深淵からの咆哮

 部屋から出ると直ぐに隣の部屋へ移動し、仕事用の部屋へと入る。コーヒーメーカーと事務デスクとファイルを架けた本棚があるだけの殺風景な部屋だった。
 エアコンを作動させて暖房を起動。事務デスクの上にぽつんと置いてあるノートパソコンを開いて本日の依頼を確認。
 毎日毎日盛況なわけではない。この業界も世間の景気に左右され易い。仕事が無い時は本当に何も無い。仕事が有る時は一日で何件も現場を走り回る事もある。
 世の中が不景気な時ほど荒事稼業の景気はいい。不景気とは経済だけの話ではない。噂が全国放送の報道で話題として連日取り沙汰されただけで、仕事の依頼にも影響がまともにくる。
 素人相手が多い始末屋は、素人がテレビや新聞だけで手に入れた情報を元にコロシを依頼してくる事も少なくは無い。
 笑い話ではなく、何処そこの国の大統領が気に入らないから殺してくれと依頼されたことも10件や20件ではない。勿論、丁重にお断りしている。
 素人相手だからと、此方も顔をまともに晒して接触はしない。
 できるだけデジタル媒体やネット経由で連絡を取り、毎回、アカウントを作り直している。
 アカウントを作っても使用するサーバーからアシが付くのを回避する為に直接国交の無い国を経由するサーバーを借りて連絡を取り合う。
 使用する仕事用の携帯電話も、電気屋街の路地裏で売られている飛ばし携帯だ。
 通話時の音声を電子的変換する機材も揃えた。裏の世界の作法や空気が読めない素人を顧客に持つと、まともな仕事をまともに遂行するのも一苦労だ。
 『安全に遂行できそうな依頼』を様々なフィルターを通して選別する。
 アイゼンハワーマトリックスと同じ分類の仕方だ。
 更にブレインストーミングのセブンクロス法で細分化。
 仕事に優先順位をつける。できる物なら全ての依頼を独占したい。裏の世界なら、裏の世界の住人同士で殺伐とした世界が展開されるので誰も口を開かない。殺したほうも殺されたほうも直接手を下したのは唯の雇われた殺し屋で、殺し屋を殺しても何も解決しない事を知っているからだ。
 だが、素人は違う。
 コロシを実行した本人に恨みの矛先が向く。
 殺しを気安く請け負うと、今度は何処かの殺し屋に「始末屋を殺してくれ」と依頼して訳も解らず殺される事態を招く。今までに何度もその未遂が有った。
 殺し屋も馬鹿では無いから、何でもかんでもコロシは引き受けない。
 だから素人の依頼は門前払いする。その後になって風の噂で実は京はもう少しで殺し屋の標的なっていたと知る。
 ちょっとした齟齬が知らぬ間に自分の命を左右している……この業界では珍しくない。だから定額で第三者の情報屋を雇って、定期的に殺し屋界隈の情報を買っている。
 自分の始末屋も大きな規模のコミュニティを持ちたいところだが、このようなニッチな層を相手にしている荒事家業は非常に少ないはずなので、コミュニティを形成する以前の話しだ。
 そんな時はふと孤独に駆られて男娼を買いに街に出る。纏めて3人ほど買って粗暴に扱うように命令して、自分の体を好き勝手に扱わせる。 絶頂の果てに気を失ったように寝息を立てるまで男娼に任せる。
 人と触れ合っているのに孤独な心。これは決して矛盾していない。
 交流の数が多いのと、寂しいのは反比例ではない。孤独だからこそ人との接触を求める。
 オフの日でも街中で雑踏を眺めながら、瞑想のように頭を空っぽにしている。
 愛車のエンジン音が可愛らしく聞こえるのだから、末期に近い孤独だろう。引退して結婚も考えたし、同じ世界の誰かの庇護を受けて寿退社も考えた。勿論、考えただけで実現は限りなく不可能だ。
 結局、寂しいままの子供が、齢を重ねて裏世界で人殺しをしているだけの脆弱な存在。
「…………ふう」
 依頼を分類して細分化した結果、緊急で重要な依頼は1件しかなかった。
 緊急でなく重要でない依頼の殆どは、殺し屋との区別がついていない素人さん。本日はこれを片付けるか、と大切な依頼であるその1件の連絡先をクリックする。
   ※ ※ ※
 眠ると夢を見る。
 人間である限り、正常な睡眠を取っている限り、人間は一晩で4つから7つの夢を見る。その中でも特にインパクトが強かった物だけが記憶の残滓として脳裏にこびり付く。
 起床して曖昧ながらも夢のストーリーを覚えているのはそのせいだ。夢の医学的解析は未だ解明されていないので、今後に新しい学説が生まれるとこの通説も覆るだろう。
 京はそんな事を思いながら郊外の廃工場に来た。
 深夜2時。
 空は、夜でも曇り空だと解る。今にも雪が降りそうな凍てつきが爪先から這い登ってくる。
 風や空気が冷たくて湿度が低いほど、京は道の駅で出会った妖艶な美女の事を思い出す。
 普通の冬の衣装。
 口数は少ないが、態と少ない台詞で意志を伝えるように務めているかのような口調の彼女。
 彼女に逢いたい。何処に行けば逢えるのだろう。
 情報屋を使えば難なく彼女を発見することができるだろう。だが、何者でもない唯の個人の女として、彼女に逢いたかった。
 道の駅の彼女。
 狭いハイエースの中でのいっときの熱い性の歓交は忘れない。忘れなさ過ぎて貪欲に彼女を求める。
 仕事前の緊張すら融解してしまうほどに、下腹部が熱を帯びる。今から人の命を吹き消しに行く非道を行うというのに、脳内で何かがコンフリクトもアンビバレンスも発生させること無く存在し、融和して同行している。
 裸体に無数のぬるりとした触手が絡み付いているのに、それですら衣服のように違和感無く従えているような密着感。
 彼女の指と舌は膣を男根に抉り返されるのとは違う瑕を深く深く残していた。
 命の遣り取りが発生するかもしれない危険な職場に於いて、性愛の妄想に浮かれてしまうのだから流石に自分の頬を拳で殴った。平手でパチンと叩きたいがそれでは甲高い音で標的に逃げられてしまう。
 イサカ・オート・バーグラーは確かに左脇に収まっている。
 万が一の豆鉄砲もジーンズパンツの尻ポケットに突っ込んでいる。
 腰に巻いた20番口径の弾帯が今夜はズシリと重い。弾薬や銃が重く感じる現場は限って、良い予感はしなかった。
 相手も命懸けで逃走や隠遁を企んでいるのだから、反撃は前提だ。必ず頭部を20番口径で破砕しなければ気が済まない。彼女のプロ意識ではなく、以前に腹部胸部にスラッグを撃ち込んで絶命したと思っていた標的が死の境地から突然舞い戻り、殴りかかってきた事があった。その時は薬室が空だったので咄嗟に抜いたバックアップの豆鉄砲で止めを刺した。
 そんな経緯が有って、直感は信じるタイプだ。
 たった一度の偶然でも、それに縁起や験担ぎをしてしまう、か弱い人間はこの世界では珍しくない。
 計算の上に計算を重ねても、最後に恃むのは運や偶然や神様の悪戯だ。天命を待つのみと云う言葉はやるべき事を全て成して、後は人智が及ばぬ領域ゆえにその次元の存在に任せるしかないと云う意味だ。
 何でもかんでも強運のみで切り抜けられるほど甘くは無い。
 強運で切り抜けていると思う荒事事業者も何人か知っているが、そいつらは例外なく、無自覚でベストを尽くしている。
 即ち、不断の努力と綿密な計算だけが人間が行える領域だ。
 廃屋の前に立つ。盗難車のミニバンは乗り捨てた。鉄骨が軋む音が聞こえる廃屋同然の工場跡。
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