。……ベイカーベイカーパラドックス。
――――『あいつは誰だ!』
怪談話のオチまで聞いたように寒気が走る。
冷たい感触が全身を広がり額に大粒の汗が浮き出る。
今直ぐ機材を投げ捨てて逃げたい気持ちと、最後までこの現場を見届けなければと云うプロ根性が凌ぎ合う。
先ほどのウォーターサーバーでもう一杯余分に水分補給していればこの場で小便を漏らしていたかもしれない。
暑さとは違う理由で喉が渇き、不快な液体が喉から鳩尾にかけて上下する。
暑いのか寒いのか……熱いのか冷たいのか分からない。体内のセンサーが突然狂ったようだ。偏桃体が騒ぎ、アドレナリンが吹き出る。それに伴い様々な脳内物質が生成されて脳に投射される。
早く会合が終わって欲しい。
早くマキに会って『詳細』を聞きたい。
機材のカメラを構える手に脂汗が湧くように濡れる。首筋に汗の粒が幾重も辿って下降し、衣服に吸い込まれる。
鼻の頭にまで汗が吹き出る。
呼吸を整えようと、腹式呼吸に切り替えて自分を無機物だと自己暗示をかける。
土壇場の緊張でのシャッターチャンスを逃すまいと、背景に渾然と混ざるために何度も試して成功した腹式呼吸による瞑想状態。
爪先、脹脛、膝、太腿、股間、肛門、臀部、腰、下腹部、内臓、胃、手首、肘、肩、背中、肩甲骨、頸、顎、口元、鼻、眼、眉間、額、前頭部、頭頂部、後頭部の順で意識を向けて緊張をゆっくり解く。
その順番をゆっくりと心の中で腹式呼吸の吐く時のタイミングにあわせて一箇所ずつ行う。
程好い脱力。
意識してリラックス状態に陥らせる。
心臓や自律神経が一度でもこの腹式呼吸を用いた『自己暗示』で土壇場を凌いだと云う成功体験を得ると、何度でも実戦で用いて体が覚えてしまう。
どんな時も、この腹式呼吸による瞑想じみた脱力を行えば切り抜ける事が出来ると云う自信を持つ。
汗が心なしか止まったような気がする。
緊張が解れたので、自律神経が司る体表のセンサーが正常に作動し、空間内部を冷やしているエアコンの作用を正常に脳に信号を送り出したのだ。
鳩尾の不快感が和らぐ。喉の渇きは酷くなる気配は無い。水分は失っているので水を飲まない限り渇きが治まることは無い。
今の公乃のメンタルは聖人のように、水鏡のごとく平静ではないが落ち着いて状況を判断するだけの思考が廻り始めた。
この間、10分。
無防備な10分。
メンタルを自力で調整するのはそれだけ難しい。
10分の間に何らかの変化が訪れれば、軽いトランス状態の公乃では対処できない。なので、この呼吸法で自らを鎮めるのは諸刃の剣以上に危険なのだ。
機材を構える左手の指先が軽くなり、操作レバーにかけた右手の人差し指が軽くなる。
――――?
――――途切れた?
――――破談?
壁向こうの会話が突然終了した。
ファインダーのレティクルを何度覗いても、音質の調整は正常で音源は拾い続けている。対象が移動したとは考えられない。
時間にして……この建物に侵入して2時間経過した。
記憶が確かなら、午後8時を経過している。廊下は灯かりが点いている。前後左右に人の気配は無い。目前4mに目標のドア。自分は階段からの角を遮蔽にして収録機材を構えている。
状況の整理終了。
補足として、肌感覚としての涼しさや宿泊施設らしい清潔な空間、僅かに混じる夏草の香りなども付け加える。
即ち、静かな空間で、この上ないくらいの好条件で自分は現場に臨んで仕事を遂行している最中なのだと再確認。
そこの好条件に自分の命が狙われると云う余談は付け足さない。それは余談でも特記事項でもなく、命の危険は大前提だからだ。
シャッターを押すボタンの周囲に取り付けられた様々なレバーを操作し、壁向こうやドアなどに集音機のマイクを向けて音を拾うとするが、ありえない事に何も収録できない。
収録できていない、ではなく、収録できないのだ。
誰も何も話をしていないかのように静かだ。自分の鼓動が静かに打つ。
腹式呼吸を続けているお陰で平静が保てる。頭が冷静に思考してくれる。
先ほどは極度の緊張に晒されながら、極端な猜疑心に焦燥を募らせてパニックになっていたらしい。
ドアを開かない以上、部屋の内部の情報を集める事が出来ないので足音を極限まで殺してドアに近付く。
「…………」
人の気配が、在る。
確かにそこに……ドアの向こうに人は居る。
会合する勢力は二つ。
会合する人物が連れてきた警護は2人ずつ。合計4人。階下で殺害してしまったのは2階へ踏み込む事を禁じられた三下の運転手だろう。つまり、ドアの向こうの大広間では主要人物2人と警護4人の合計6人が居る。
事前に調査した数と食い違いは無い。
『邂逅してはいけない人物同士の会合』なので秘匿性が高く、それぞれの組織でもこの会合を知っている者はホンの一握りのはずだ。
双方の組織の懐刀的ポジションの人間が『双方のトップの指示を仰がず』会合を交わしているのだから、これ以上に重要な会合は無い。
……いかんいかん、と、公乃は下唇を噛む。
そこまで考えが及ぶと、必ず海崎マキとの出会いから現在に至るまでが謎として浮き彫りになるのだ。
不意に、ドアが軽く軋んだ音を立てて開いた。
右手が素早くヘルワン・モデル・ブリガーディアのグリップを握る。部屋の警護に気配を察知されたか!
意を決するより早く、右手は刀を抜く侍のようなモーションでヘルワン・モデル・ブリガーディアを抜いた。消音器を装備しているのでいつもより抜き放つ動作が大きくなる。
セフティは解除。薬室に1発。弾倉に7発。
右手一杯に伸ばし、ヘルワン・モデル・ブリガーディアを半開きになっているドアの内部へ向ける。