深淵からの咆哮

 京は短めのマッシュウルフの頭髪が風に靡くのも構わず、端整だと褒め称えられる精悍な顔がほんのり温かくなっているのも気が付かず、身長170cm近い背丈の28歳に似合わず心が躍っていた。
 文字通りに心臓が口から飛び出しそうなほど躍っている。
 激しい動悸。忘れて久しい鼓動。
 何よりも後日になって驚いたのが、自分があの時に喫煙者だと云う事が直ぐにばれて嫌われやしないかと云う恐怖が湧きあがってきた事だ。
 シガリロの口臭も化粧品による体臭も風による身形の乱れも心の片隅にも無く、京は、彼女の前に立ち、臆面も無くこう言った。
「宜しかったら少し歩きませんか?」
 言ってから数瞬の後に、彼女は漸く人形ではない証拠に温かい表情を浮かべて恥ずかしそうに頷いた。
 そして更にその数瞬後。
 京はもっと気の利いたナンパの台詞があるだろう! と自己嫌悪に陥る。
 更に数瞬後、「これはナンパしたの? ナンパが成立するシーンなの?」と脳内を疑問符で埋め尽くされる。
 恥ずかしいのか焦りなのか何なのか解らない鼓動の高鳴り。小娘のようにはしゃぐ自分と小娘のように恥らう自分が同時に旧い記憶からサルベージされて気分が若返る。
 自分もまだこんな感情を抱く事が出来たのだという驚き。いい歳した三十路手前の曲に。
「あら。可愛いナンパですね」
 彼女は小春日和が到来したかのような小さな微笑みを浮かべる。
 最初は戸惑っていた表情を浮かべていたが、それも直ぐに消えて京を受け入れた。
 京は彼女に可愛いナンパだと肯定されただけで心臓が破裂しそうなほど顔が赤くなった。自分でも耳まで赤くなっているのが体感で解る。
「!」
 彼女は自分から名乗りを挙げることも無く。自分の都合を語ろうともせずに都の毛糸の手袋を皮の手袋越しに握って、自然な仕草で京にエスコートを促す。
 京もそれに態度で示す。
 彼女の手をとり、彼女を優しくベンチから立たせて惜しむように指先を彼女の手袋から離す。
「……え」
 京は不意に彼女が自分の右腕に腕を絡ませて可愛らしく小首を傾げていた。
 今から何処かへ連れて行ってくれるんでしょう? 彼女の切れ長の瞳はそう語っていた。京はこうなったら行くところまで行けと自分を鼓舞させる。自分から声を掛けておいて此処で逃げ腰になっては何も始まらないばかりか単なる敗残兵だ。
 京と彼女は爪先を喫茶店に向けた。
 エスコート役の京としてはとりあえず、暖かい場所へ移動がセオリーだと判断したのだ。
 その京の体を優しく重心移動だけで軽く押す彼女。ただでさえ余裕の無い京は彼女の柔らかい胸の感触をパーカーの袖越しに感じつつ、彼女に誘われるままに爪先の方向を変えていく。
「私、セクシャルには寛容な世界が好きなの」
 彼女は歩きながら京の耳元で囁く。
 彼女と京の背丈は同じ。
 京は仕事上、筋骨は優れている方だと自覚しているが、同じ身長であるはずの彼女は葦を思わせるほどに細かった。
 彼女の柑橘系の甘い香りが京の鼻腔を擽る。同性でも頭が惚けてしまいそうな香りだ。それに引き換え自分は硝煙や排気ガスや紫煙の臭いを誤魔化す為の対策としての香水しか使っていない。
 圧倒的な『慎ましく淑やかな大人の女性』の色香に眩暈がする。
 彼女の見た目の年齢は自分と同じくらいだろう。顔付きは少し面長で薄い唇が印象的。筆で引いたような眉の手入れの仕方など京には真似は出来ない。
「わ、私……も。かな」
 気を抜けば論点がずれそうな返答をする京。
 自分がエスコートしているはずなのに、自分の行く先は彼女の手の中にある錯覚。彼女は……もしかしたら『私が声をかけるのを待っていた』のかもしれない。
 何もかもが名前も知らぬ彼女のたなごころに有るとすれば、今日の出会いすら怪しんでしまう。
 やがて道の駅の敷地内の駐車場でも、端のほうにあるエリアにやってくる。
 疲労を覚えるほどではないが喫茶店からはかなり離れた距離だ。
「まあ、狭いけど『上がって』」
 彼女は自宅に招き入れるように白いハイエースロングバンのリアのスライドドアを開けた。
「はあー」
 口をぽかんと開けて驚愕を示す京。自分が誘拐されるような驚きではなく、車内の装備に驚いたのだ。
 スモークガラスだと思っていたが、黒い特殊な断熱遮音シートを貼り付けてあり、車外から内部を見る事が出来なかった車体。
 その内部は車中泊に特化したハイエースだった。
 フルフラットのフロアには毛足の長いラグが敷かれ、運転席後部には車体後部に向かってギャレーやポータブル冷蔵庫、ポータブルバッテリーやカラーボックスが整然と『装備されていた』。
 そして最後部には温かそうな分厚い毛布と『枕にも使えそうな』クッションが二つ。
 電飾電装も整っているのか、助手席の後部側には増設された各種ソケットが有る。更にそのフロアに乗り降りする部分ではFFヒーターの噴出し口も見える。
 レンタルなのか自前なのかは不明だ。ただ言える事は、『彼女はこの行為』は初めてではなかったことだ。
 まんまと彼女の罠に飛び込んでしまった京。
 警戒心なく、京はハイエースの居住スペースに上がってちょこんとペタンと座っていた。
 目が点。
 起こった事をありのままに話せば、ナンパ同然で声を掛けた女性をエスコートしていたら自分が彼女の車内で、今から美味しくいただかれようとしていた。多分、何を言っているのか解らないと思う。誘拐とか略取とかそんな法的解釈が及ばない何かが働いた気分だ。
 京は居住スペースの前方、つまり運転席と助手席が並ぶ方向を背にして目を点にしている。
 彼女は奥の方で唇を妖しく動かしながら何事か話しかけている。催眠術にかかったように事象の前後を認識する能力が低下している京。
 自分の判断能力が限りなく剥ぎ取られていることすら自覚していない。
 ただ、京はトランス状態に近い頭でたった一つのことだけ理解していた。
――――ああ。私は今からこのヒトに弄ばれるんだ……。

   ※ ※ ※
 
 彼女との邂逅が終わって3日後。
 今でも悪い夢を見ていた……否、出来すぎたいい夢に溺れていたとしか思えない。
 自分がどのように弄ばれて、好きなように味わい尽くされたのか覚えていない。只管押し寄せる快楽。
 何よりも驚いたのは……京は同性愛者ではない。と、思い込んでいたことだ。
 ただ道の駅で心に刺さる顔つきをしたヒトが居て、声を掛けたら女性で、その女性に最終的に一方的にリードされて、耳や口からも性的快楽の塊を流し込まれた気分だった。
 嫌悪感は無い。逆に快楽中毒に溺れる体の疼きを抑えるのに今でも一人で耽るのを我慢しているほどだ。
――――あー。あんなことになるんだったらシガリロを吸うんじゃなかったなあ……。
――――タバコ臭くて嫌われなかったかなぁ……。
 下腹部では今でも竈が燻っているかのように熱を感じる。
 彼女の舌と奥深い指を感じる。
 彼女の性的技巧を覚えてしまった。ただ一時の邂逅で逢瀬。もう二度と会うことは無いだろうと云う諦観。あの道の駅に同じ時間に行っても会えない気がする。
 いや。
 今は集中しなければ。
 今は集中しなければ、死ぬ。
 最悪の場合ではなく、次の瞬間に、死ぬ。
 京は仕事用の裾の長い黒いフィールドコートを着て灰色の作業用のズボンを履いている。靴は皮革風の安全靴だ。
 右手には全長40cm強の水平2連発の散弾銃。
 グリップの形状が特徴的なイサカ・オート・バーグラーだ。20番口径2連発。
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