深淵からの咆哮

 両者とも、同時の動作でその構えのまま膠着した。
 京の顔には汚物を見るような蔑む光が点る。
 一ノ瀬武則だと『まだ京に名乗っていない男』は心が読めない微笑を作ったままだ。
――――あのバッジ……。
――――【早田興業】か。
――――色はプラチナに金……社長か。
――――ん? バッジが『右に倒れている』?
――――まさか!
 この界隈には姿を現していない大物や組織のトップが何人も居る。
 京は予備知識として【早田興業】イコール【レイオー.INC】だと脳内で直結し、【レイオー.INC】のトップの名前は一ノ瀬武則だと知っているが顔までは知らない。
 何処の情報網にも顔の画像がヒットしない大物が殆どだ。
 【早田興業】の合図の一つで身分を隠す時や表明する時はバッジを時計板に例えて何時方向に倒しているかで身分を推し量る事が出来る。
 その結果、自分の父親が一ノ瀬武則と名前を変えてこの界隈でトップの一角に居座っていることを素早く理解した。
 この間、1秒。
 ドアを開け放ってからたったの1秒。
 1秒で父親が、父親面して娘に会いに来たと知った。
 それもお茶を飲みに来たわけではない。
 こちらの命を直接貰い受けに来た。
 殺意や敵意は不気味なほど感じない。元から何も感じさせないのが得意な父親だった。外面だけはいい父親。家庭では冷徹冷血。手段のために目的を選ばない。その徹底ぶりで市会議員になった。
 その家庭を顧みない男が何故、この界隈で名前を変えて組織のトップとして君臨しているのか……それも謎に思わない。
 この男ならあらゆる個人団体を欺瞞に巻くために、家庭を持つことで自らを偽装したと考えられる。不本意ながらも娘だから良く解る。
 良く解らないのが、家出した末っ子を追いかけてまで、自ら出張ってまで『始末』しに来た理由だ。
「説明が欲しいか?」
「……」
 父親の唐突な申し出に、京は右手をベルトのバックに添えたままで頷く。
 父親も右手をバックルから離していない。
――――こいつ……。
――――ベルトに何か仕込んでるわね……。
 父親の挙動が少しでも怪しければ、バックルガンを発砲するつもりで居た。
 バックルに手をかけてしまった以上、ここに隠し武器が有るのは父親に伝わったはずだ。そして父親も自分が携えている主な武器がベルトのバックルに仕込まれていると黙って宣伝していた。
「10年前に……フラッシュメモリを『あの男』に届けたな。あれが始まりだ」
 京の記憶が10年前を掘り起こす。
 互いに身構えた状態。
 父親は訥々と話しだす。
 話している内容自体は余り記憶していない。隙を窺ってバックルガンを発砲させることしか考えていなかった。
 父親は矢張り偽装として家庭を持ったのだ。
 市会議員は有力者の顔をした隠れ蓑で、着々と公のフィクサーとして実力をつけてきた。
 家庭が崩壊しても父親には余り関係なかった。自分の権力欲と地位と名誉を獲得して守る事をゲームとして、生き甲斐として愉しんでいた。人生ゲームでマス目に止まったから結婚した、子供を作ったと云うのと同じ感覚だ。
 父親の大きな転機は、家出した娘が何かの手違いなのか間違いなのか、渡してはいけない人物に、渡してはいけない物を手渡してしまった事だ。
 それが京が10年前に電話ボックスで見つけたフラッシュメモリ。
 そのフラッシュメモリに記録されている情報の流出で、公的権力を私的に流用する地位を失った父親は直ぐに失脚し、父親は自宅を売り払って全国を放浪しながら裏社会のノウハウを吸収していた。
 表の明るい世界では権力など紙風船のように脆いものだと悟ったのだ。
 その頃、介護が必要な京の祖母は病死し、自分の妻はうつ病が悪化して自殺した……と云う事になっている。
 独りで身軽に全国の組織で、雇われ会計士や交渉人として歩く父親のことだ、祖母も妻も『消した』のだろう。
 そして行方不明だった娘が高神京と名乗り、自身が一角を仕切るこの街で始末屋をしている事を知った。
 ただの家出娘として無視は出来なかった。
 組織の責任者たる総裁として、落とし前の付け所だと判断した。自分の実の娘と云う過去に引き摺られずに全てが清算できるリーダーの姿を見せる必要が有った。
 だからと言って、自分が直接手を下すのは部下の手前、行ってはならない事だ。
 『部下たちに気を使わせすぎた結果、部下に総裁と始末屋の因縁を知られるわけにはいかない』。
 どんな組織にも自分の組織のトップを勘繰る部下は居る。
 嘗て、その好奇心旺盛な部下を持っていたがためにたった1個のフラッシュメモリで全てを失った。
 そこでワンクッション置く。
 最高の殺し屋として名高い『あの女』を雇い、差し向けた。
 然し、『あの女』は返り討ちにされる。
 そうなれば総裁たるリーダーが直接出向く、一応の大義名分が出来る。
 親子の対話ではなく、敵味方として邂逅してもおかしくはないと、辺りにアピールできる。
 そして今。
 現在に到る。
 京は話の要点だけを頭に即座に整理して叩き込む。会話の内容にも隙が無いか窺っている。
 なるほど。せめてもの親心が働いて、自分の娘のしでかした落とし前を自分でつけに来たのか。
 『彼女』を差し向けたのは娘に対する『親心』なのだろう。
 『大きな敵に大きな猟犬』けしかけて始末させれば娘の死は父親の心の中で整理がつき、外面的には一種の見せしめにも見える。だが、『彼女』を返り討ちにしてしまったので最後の親心のつもりで自分からやってきたか。
 ここで父親に叛逆するか? 殺すか? 殺されるか? どちらに転んでも生きていける確率は限りなく低い。
 駆け引き的にも、状況的にも、メキシカンスタンドオフ。
 先に動いた方が負ける。
 殺される。1mそこそこしか離れていない距離で父親が22口径の弾速より早く動けるとは思わない。
 そしてまた、自分も父親が何か仕込んでいるらしいエモノの正体が解らないので逃げようにも対策が全く浮かばない。
 無為な緊張が続く。喉が渇く。目の前の壮年は強面の微笑を崩そうとしない。
 それだけで今は父親の顔を外して外交的交渉が破綻する手前で立っていることが理解できた。父親そう言う人間だ。多分。
 背中に汗が吹き出る。喉が渇く。
 先ほどのシガリロの残り香が、完全に玄関の外に暖房の暖気とともに出て行ってしまった。喉が渇く。
 このセーフハウスすら元から安全ではなかったのなら拠点で待ち構えておくべきだった。喉が渇く。
 どれだけの時間が経過したのか。
 実際には2分しか膠着していないと京に伝えても彼女はにわかには信じないだろう。
 それだけ長い時間が経過していた。
 いつもなら脳内で展開される棋譜のような戦略がまっさらだ。本当に窮する状態はこのような状態なのか。
 最悪の事態。想定外の事態。予定の範疇外。
 本当に考えられない事が起きるのなら、考えている以上の更に右斜め上から考えられない事がやってくるのだと肝に銘じる。
 額の隙間を縫って落ちてきた汗の粒が京の右目に垂れる。
「!」
「!」
 汗に反射的に目を瞑る。
 その瞬間だった。
 2人同時に体が大きく素早く『沈んだ』。
 銃声。
 風鳴り。
「え?」
 京は自分の体に衝撃を感じた。
 確かにバックルガンは発砲されて銃弾は父親の体に……。
 その父親は居合いの構えで抜いたようなモーションで『何か』を握っていた。
18/19ページ
スキ