深淵からの咆哮

 たった一つの事務室の中で、何十台も固定電話や携帯電話が並び、そこで電話番が対応しているだけの『企業』。
 電話一つが会社一つを意味する。
 会社に勤めているのに、会社の電話を維持するのと『手配している闇企業に対する謝礼』で此方がバカにならない金額を毎月払っている。
 コンスタントに一定以上の仕事を引き受けなければ途端に赤字になる。人の命を文字通り左右する京のような人間にとって、赤字は緩やかな自殺と同義語だった。
 揶揄無しに自分の頭を撃ち抜くために自決用に銃弾を用意している必要が有る。
 今更どうしてこのような硝煙臭くヤクザな仕事に埋没してしまったのかは考えない事にしているが、どうしても自分の原初や根源や基本や性分といった『今に至る理由』が脳内を過ぎる。
 それは忘れもしない……できれば忘却したい、そんな昔話にいつも行き着く。


 高神京。当時13歳。中学一年生。
 両親祖母兄1人姉1人。そして末っ子が京。
 祖母が認知症の悪化で家庭内部がギスギスと音を立て始めた。
 市会議員だった父親は世間体を気にして……と云うより、自分が議会で抱えていた問題の一つを貫徹する為に、祖母を要介護者としてヘルパーや施設を利用する事を拒んでいた。
 父親は地域住民の介護施設建設反対を推進すると公約して当選したのだ。 
 その父親が率先して高齢者サービスの有用性や必要性を説くのは次の選挙で落選を願うのと同じだった。
 認知症が酷くなる祖母を介護する生活に家族全員の時間が削られて、済し崩し的に家庭は崩壊していく。
 たった一人の祖母を、たった一人の要介護者をも救えない情け無い議員だと陰口を叩かれ始め、外面だけは権力者顔で家庭内では家族の問題に無関心な父親。
 全ての負荷負担が母親に圧し掛かり母親はうつ病を患う。兄と姉はその頃には家出同然で家出をして行方不明。
 大学に通う兄、高校に通う姉が突然消えたにもかかわらず、父親はこの期に及んでも警察には届けを出さなかった。
 自分に何も言わずに消えた兄と姉について、京は予想通りの展開だと思っていた。『偶々、この時期だからドサクサに紛れて消えただけなのだと』察した。
 兄と姉は実の血縁でありながら男女の関係にあった。
 消える理由はそれだけで充分だ。
 問題はそんなことではない。
 このままでは全ての重圧と軋轢が京に覆いかぶさり、自分も早晩に遣い潰されてしまう。
 京もまた消える理由はそれだけで充分だった。
 家族の誰もが健在でも完全に冷え切った家庭にはなんの魅力も無かった。
 兄と姉の後を追うように京も家出をした。
 介護させられるだけの要員として壊れるくらいなら逃げ出そうと思った。
 冷血だと罵られても仕方ない。仕方が無いが、京はその冷血な思考が具わっていた事を寧ろ喜んだ。
 面倒な事からは素早く撤退する性分が働いたのだ。故に自分が冷血で非情な女だと認識している。
 心優しく努力家で我慢強い人間が必ず報われるほど世の中は甘く無いし温かくない。
 家出をしてからその考えが正しかったと何度も頷く局面に出くわした。
 優しくて強くて温かい人間。誰もが憧れる理由はそれだ。
 『何処にもそんな人間は存在しない』。
 だからこそ『理想と幻想を求めてそのような篤い人間を理想像として描いてしまうのだ』。
 京自身は優しくて強くて温かい人間たれ、と自分に言い聞かせはしなかった。真逆の人間の方が長くしぶとく強かに生き残る事を学んでいたからだ。
 この稼業……始末屋に就いたのもそれが遠因だ。
 明るい世界ではまともに生きていけない。裏世界なら生きていけるかも。そう望んで裏の世界に飛び込んだ。
 裏の世界に飛び込むと云うのは少しばかりの語弊。
 京は表の世界と裏の世界は、切り離された日常と非日常の事を指して、明確な境界線があるものだと勘違いしていた。
 実際は違った。日常の延長に非日常が有り、表の世界の影や角や死角や遮蔽をどかした其処に、さも平然と当たり前のように『入り口』が存在していた。
 例えば、売春の女衒が甘い言葉で娼婦を集めるように。コールセンターのアポインター募集のチラシを見て集まったら詐欺集団の面接だった、など。
 そのアングラなイメージから、今では肉屋や魚屋は死体処理業者の末端構成員だと信じているし、八百屋や花屋は麻薬の密売業者の窓口だと察する場合が多い。
 もしかしたらいつも公園で見かける、鳩にエサやりしかしていないヨボヨボのおじいさんは名うての情報屋なのかもしれない。
 そんな世界だ。
 そしてそんな世界でも働かねば生きていけない。
 働く為には就職や起業をしなければならない。
 更に生活を維持するのに、税金の如く活動場所の橋頭堡の確保や武器屋のルート、懇意にしてもらう情報屋、万が一の逃走経路の確保、セーフハウスの維持などに目が廻るような金額が出て行く。
 何処の世界にも楽な話は転がっていない事を思い知る。
 冷えて瓦解した家庭から逃走した幼い京だが、働くことの真意と理由は理解していた。
 手っ取り早く春をひさぐのは、最も短絡で最も馬鹿な刹那的収益でしかないのも理解していた。
 そこで彼女は長く『この世界で潜伏できる事』を真っ先に考えた。
 明るい世界には自分の居場所は無い。居場所が有るとは思えない。実感ではなく直感で理解していた。家族を棄てた理由はどうであれ尊属的に許されない。
 そしてその許されない行為を、いとも容易く行える自分の神経はまともではないと悟った。
 京は家出をして真っ先に頼ったのはヤクザの使いっ走りだった。
 なけなしの金で髪をベリーショートより短く切り、衣服も小汚い少年を装えるものに買い換えた。
 性別の女すら棄ててヤクザの使い捨ての道具として拾ってもらったのだ。
 その入り口は簡単だった。簡単に見つかった。今時珍しい古ぼけた電話ボックスに入って寒さを凌ごうと座り込んだときに、電話帳を収納する棚の裏にガムテープでフラッシュメモリと紙切れが貼り付けられていた。
 それを誘われるように捥ぎ取り、紙に鉛筆で書かれていた所在地に届けた。
 今から考えればこれが初仕事なのだろう。
 ヤクザの使いっぱしり。後にそう、自分を呼称した。
 あのフラッシュメモリを届けた先の一軒屋では、普通の風体をした小太りの中年が京の頭を撫でて手に万札を数枚握らせて笑顔で送り返した。
 後に、このフラッシュメモリが元で、この街の勢力図が一変し、選挙では実に愉快な結果となった。
 選挙権が無い京はそんなことは知る良しも無かった。ただ、「あの時にフラッシュメモリを運んだ少年は誰だ?」と京の与り知らぬ場所で話題となり、瞬く間に路地裏でダンボールに包まっていた京は地元のヤクザに発見された。
 流石に肝を冷やした。理由も知らずに何が原因かも知らずに静かに殺される雰囲気を感じたからだ。
 だが、豪奢な屋敷連れて来られて、後にこの街のフィクサーだと判明する老人に「遣ってやれ」と一言側近に言うと、彼女はこの街でも有数の暴力団の末端構成員見習いとして『就職』する事が決まった。
 あの時にあの電話ボックスで、あのフラッシュメモリをあの所在地に届けなければ、今の京は唯の家出少女として書類的に処理されているだけだろう。
 ヤクザの下っ端として、メッセンジャーボーイとして、少年として走り回る毎日は充実していた。
 口からでまかせに出た偽名を名乗っていたが何も問題は無かった。
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