星を掴む

 活気が戻るのはいいことだ。目に見えた感覚と体験する感覚とはまだ少し距離が有るが、手元の古い情報もそれなりの値段で売れるようになった。
 新しいネタを仕入れるために現場に赴く回数も増えた。
 手に入れたネタを割り振りして、タイミング悪くこの時期にデビューしてしまい、困窮していた若手の情報屋にもネタを格安で譲った。
 気になる事が一つ。
 それがグルグルと頭の中の片隅を駆け回る。
 何処の誰がどんな真意で? それと、自分を襲撃してきた荒事師連中は誰の依頼で公乃を狙ったのか。
 公乃の住処はとっくにバレているはずなのに、自宅に押しかける悪漢はいない。
――――もしかして……誰かが私を試している?
 そんな疑問が浮上した時に今夜の現場に到着した。
 盗難車の軽四ワゴンを乗り捨てて、助手席に置いてあった機材のバッグとミネラルウォーターのペットボトルが詰まったデイパックを取る。この場所から現場まで徒歩で10分。
 先ずは冷水を一口呷って一息つく。
 エアコンを効かせていても熱中症で搬送されると云う、どうしようもない昨今の暑さの前にはどんなタフガイも無力なはずだ。況してやただの人間である公乃は熱中症如きで恐れをなす。
 暗い路地を歩く。人の気配は無い。
 港湾部の現場に向かうまでにこの廃棄区画で立ち退き物件しか並んでいない区域を抜ける必要が有る。
 路地が狭すぎて軽四といえど、ギリギリまで乗り付けるのが精一杯だった。
 左脇に機材。背中に冷水のデイパック。左懐にヘルワン・モデル・ブリガーディア。予備弾倉も合計4本。足元を照らす程度のマグライトと赤い樹脂グリップでお馴染みのスイスのアーミーナイフがポケットに入っている。
 現場に着くまでに、悠々と黄色い紙パッケージからシガリロを抜き火を点ける。煙が虚空に吸い上げられる。
「……?」
――――いやな感じがする。
――――歩哨かな?
――――違うわね……もっと『黒い』。
 口にシガリロを銜えたまま午前1時を経過した廃棄区画の真ん中辺りでルートから外れる。
 このコースは現場から離れてしまう。
 するすると狭い路地に入り込みながら、右手を懐に伸ばし、音を立てずにヘルワン・モデル・ブリガーディアを抜く。セフティ解除。
 自分を追尾する何かが居る。
 誰かが、『囲むように接近している』。
 足音は自分の分だけが聞こえる。
 気配。
 ふと立ち止まり、火がとっくに消えている半分ほどの長さになったシガリロを吐き捨てる。
 辺りは勿論、光源に乏しい。
 表通りから差し込む街灯の明かりの零れに与る程度の灯り。右手にダラリとヘルワン・モデル・ブリガーディアを提げる。呼吸を整える。
 敵意を感じる。殺意も感じる。憎悪も感じる。悪意の塊をぶつけられている気分だ。
 左脇に重くぶらさがる機材は総重量4kg。機材本体は2kgと軽量だが、予備バッテリーや装着する小型集音機を加えれば4kgの重さになる。これでも最軽量の部類だが、鉄火場で必要の無い錘を持ち込んで鉄砲を撃つのは自殺行為だ。いきなり4kgの脂肪が付着して腹を突き出して走っているのと同じ疲労だからだ。
 機材をその場に静かに置く。
 背後の路地や左右の壁面の向こうでは、右へ左と頻繁に移動を繰り返す複数の気配を感じる。
 足音は聞こえるが狭い路地に反響して推し量り難い。
 静かに左手を左手側の壁に押し当てる。掌から伝わる微細な振動を感知。壁が広くて薄ければ体感的な精度は高くなるが、左手側の壁は壁と云うより建物の壁面なので索敵できる範囲が狭い。
 頭上をふと見上げる。
 月明かりを感じたからだ。
「……」
――――満月……に近いか。
――――助かった!
 地上を、薄暗くでは有るが、満遍なく照らす光源がいきなり手に入ったのは僥倖。それは敵方にとっても同じだが、精神的優位に立った錯覚は心を強くした。
 機材を置いた場所から数m進んで突然、右手側の路地へと走り出した。
 目的は撹乱。
 兎に角トリッキーな動作を続けて連中の連携を乱すのが先だった。
 連中がそこそこの訓練を積んでいるのは気配で分かる。殺気だの敵意だのは連中の演技だ。
 気配を演技で滲み出させて、無言の圧力で相手を罠に追い込む殺し屋風情は腐るほど見てきた。
 気配だけで相手を追い込み、標的に対人地雷を踏ませるゲリラ戦の訓練を受けたプロも多い。
 たった一発も発砲していないのだから、体に硝煙反応が残らないので司直からも逃げ易い。
 金属音。鋭い。近い。
 背中のデイパックも下ろすべきだったと思った瞬間に、左手側の錆びたトタン板をぶち破って散弾が発砲された。
 こんなに狭い空間。なのに大きなパターンの散弾の穴。粒からしてダブルオーバック。素早く3連射。ポンプアクションではない作動音。
 耳を劈く銃声。
 腹にくぐもる、尾を引く銃声。明らかに銃身を切り詰めている。
 狭い空間でも振り回し易いように加工したのか、それとも得意とする得物なのか。
 脊髄反射でヘルワン・モデル・ブリガーディアを、壁の向うに潜む射手に向かって構えるが、引き金を引くのは思い留まる。
 公乃は『自分の尻を叩かれて移動する先を操作されている』ような違和感がした。
 爪先に急ブレーキをかけ、踵を返して散弾で孔が開く壁の有る方へと引き返す。猛然とダッシュ。角に来るたびに出鱈目に走り回る。
 それでも尚、的確に追いつく複数の気配。かなりの手練。
 未だに姿を見せていない。
 影は見えるが態と見せているに違いない。
 自分は迷路の中を右往左往しているモルモットで、迷路の壁の上を走る猫の集団に囲まれている気分だ。
 汗が吹き出る。不規則な全力疾走。普段以上に体力を消耗する。どうせなら右手に握るのはヘルワン・モデル・ブリガーディアではなく背中に背負った冷水のペットボトルにするべきだったと悔やむ。
 時折、発砲される。
 その発砲で、針路変更を余儀なくされる立ち退きの廃屋が軒を連ねる廃棄区画の中央部に誘導されている。
 勿論、今夜仕入れるはずだった情報のネタは諦めるしかない。今し方の発砲で怪しんだ歩哨たちが連絡して今夜の集会は無しになり、決定的シャッターチャンスは消失しているかもしれない。
 自分の命も大事だが、情報屋の矜持として、情報収集の現場に赴く者として、ネタの一つも仕入れずに死んでしまうのは情けなすぎて成仏できない上に恥ずかしくて化けて出ることもできない。
 プロの殺し屋に追われるのは初めてではない。
 プロの殺し屋と言っても、一人一派だと思えばいい。
 故に、公乃を追いかける殺し屋風情が何者かは未だに判然としない。『だからこそプロだ』。
 何処の誰が何のために標的を狙うのか? ということが標的に察知されてしまうことは、依頼内容の半分以上が失敗している事を指す。
 公乃は体力……厳密には喉の渇きの限界を覚え始めた。
 あと少し走れば完全に熱中症になる。
 体温の異常な上昇を感じる。
 我慢ならず走りながら左手で背中に手を伸ばし、手探りで半分凍らせた冷水を掴もうとする。
 その時だ。
 耳に障る小さな音が飛び込む。
 小さな小さな、砂利を踏んだような音。
 それが複数挺の拳銃がコッキングやセフティ解除の音だと悟ると、走るのを突然止めて荒い呼吸のまま、左手に取ったペットボトルのキャップを捻って中身を呷る。
 喉を走る冷たい水が心地よい。一気に生命が吹き返す。喉を鳴らして2リットルのうち3分の1ほどを空にする。
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