深淵からの咆哮

 それがウルミンと呼ばれる東南アジアより西で用いられる刀剣の一種だと気付いた時、自分の体は床に仰向けに倒れていた。
 京の体、4箇所に弾痕。
 銃創には至らない。
 4箇所に衝撃。
 胸骨と肋骨に皹が入り、鳩尾、下腹部に激痛。脱力。
 仰向けに倒れたまま天井を見る。
 4箇所の衝撃と激痛。
 まさか、と何度も思ったが現実だった。
 『父親は22口径の弾頭をウルミンで弾き返した』。
「あー。こりゃ、駄目だ」
 カランと床に金属質な物が落ちる。ビヨンビヨンと間抜けな音も後追いながら聞こえる。ウルミンを床に捨てたのだろう。
「如何いたしますか?」
「連れて行け。この娘は暫く大人しいはずだ」
「承知しました……早く連れて行きなさい」
 父親の声の他に聞いた事が無い女の声が聞こえたかと思うと、その方向に顔を向ける間も無く、京の体は雪崩れ込んできた数人の黒いスーツの男達に拘束されて黒い布を被せられた。



「はあ……」
 彼女は今日も天ぷらを揚げる。
 街角の弁当屋でパート勤務として働いて4年になる。客の混む時間帯が過ぎた午後3時。今でもふと思い出す。
 どうしてこうなった?
 何故にこんなところで?
 恐ろしい話しに……彼女の過去は抹消された。
 瞬間的に。
 あの時を境に。
 長らく名乗っていなかった名前が書き込まれた、公の書類を束で渡されて、現実に存在する住所と家屋と働き口を与えられていて、衣服すら見た事が無いが、サイズがピッタリのものに着替えさせられていた。
 嘗て高神京と名乗っていた人物は公の書類で今年32歳だと確認できる。
 自由に保険証が使える。自由に公共の料金が払える。そして好き勝手に税金をむしりとられる。
 指先に出来た、カタギでは絶対に出来ないタコも柔らかくなっている。
 爪の先に入っていた鉄錆や火薬滓は跡形も無い。
 左脇にも尻ポケットにもあの重量感は皆無。
 高神京と名乗っていた人物は今、本来の名前で市井に紛れて……否、紛れる必要の無い、明るい世界の人間として生活している。
 弁当屋で天ぷらを揚げる『綺麗な彼女』の過去など誰も知らずに今日も客が来る。
 自分がまともに生きていたらこのような生活を送っていたに違いない。そんな物足りなさと平穏を同時に感じていた。
 銃の無い世界。銃の無い生活。銃が生死を決めない人間関係。
 これも生き方の一つなのだろう。
 なら何故、こんな生活を我武者羅に求めなかったのか?
――――今更考えても仕方ないよね。
 天ぷらを揚げるだけの簡単な作業とはいかない。全国チェーンの弁当屋のルーティーンは過酷だ。
 その過酷な毎日に今日は少し変化があった。
「あ、あ……あの! これ! 受けと、取ってください!」
 カウンター前で接客をしていた時に、いつも店の前を往復する女子高生から可愛らしく大きなリボンでデコレートされた、両掌に乗る程度の大きさした赤い箱を突然貰い受ける。
 ああ、今日はバレンタインか。
 もうそんな季節か……店(ウチ)でも乗っかったイベントやってたなあ……。と漠然と考えていたが、そういえばそのセミロングの可愛らしい小さな生き物は毎日毎日、店の方をいつも視線で窺っていた。
 少女とは直接の会話も関係も無い。
 自分はパートで少女は登校下校中の少女。
 それだけだと思っていた。
 すこしばかり頭に何も無い空間が広がったが、直ぐに姿勢を正して、優しく少女の手をとり、赤い箱を滑るように受け取った。
 釣り銭を返す時と同じ仕草。
 毎日毎日、この位置から同じ視線の高さで数え切れないほど同じ言葉、同じ動作を繰り返していた結果だ。
 あ。と思った。お客さんじゃない! 折角、勇気を込めてくれたのに! お互い名前も知らないのに、態々自分しか店頭に立っていない時に突撃してきたのだからそれに報いるべきだ!
 満面の笑みを込めてこう言った。
「有難う御座います。またのご来店どうぞー」
 店内の壁に張られた。
 マニュアル通りの台詞。しまったと思ったがそれでも少女は顔を真っ赤にして俯いたまま、きびすを返して走り去った。
 4年も繰り返していれば、こうなるのは当たり前だよね、と自分に辟易する。

 願わくば彼女の心が傷つきませんように。


 この時の軽い優しさが後に、再び銃を握る結果となり、折角父親が用意した明るい世界の居場所と、『綺麗な体の本名』を捨てて鉄火場に舞い戻る。


 父親に『追放された世界』で過去を再び掴む。
 『少女を救いたいがために……』。



 それは今から5年後の話。


 その日以降、彼女は……嘗て高神京と名乗っていた人間は、明るい道を歩くことは無かった。

《深淵からの咆哮・了》
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