深淵からの咆哮
イサカ・オート・バーグラーが急に重く感じる時は悪い事が起きる前兆だ。
右手の指先がグリップをゆっくりと握る。気配を探る。見られている。『人』の気配ではない。見られている気配だ。辺りを見回しても夜陰に暗闇に闇夜。時々光源。視界の殆どが暗い。
倉庫の壁やその敷地を仕切るコンクリブロックの壁が薄っすらと見えてくる。立ち尽くす。進んでも退いても『好い予感がしない』。
狙撃されるのに似た視線。首を掻き切られるのに似た剣呑な空気。地面から突き出た死体の腕に掴まれたように足が重い。
長く立ち止まれば生存率が下がる。
自分が殺されると解っていても動けない。
自分が2秒後に背後から殺されると解っていても応戦できない。
何処の方向からどのように狙われているのか解っていても退避できない。
戦場で兵士が死ぬ瞬間に感じる違和感とはこのような事象を指すのだろう。
イサカ・オート・バーグラーを抜き放ち、銃口を定められない曖昧模糊とした感情で気配を探る。
「…………誰?」
声に出る。
口の中がカラカラに渇く。
冷たい水を呷りたい。鳩尾の辺りが急激に締め付けられる。
脳内麻薬が噴出する。アドレナリンが掻きたてられる。今なら負傷してもアドレナリンのお陰で痛みも出血も大したことは無いだろう。それだけ防衛本能が働いている。
背中を撫でられる。幽霊に撫でられたように冷たい。そのようなイメージ。
冬の空気が、あたかも意志を持って京の体を拘束している錯覚。
『足音は聞こえない。だが、聞こえたとするなら、その方向なのだろう』。
咄嗟にイサカ・オート・バーグラーを握る右手を大きく右側に振って、殆ど背後に向けて発砲。
京はその方向を向いていない。体だけが反応した。
銃声。一発。
夜に轟く銃声。
気配に向けての発砲。
皮肉な話しに、足元で転がっている死体の方が存在感が強い。標的を視認したわけでもない発砲は無為に散弾をばら撒いた。
「…………」
手応えは勿論無い。
独りで芝居をしているのかと遊離感さえ覚える。何を感じた? 何に触れようとした?
遠くで霧笛が鳴る。電線が風鳴りを発する。枯れ草が風に吹かれてサラサラと音を奏でる。
静かな屋外がこんなに恐ろしいとは。
耳鳴りの方が圧倒的大音量。
暗い。
冷たい。
怖い。
右手のイサカ・オート・バーグラーを右手後方から引き戻して、小さく震えながら、今し方発砲した1発を排莢し、1発を弾帯から抜いて装填。
薬室にある2発が最高戦力。
再装填の隙に命を奪われる危険性も考えた。
考えた結果、その場から動かなかった。
実は動ける。……どの方向へでも動ける。
それが不気味に感じた。
体に纏わり付く様々な不快感が一瞬だけ晴れたのだ。冷気。視線。気配。重い足。全てが調ったように晴れた。それが逆に誘われているかのように直感した。動けと急かされているのではない。『動きなさい』と優しく諭されているように。
犬歯で舌先を噛む。
来る。
「怖いわねぇ……」
声。聴くだけで脳味噌を舌で弄ばれているようなおぞましくも委ねたい快感。
一気に下腹部が熱くなる。生理前でもこんなに激しい性欲のスイッチは入らない。
態とらしい足音。態と足音を立てている違和感。気配を宣伝する必要が無いのに、自らのイニシアティブを放棄して『女の声がした方向』を見る。
「……え」
小さく驚く。
思わず銜えていたイサカ・オート・バーグラーを落としそうだった。
「怖い怖い……」
道の駅で出会った彼女。赤いランチコートが暗がりで僅かな光源を浴びて、どす黒い血液を浴びたように演出している。
彼女が其処に居る。
不思議と意外性以上の驚きは抱かなかった。『彼女なら、それくらいの芸当は普通だろう』と悟ったからだ。
逢いたくて仕方が無かった彼女が、敵か味方か解らないポジションで登場。
状況的には同業者の横取りの線は薄い。
始末屋を殺すように依頼された殺し屋崩れではないかと考えが及ぶ。だとすれば問題は『誰が雇った誰』なのか? だ。
得体の知れない化け物を雇ってまで、しがない始末屋を殺害しようと考える変わり者は何処のどいつだ?
全てが混乱して、全ての糸が結びつきそうで結びつかない。
京と『女』が対峙した。
彼我の距離、10m。
※ ※ ※
「何故、あのような……『レブナント』を雇うのです?」
道川理沙は至極真っ当な疑問を一ノ瀬にぶつけてみた。
この組織の兵力や子飼いの殺し屋を使えば、始末屋一人を跡形も無く消し去るのは問題ない。使い終えたメモ用紙を丸めてゴミ箱に放り込む感覚で消す事が出来る。
なのに『あの女』を雇った。
「道川君。早合点は良くないなぁ。彼女は『レブナント』だと噂されている人物の一人だ。それに『レブナント』は特定の個人や団体なのかも判明していない。生きていれば高齢すぎて老衰して使い物にならない。それに全ての証言を纏めれば同じ時間に別々の場所で『レブナント』と思しき人物が確認されている……彼女は噂の一人だよ。噂なのだから『レブナント』とは別人の可能性も有るわけだ」
「それはそうですが……」
一ノ瀬はまたも髪型が乱れないように竹串で頭皮を掻きながら、詰まらない事を聞く部下の質問にまともに答えた。
だが、核心は一切答えていない。
『レブナント』と噂される『女』をつまらない始末屋風情にけしかける理由は不明のままだ。
一ノ瀬は、ドアからノックも無しに転がり込んできた血みどろのスーツ姿の青年が何かを訴えようとしてその場にうつ伏せに倒れる。
「! ……! 敵襲!」
理沙は色めき立った。
「敵襲と云うより『襲撃されていた』んだよ。もう終わってるさ」
「え?」
一ノ瀬は手元の小型モニターに再び視線を戻した。
見事なほどに転がる死体の山。此処の警備を任せているのだ。手練揃いなのは解っている。
その警備担当の部下たちが棒立ちになったまま次々と死体に変貌していく様を確認していた。その手際は『見事』と褒めるのには少し異質なモノだった。
――――早ければ、明日の夜にでもあの2人は衝突するだろうなぁ。
一ノ瀬は瞑目しながら予想していた。
――――都合よくエサが手に入ったからあの娘に依頼を振ったが……『あの女』はそれを見過ごすほど馬鹿じゃない。
――――『あの女』は私の過去を知っている。
――――ならばこの『態とらしい演出』も気に入ってくれるだろう。
※ ※ ※
彼我の距離10m。彼女と京。
「!」
京は身構えた。
イサカ・オート・バーグラーの銃口を定める前に彼女の方が素早かった。彼女は右腕を右側水平に持ち上げただけだった。
「怖いわね……」
彼女の赤いコートの右腹辺りが削り取られたようにズタボロになっている。
20番口径の散弾がそれを為した。彼女の顔からはニュアンスを汲めない微笑が浮かんでいる。
「もう少しで……蜂の巣よ……どうして撃つの? 話しを聴いてくれてもいいんじゃない? ねえ……銃が解決する問題なんて所詮はその程度よ? ……どうして? ねえ……どうして? …………どうして…………どうして…………」
鼓膜が甘く震える。
じとりと全身が重くなる。心地よい倦怠感。眠りに落ちそうなリラックスを覚える。
確かに目前の彼女は道の駅で出会った彼女だ。
彼女が敵か味方か解らない不気味なポジションで登場。
京は『道の駅で出会った通りの彼女』なら、違和感や奇妙な感覚や不気味さを感じさせながら目の前に現れても不思議ではないと意識下で納得してしまった。
右手の指先がグリップをゆっくりと握る。気配を探る。見られている。『人』の気配ではない。見られている気配だ。辺りを見回しても夜陰に暗闇に闇夜。時々光源。視界の殆どが暗い。
倉庫の壁やその敷地を仕切るコンクリブロックの壁が薄っすらと見えてくる。立ち尽くす。進んでも退いても『好い予感がしない』。
狙撃されるのに似た視線。首を掻き切られるのに似た剣呑な空気。地面から突き出た死体の腕に掴まれたように足が重い。
長く立ち止まれば生存率が下がる。
自分が殺されると解っていても動けない。
自分が2秒後に背後から殺されると解っていても応戦できない。
何処の方向からどのように狙われているのか解っていても退避できない。
戦場で兵士が死ぬ瞬間に感じる違和感とはこのような事象を指すのだろう。
イサカ・オート・バーグラーを抜き放ち、銃口を定められない曖昧模糊とした感情で気配を探る。
「…………誰?」
声に出る。
口の中がカラカラに渇く。
冷たい水を呷りたい。鳩尾の辺りが急激に締め付けられる。
脳内麻薬が噴出する。アドレナリンが掻きたてられる。今なら負傷してもアドレナリンのお陰で痛みも出血も大したことは無いだろう。それだけ防衛本能が働いている。
背中を撫でられる。幽霊に撫でられたように冷たい。そのようなイメージ。
冬の空気が、あたかも意志を持って京の体を拘束している錯覚。
『足音は聞こえない。だが、聞こえたとするなら、その方向なのだろう』。
咄嗟にイサカ・オート・バーグラーを握る右手を大きく右側に振って、殆ど背後に向けて発砲。
京はその方向を向いていない。体だけが反応した。
銃声。一発。
夜に轟く銃声。
気配に向けての発砲。
皮肉な話しに、足元で転がっている死体の方が存在感が強い。標的を視認したわけでもない発砲は無為に散弾をばら撒いた。
「…………」
手応えは勿論無い。
独りで芝居をしているのかと遊離感さえ覚える。何を感じた? 何に触れようとした?
遠くで霧笛が鳴る。電線が風鳴りを発する。枯れ草が風に吹かれてサラサラと音を奏でる。
静かな屋外がこんなに恐ろしいとは。
耳鳴りの方が圧倒的大音量。
暗い。
冷たい。
怖い。
右手のイサカ・オート・バーグラーを右手後方から引き戻して、小さく震えながら、今し方発砲した1発を排莢し、1発を弾帯から抜いて装填。
薬室にある2発が最高戦力。
再装填の隙に命を奪われる危険性も考えた。
考えた結果、その場から動かなかった。
実は動ける。……どの方向へでも動ける。
それが不気味に感じた。
体に纏わり付く様々な不快感が一瞬だけ晴れたのだ。冷気。視線。気配。重い足。全てが調ったように晴れた。それが逆に誘われているかのように直感した。動けと急かされているのではない。『動きなさい』と優しく諭されているように。
犬歯で舌先を噛む。
来る。
「怖いわねぇ……」
声。聴くだけで脳味噌を舌で弄ばれているようなおぞましくも委ねたい快感。
一気に下腹部が熱くなる。生理前でもこんなに激しい性欲のスイッチは入らない。
態とらしい足音。態と足音を立てている違和感。気配を宣伝する必要が無いのに、自らのイニシアティブを放棄して『女の声がした方向』を見る。
「……え」
小さく驚く。
思わず銜えていたイサカ・オート・バーグラーを落としそうだった。
「怖い怖い……」
道の駅で出会った彼女。赤いランチコートが暗がりで僅かな光源を浴びて、どす黒い血液を浴びたように演出している。
彼女が其処に居る。
不思議と意外性以上の驚きは抱かなかった。『彼女なら、それくらいの芸当は普通だろう』と悟ったからだ。
逢いたくて仕方が無かった彼女が、敵か味方か解らないポジションで登場。
状況的には同業者の横取りの線は薄い。
始末屋を殺すように依頼された殺し屋崩れではないかと考えが及ぶ。だとすれば問題は『誰が雇った誰』なのか? だ。
得体の知れない化け物を雇ってまで、しがない始末屋を殺害しようと考える変わり者は何処のどいつだ?
全てが混乱して、全ての糸が結びつきそうで結びつかない。
京と『女』が対峙した。
彼我の距離、10m。
※ ※ ※
「何故、あのような……『レブナント』を雇うのです?」
道川理沙は至極真っ当な疑問を一ノ瀬にぶつけてみた。
この組織の兵力や子飼いの殺し屋を使えば、始末屋一人を跡形も無く消し去るのは問題ない。使い終えたメモ用紙を丸めてゴミ箱に放り込む感覚で消す事が出来る。
なのに『あの女』を雇った。
「道川君。早合点は良くないなぁ。彼女は『レブナント』だと噂されている人物の一人だ。それに『レブナント』は特定の個人や団体なのかも判明していない。生きていれば高齢すぎて老衰して使い物にならない。それに全ての証言を纏めれば同じ時間に別々の場所で『レブナント』と思しき人物が確認されている……彼女は噂の一人だよ。噂なのだから『レブナント』とは別人の可能性も有るわけだ」
「それはそうですが……」
一ノ瀬はまたも髪型が乱れないように竹串で頭皮を掻きながら、詰まらない事を聞く部下の質問にまともに答えた。
だが、核心は一切答えていない。
『レブナント』と噂される『女』をつまらない始末屋風情にけしかける理由は不明のままだ。
一ノ瀬は、ドアからノックも無しに転がり込んできた血みどろのスーツ姿の青年が何かを訴えようとしてその場にうつ伏せに倒れる。
「! ……! 敵襲!」
理沙は色めき立った。
「敵襲と云うより『襲撃されていた』んだよ。もう終わってるさ」
「え?」
一ノ瀬は手元の小型モニターに再び視線を戻した。
見事なほどに転がる死体の山。此処の警備を任せているのだ。手練揃いなのは解っている。
その警備担当の部下たちが棒立ちになったまま次々と死体に変貌していく様を確認していた。その手際は『見事』と褒めるのには少し異質なモノだった。
――――早ければ、明日の夜にでもあの2人は衝突するだろうなぁ。
一ノ瀬は瞑目しながら予想していた。
――――都合よくエサが手に入ったからあの娘に依頼を振ったが……『あの女』はそれを見過ごすほど馬鹿じゃない。
――――『あの女』は私の過去を知っている。
――――ならばこの『態とらしい演出』も気に入ってくれるだろう。
※ ※ ※
彼我の距離10m。彼女と京。
「!」
京は身構えた。
イサカ・オート・バーグラーの銃口を定める前に彼女の方が素早かった。彼女は右腕を右側水平に持ち上げただけだった。
「怖いわね……」
彼女の赤いコートの右腹辺りが削り取られたようにズタボロになっている。
20番口径の散弾がそれを為した。彼女の顔からはニュアンスを汲めない微笑が浮かんでいる。
「もう少しで……蜂の巣よ……どうして撃つの? 話しを聴いてくれてもいいんじゃない? ねえ……銃が解決する問題なんて所詮はその程度よ? ……どうして? ねえ……どうして? …………どうして…………どうして…………」
鼓膜が甘く震える。
じとりと全身が重くなる。心地よい倦怠感。眠りに落ちそうなリラックスを覚える。
確かに目前の彼女は道の駅で出会った彼女だ。
彼女が敵か味方か解らない不気味なポジションで登場。
京は『道の駅で出会った通りの彼女』なら、違和感や奇妙な感覚や不気味さを感じさせながら目の前に現れても不思議ではないと意識下で納得してしまった。