深淵からの咆哮

 高神京と云う名前を、メッセンジャーボーイの収入で得た金額で買った。
本物の高神京と云う人物は今頃は台湾の近海で魚のエサになっている女性の名前だった。
 彼女の職掌は主にアナログデータの手渡しだった。解析して非合法だと判明する書類や記憶媒体の運搬が仕事だ。
 裏の世界ではアシが残り易いデジタル媒体は意外と信用されていない。金儲けの道具としては有用だが、版図を広げるのには昔ながらの伝達方法が優遇された。
 少年が少女だったのを驚いた者は少なかった。「まあ、そういうこともあるだろう」……そんな空気が強かった。京が京と名乗ったのは18歳の時。
 少女を卒業しようかという年齢。その歳に『童貞を捨てた』。
 メッセンジャーボーイとして通用していた彼女を怪しむものは居ない。
 ただの末端構成員で、暴力は範疇外の、石ころのように思われていた。その彼女に金バッジの幹部はS&Wの38口径5連発のスナブノーズと写真を一枚、手渡して「片付けてこい」とだけ言った。
 写真の人物には覚えがある。かつて自分がフラッシュメモリを渡した一軒屋の中年男性だった。
 『なるほど。自分なら警戒されずに始末する事が出来る』。
 拳銃と写真を渡されただけで理解した。
 かくして、写真の人物はあっけなく射殺した。時間にして5秒もかかっていない。
 数年前と同じく、インターフォンを押すと何も警戒せずに彼は応対に出て京の顔をみるなり相好を崩した。その笑顔は忘れない。その時の全ては忘れない。
 ジャージのポケットに突っ込んだスナブノーズをそのまま発砲。
 ポケットから抜くことも無く発砲。片手で3秒5発。
 この人物は助からないと『童貞』でも解った。腹に3発。左胸に1発。鳩尾に1発。バイタルゾーン。
 へそ下を目算で狙って引き金を引き、反動で吊りあがる銃口に任せて引き金を乱射。
 耳を劈く銃声が腹の辺りで5回咆哮。引き金の重さは命の重さだと何処かの誰かが言ったが、京も概ねその感想を抱いた。
 人を殺した悔悟の念に悩まされる気は全く無い。顔色を変えずにその場を去り、彼女の使いっ走りとしての仕事は終わった。
 セオリーとしては、使い終えた消耗品は処理される。人も物も。だから京は自分は今夜死ぬのだと諦観していた。この世に大した未練は無い。家出をした時が人生のクライマックスだったような気がする。
 その彼女に「『親方』からだ。今夜の夜行バスで逃げろ」と金バッジの幹部は札束一つとバスのチケットを京に投げつけた。
 夜行バスに飛び乗り、その金を生活費に今の街にやってきた。
 当時18歳。今は28歳。10年の歳月。
 10年間で学んだことは、殺し屋よりももっとニッチな客層を独り占めしようとする小狡い知恵を絞った結果、始末屋を思いついたことだ。 今でも始末屋を表看板にする荒事稼業は京だけだ。
 十把一絡げに殺し屋と間違われても嫌な顔一つせずに引き受け……ない。
 此方の職掌とその意図を説明した後、理解を示してくれた依頼人の話しだけを聴いている。
 殺し屋は一方的な殺戮を撒き散らす暴力の権化と云うイメージが先行してくれたお陰で、始末屋と言えばスマートでデリケートで痒い所に手が届く細やかな仕事を提供する達人だと勝手にクライアントが勘違いしてくれるので、京を名指しで指名する客はかなり居る。
 宣伝もPRもしていないがクチコミが広がり、今では客に困らない。困るのは表世界の素人の割合が多いことだ。
 表世界と裏世界の境界線に棲む人間が、表世界のカタギにちょっかいを出した末に困り果てたり、瞬間的に血圧を上げた人間が裏世界でも『割と静かに』仕事を片付けてくれる『らしい』と評判の素人が依頼に来る。
 従って殺し屋と始末屋の区別がついていない場合が多い。
 京としても、半分くらいは看板詐欺の思いはある。
 勘違いする方が悪いのだ。
 殺し屋と始末屋。
 それは本家蕎麦屋と元祖蕎麦屋、本格的と本格派などの解離と同じだ。
 つまり、解離しているが視点を変えれば何も解離していない。
 詭弁を弄して衒学的欺瞞に陥った素人の客を相手にしていると云う負い目も多少はある。
 それでも尚、京が成功して今でも生きていられるのは、成功率が100%だからだろう。
 報酬は提示した以上は貰わないややこしいオプションは付属させない。明朗会計。
 裏世界の人間だけが相手なら、依頼の前に報酬の駆け引きで既に勝負は始まっている。
 最初はその路線だったが、素人が相手だとややこしい料金表を提示しただけで直ぐに帰る上に、口止めが難しくなる。だから割合的に素人が多いと解ってからは、シンプルな料金見積で仕事内容を説明している。
 裏の世界でも珍しい『素人歓迎』の殺し屋だと、裏の世界でも京の評判は高い。
 裏の世界の人間は、裏の世界の人間の依頼だけを聞いて遂行していたい傾向が強い。どこから自分の素性が漏れるか解らない素人相手にコロシの仕事を請け負う京は謂わば、面倒事や嫌な客の終末処理場だった。
 そう考えれば、京の始末屋稼業は裏の世界が閉鎖的で排他的な気質だから成り立っている絶妙な職業といえた。
 京もまた表世界の人間から見れば日常と非日常の境目に棲む、裏世界への入り口に過ぎなかった。
 始末屋を利用して満足した素人は誰もが、自分が殺人を始末屋に代行してもらった事をおくびにも出さないが、自分と同じく真に困っている人間を見ると、義侠心や義憤の心から誰にも悟られずにそっと困っている人に始末屋を紹介する。
 始末屋の京は宣伝やPR無しで、極狭い客層の独り占めに成功した。それが金銭的に何とか成り立っている京の企業秘密。
 この世界で棲んでいれば、いつか必ず誰かが到達する地点に一足早く着いた。
 仕事道具も仕事のスタイルも転々とした。
 銃火器だけでなく刃物や毒物、爆発物なども試した。時には格闘スタイルからギャロットで絞め殺したり、人込みの中で背中からスティリットで刺し殺した事もあった。
 統計的に京の場合、一撃必殺、一撃離脱の傾向があるので銃火器で近距離で仕留める事に帰結した。
 更に解析すればいつも3発以下で標的を仕留めていることから、装弾数は大した事無くとも威力が高い銃が理想だと考えるようになり、狙って引き金を引けばちゃんと標的に当たる信頼性の高い銃が必要だ。……と武器屋に相談し、相応しい銃火器を手頃な値段で取り寄せてもらったのがイサカ・オート・バーグラーだった。
 確かに威力は申し分なし。
 銃と云うには余りにも大雑把な2連発だった。
 おまけで武器屋は豆鉄砲をサービスしてくれたが此方の方はバックアップで所持しているだけで、余り腕前に自信が無い。


 これが高神京の身上調書だった。
 大したプロフィールではない。何処にでも転がっている話だ。
 女だてらによく頑張った、汗と涙と感動の大巨編ではない。介護要員になるのが嫌で逃げ出した女の末路だった。


 イサカ・オート・バーグラーをメンテナンスして随分と気が抜けていた。
 銜えっぱなしのシガリロがいつの間にか鎮火して吸い口が唾液で潰れている。
 そのシガリロを灰皿に押し付けて銃火器専用の部屋から出る。
 イサカ・オート・バーグラーは既に鍵付きロッカーに仕舞ってある。メインのイサカ・オート・バーグラーのクリーニング中に襲撃される事を警戒して、手元に置いていた豆鉄砲を無造作に握ってジーンズパンツの尻ポケットに押し込む。これは『このように使う豆鉄砲』なのだ。雑な扱いではない。
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