星を掴む
「…………」
――――やっぱりね。
目前3mの位置の左右に分かれる辻を見ながら納得する。
追いかけられている最中に突然、殺意敵が消えて走りやすくなった。重圧を感じなくなった。逃げやすくなった。『水が飲みやすくなった』。
自分が罠に陥る直前だと、彼女は悟ったのだ。
喉から胃袋から冷水が染み渡り、体内の温度が急激に冷却される。
3m目前。
そこを横切った時に銃火に晒されて蜂の巣となっていただろう。
「!」
――――気取られた!
こちらが罠に気がついた事を連中に知られた。
連中の戦力がそこに集まっていたのが、一気に公乃に向かって『走り出す』。
姿は相変わらず見えない。気配のみ。
自在に気配を滲み出す事が出来る殺し屋か殺し屋紛い……この業界でも数は多くない。
脳内に候補が何人か浮かび上がる。しかも集団で売り出している業界人間ともなると数は少ない。
左右の壁。建物の路地に面した壁やトタンの壁。家屋や店舗やガレージの裏手口が並ぶ、細く狭く黴臭い路地。まさに壁一枚向こうに数人が潜んで、追撃を続けている。
足音や呼吸が聞こえる。衣服がこすれる音も聞こえる。今度は具体的に知覚しやすい音を発して圧力をかけてきた。
きびすを返して走りながら、空になったペットボトルを捨てる。ヘルワン・モデル・ブリガーディアを右手に握り直す。
そして急ブレーキ。
再びの急ブレーキ。
勢いよく追いかけていた連中の先頭が、勢いを制御できずに公乃を追い抜いてしまった。
勿論、姿見えたわけではない。右手の壁の向こうで足音と呼吸と衣擦れが過ぎていったのだ。
その気配の塊を感じた地点に向かって……右手前方5m辺りの壁に向かって3発発砲する。
盲撃ちだ。
姿の見えない標的に対しての発砲。
それでもそこに確かに居ると確信があった。
錆だらけのトタンに吸い込まれた3発の9mmパラベラムは姿の見えない標的を仕留めた……仕留めたような『音』を聴いた。
吊り下げた生肉の塊を握り拳で殴るような生々しい『音』を聴いた。それを手応えともいう。
錆だらけのトタンの壁にもたれかかるような重い何かの重量に耐え切れず、トタンは錆びた部分から裂けて銃身を切り詰めたM1100散弾銃を抱いた男が転がり出た。
その男の右耳にイヤホンが差し込まれていた。公乃は息が消えつつある男に走りより、ヘルワン・モデル・ブリガーディアを腹のベルトに差し、右手で12番口径4連発の短い銃身でストックも切り落としたそれを拾う。
胸と腹に被弾していた無力になった男の左肩からかけられている弾帯を奪い、走る。
今度は、連中は形振り構っていないだろう。仲間が討ち取られて武器を奪われたのだから。
「?」
――――おかしい……なんで?
――――『呼吸』が乱れていない?
複数の気配は相変わらず、魑魅魍魎じみた気配を振りまきながら壁一枚向うから公乃を追いかける。
一人欠けたくらいで乱れる連携ではないと云うことか?
奪った銃はレミントンM1100。ガス圧で作動するセミオートの散弾銃だ。銃身を交換し、それに伴いチューブ弾倉も交換すれば最大8発ものショットシェルを装填できる。手元のモデルは4連発だ。切断された銃身やストックの断面は丁寧にヤスリがかけられていて得意な得物の一つとしていたのが分かる。
――――おかしいでしょ?
――――なんで『追いかけてこられる』の?
様々な謎が去来したが、両手に抱えるように構えたレミントンM1100に視線を落として数秒してから脳裏に閃く物があった。
『自分がこの集団を率いて有効に連携させるのなら……』と考えが及び、背中を向けて後ろ走りの体勢でレミントンM1100を構え上空を睨む。
「やっぱり!」
思わず声に出る。
満月に近い空。その月の端を横切る小さな影。蝿のように小癪で、蚊のように小癪で、蛾のように小癪。
ドローンだ。
それも半操縦型の完全自立ではない、リモコン操作との切り替えが可能なモデル。
ドローンの性能を見切ったのではない。
現場に投入するのなら、そのモデルが都合が良いと一部の情報収集業者の間では有名だからだ。
距離、目測で30m。
目測の指標になる対象物が少ない夜空ではそれ以上の判断は不可能。
気配がぞろぞろと路地を塗り替えるように這う。這い寄る。
公乃は散弾銃を腰溜めにして次々と発砲した。後ろ向きで走りながら弾帯から4発の散弾を抜き再装填。続けて発砲。8発目でドローンを撃墜できた。
直径50cmほどの、電気屋街で買える一般的なドローンだ。特殊な装備は赤外線カメラくらいだろう。公乃を正確に追撃する連中の『眼』となっていたドローンはアルミ缶を踏み潰したような音を立て、面に激突。
オペレーターが空から公乃の行動を窺って、現場の人間に指示を出していれば、確かに壁越しでも正確な追尾が可能だった。
レミントンM1100の男が耳にイヤホンを差していたのが謎を解く鍵だった。
『誰か指示を出している』に違いなかった。
誰かが現場を俯瞰して指示を出している。
気配や圧力を操れるからと言って、全ての土地鑑に通じているとは考え難い。
この場所が偶々連中にとって庭先のようなものだとはどうしても思えなかった。全てが偶々の積み重ねなど無い。最初は事の初め。次は偶然。その次も同じ事が起きるのならそれは必然だ。
そして、自分ならどうするかと視点を変えて考察してみた。
その結果の形勢逆転だった。
辺りに漂う気配がざわつく。
否、気配では無い。小さな聞き取れない会話が零れてくる。
公乃はドローンを撃墜した後に路地を走って元来た道を辿った……予想通りだった。
連中をナビゲートしていた『眼』のドローンを失った途端に、壁越しに執拗に追跡する気配は途切れた。
拾ったレミントンM1100を構えたまま走る。装填はしない。肩からかけた弾帯にはざっと見てまだ20発近い2.75インチのシェルが差さっていた。
今夜のネタの収集は諦めるしかない。
何処かの情報収集屋が今夜のネタの行く末――中止になったか? 決行されか? 場所が変更になったか?――を勝手に纏めて何処かの情報屋に売りつけるだろう。
図らずも、公乃自身が今夜の現場を『盛り上げる』役目を果たしてしまった。
何処の殺し屋集団かは知らないが、台無しにしてくれた落とし前をつけねばならぬと奥歯を強く噛む。
スリングの付いていないレミントンM1100をせめての戦利品として、機材を回収して撤収した。
※ ※ ※
午前10時。
【企業】秘書課オフィス内。部長室。
「いやー、今日も暑い。会社に来るまでに体が融けそうだ」
平井一は出社して自分の執務室に来るなり、年寄り臭い台詞を飄々と吐く。
先に執務室で書類整理をしていた田中井裕子は、おはようございますと挨拶をすると、纏めた資料の電子データを平井一のパソコンにメール経由で転送した。
「部長の通した企画、そろそろ効果が出ているらしく、上層部から好い返事が返っています……どうします? まだ情報屋たちをテストしますか?」
田中井裕子は、平井一の通した企画の内容の概要に当たる部分を読んで大雑把に理解していた。
平井一の表向きの目的は、遣える情報屋を組織の傘下に収めて『マーケティング』の範囲を広めること。
然し、実際には、冷え込む業績を闇社会全体で底上げすることだった。
この【企業】だけが一人勝ちしていたのなら、火付け役は直ぐにばれるし圧倒的多数に恨みを買う。
――――やっぱりね。
目前3mの位置の左右に分かれる辻を見ながら納得する。
追いかけられている最中に突然、殺意敵が消えて走りやすくなった。重圧を感じなくなった。逃げやすくなった。『水が飲みやすくなった』。
自分が罠に陥る直前だと、彼女は悟ったのだ。
喉から胃袋から冷水が染み渡り、体内の温度が急激に冷却される。
3m目前。
そこを横切った時に銃火に晒されて蜂の巣となっていただろう。
「!」
――――気取られた!
こちらが罠に気がついた事を連中に知られた。
連中の戦力がそこに集まっていたのが、一気に公乃に向かって『走り出す』。
姿は相変わらず見えない。気配のみ。
自在に気配を滲み出す事が出来る殺し屋か殺し屋紛い……この業界でも数は多くない。
脳内に候補が何人か浮かび上がる。しかも集団で売り出している業界人間ともなると数は少ない。
左右の壁。建物の路地に面した壁やトタンの壁。家屋や店舗やガレージの裏手口が並ぶ、細く狭く黴臭い路地。まさに壁一枚向こうに数人が潜んで、追撃を続けている。
足音や呼吸が聞こえる。衣服がこすれる音も聞こえる。今度は具体的に知覚しやすい音を発して圧力をかけてきた。
きびすを返して走りながら、空になったペットボトルを捨てる。ヘルワン・モデル・ブリガーディアを右手に握り直す。
そして急ブレーキ。
再びの急ブレーキ。
勢いよく追いかけていた連中の先頭が、勢いを制御できずに公乃を追い抜いてしまった。
勿論、姿見えたわけではない。右手の壁の向こうで足音と呼吸と衣擦れが過ぎていったのだ。
その気配の塊を感じた地点に向かって……右手前方5m辺りの壁に向かって3発発砲する。
盲撃ちだ。
姿の見えない標的に対しての発砲。
それでもそこに確かに居ると確信があった。
錆だらけのトタンに吸い込まれた3発の9mmパラベラムは姿の見えない標的を仕留めた……仕留めたような『音』を聴いた。
吊り下げた生肉の塊を握り拳で殴るような生々しい『音』を聴いた。それを手応えともいう。
錆だらけのトタンの壁にもたれかかるような重い何かの重量に耐え切れず、トタンは錆びた部分から裂けて銃身を切り詰めたM1100散弾銃を抱いた男が転がり出た。
その男の右耳にイヤホンが差し込まれていた。公乃は息が消えつつある男に走りより、ヘルワン・モデル・ブリガーディアを腹のベルトに差し、右手で12番口径4連発の短い銃身でストックも切り落としたそれを拾う。
胸と腹に被弾していた無力になった男の左肩からかけられている弾帯を奪い、走る。
今度は、連中は形振り構っていないだろう。仲間が討ち取られて武器を奪われたのだから。
「?」
――――おかしい……なんで?
――――『呼吸』が乱れていない?
複数の気配は相変わらず、魑魅魍魎じみた気配を振りまきながら壁一枚向うから公乃を追いかける。
一人欠けたくらいで乱れる連携ではないと云うことか?
奪った銃はレミントンM1100。ガス圧で作動するセミオートの散弾銃だ。銃身を交換し、それに伴いチューブ弾倉も交換すれば最大8発ものショットシェルを装填できる。手元のモデルは4連発だ。切断された銃身やストックの断面は丁寧にヤスリがかけられていて得意な得物の一つとしていたのが分かる。
――――おかしいでしょ?
――――なんで『追いかけてこられる』の?
様々な謎が去来したが、両手に抱えるように構えたレミントンM1100に視線を落として数秒してから脳裏に閃く物があった。
『自分がこの集団を率いて有効に連携させるのなら……』と考えが及び、背中を向けて後ろ走りの体勢でレミントンM1100を構え上空を睨む。
「やっぱり!」
思わず声に出る。
満月に近い空。その月の端を横切る小さな影。蝿のように小癪で、蚊のように小癪で、蛾のように小癪。
ドローンだ。
それも半操縦型の完全自立ではない、リモコン操作との切り替えが可能なモデル。
ドローンの性能を見切ったのではない。
現場に投入するのなら、そのモデルが都合が良いと一部の情報収集業者の間では有名だからだ。
距離、目測で30m。
目測の指標になる対象物が少ない夜空ではそれ以上の判断は不可能。
気配がぞろぞろと路地を塗り替えるように這う。這い寄る。
公乃は散弾銃を腰溜めにして次々と発砲した。後ろ向きで走りながら弾帯から4発の散弾を抜き再装填。続けて発砲。8発目でドローンを撃墜できた。
直径50cmほどの、電気屋街で買える一般的なドローンだ。特殊な装備は赤外線カメラくらいだろう。公乃を正確に追撃する連中の『眼』となっていたドローンはアルミ缶を踏み潰したような音を立て、面に激突。
オペレーターが空から公乃の行動を窺って、現場の人間に指示を出していれば、確かに壁越しでも正確な追尾が可能だった。
レミントンM1100の男が耳にイヤホンを差していたのが謎を解く鍵だった。
『誰か指示を出している』に違いなかった。
誰かが現場を俯瞰して指示を出している。
気配や圧力を操れるからと言って、全ての土地鑑に通じているとは考え難い。
この場所が偶々連中にとって庭先のようなものだとはどうしても思えなかった。全てが偶々の積み重ねなど無い。最初は事の初め。次は偶然。その次も同じ事が起きるのならそれは必然だ。
そして、自分ならどうするかと視点を変えて考察してみた。
その結果の形勢逆転だった。
辺りに漂う気配がざわつく。
否、気配では無い。小さな聞き取れない会話が零れてくる。
公乃はドローンを撃墜した後に路地を走って元来た道を辿った……予想通りだった。
連中をナビゲートしていた『眼』のドローンを失った途端に、壁越しに執拗に追跡する気配は途切れた。
拾ったレミントンM1100を構えたまま走る。装填はしない。肩からかけた弾帯にはざっと見てまだ20発近い2.75インチのシェルが差さっていた。
今夜のネタの収集は諦めるしかない。
何処かの情報収集屋が今夜のネタの行く末――中止になったか? 決行されか? 場所が変更になったか?――を勝手に纏めて何処かの情報屋に売りつけるだろう。
図らずも、公乃自身が今夜の現場を『盛り上げる』役目を果たしてしまった。
何処の殺し屋集団かは知らないが、台無しにしてくれた落とし前をつけねばならぬと奥歯を強く噛む。
スリングの付いていないレミントンM1100をせめての戦利品として、機材を回収して撤収した。
※ ※ ※
午前10時。
【企業】秘書課オフィス内。部長室。
「いやー、今日も暑い。会社に来るまでに体が融けそうだ」
平井一は出社して自分の執務室に来るなり、年寄り臭い台詞を飄々と吐く。
先に執務室で書類整理をしていた田中井裕子は、おはようございますと挨拶をすると、纏めた資料の電子データを平井一のパソコンにメール経由で転送した。
「部長の通した企画、そろそろ効果が出ているらしく、上層部から好い返事が返っています……どうします? まだ情報屋たちをテストしますか?」
田中井裕子は、平井一の通した企画の内容の概要に当たる部分を読んで大雑把に理解していた。
平井一の表向きの目的は、遣える情報屋を組織の傘下に収めて『マーケティング』の範囲を広めること。
然し、実際には、冷え込む業績を闇社会全体で底上げすることだった。
この【企業】だけが一人勝ちしていたのなら、火付け役は直ぐにばれるし圧倒的多数に恨みを買う。