深淵からの咆哮

「どうして……? どうしてですか? ……何をそんなに拘るのです? あなたほどの方が……昔の話ではありませんか……どうして? ……これだけの力を隠し続けて今に到った貴方がどうして……」
 途端に。
 おもむろに一ノ瀬は重厚な椅子から立ち上がり、刀を抜くような動作で……居合いのように素早い動作で腹のベルトを引き抜いた。
「!」
「!」
 ハッと目が覚める理沙。
 『女』は一ノ瀬の目前2mで足を止めた。
 この広い執務室で、入り口から理沙の位置まで5m。
 理沙から一ノ瀬まで3m。
 デスクを挟んで目前に『女』は居た。
 『女』は足を止めた。風が空を鋭く切った。一ノ瀬の攻撃が外れたのでも外したのでも無い。 
 これが目的だった。
 甲高い風鳴りを発生させるのが目的だった。
「……あらあら。物騒」
「いやいや、君ほどでも」
 一ノ瀬は鞭を撓らせるように、緩く右手の『カンナの削りカスのように薄っぺらい長剣』を振るった。
 その長剣は『女』を射程に捉えるギリギリの距離。
 一ノ瀬に攻撃の意図の有無は理沙には解らない。敬愛する総裁がその長剣で鋭い風の音を発していなかったら、理沙はこの場で淫猥な快楽を望むだけの置物同然だった。
 『女』は微笑を消さずにきびすを返し、部屋の片隅にオブジェのように置いてある応接用のソファに腰掛ける。
「…………」
 理沙は昔に見た悪夢を久し振りに見たのに似た疲労を覚えていた。
 動悸がする。背中に脂汗が浮いているのが解る。
 『女』が『分け隔てなく死を提供するだけの実力を持っている』と再認識。
 今まではデータの上での『女』しか知らなかったが……これは本物だ。本当に関わってはいけない人間だ。
「まあ、委細は先に郵送した通り。できそうかね? ……できるから此処に来たんだろうけど」
 涼しい顔で一ノ瀬は、長剣を手品のようにスルスルとベルトのバックルの辺りに差し込みながら言う。
「『あの程度』のターゲットなら……余裕です……少し驚いた点は有りますが……」
「……ふうむ。先に標的を確認したのだね。ま、一つ頼むよ」
「料金分は働きます……それと……掣肘は勘弁ください」
「ああ。勿論。此方の貴重な『社員』を雑草抜き感覚で殺されてはかなわん」
 一ノ瀬はいつもの強面の微笑みで答えた。
 ……彼の手元には執務室へと通じる通路が映し出された小型モニターが点っているが、その全てに死体で彩られた通路が映っているだけだった。
   ※ ※ ※
「この!」
 反撃は想定していた。
 相手は一人。
 独りのところを襲撃。
 そこまでは予定通り。
 組織の逸れ者だから拳銃くらいは持っていると当然考える。それ以上の火器も持っていると勿論想定していた。
 今時珍しいイングラムM11の先制攻撃を受けるまでは。
 相手が何処の誰であっても、銃が何処のメーカーの何のモデルでも銃弾の威力は変わらない。サプレッサーを取り付けていない剥き出しの短い銃身から蜂の羽ばたきのような銃声と共に長い銃火が美しく咲く。
 排莢口から蛇がのたうつように吐き出され、連なった空薬莢が地面に落ちて無秩序に転がる。何度も再装填を繰り返す両者。
 両者共に決定打に欠ける。
 イサカ・オート・バーグラーの予備のシェルは実のところ、心許無い。
 相手は一人で埠頭の寂れた倉庫街なので、暗殺にもってこいの状況だと踏んでいつもの半分ほどの予備のシェルしか持ち合わせていない。
 光源の乏しい倉庫街で、両者のエモノがそれぞれ特徴のある美しい銃火を暗闇に描く。
 ブリキやトタンやベニヤ板の、今にも朽ちて落ちそうな壁にミシンで縫ったような弾痕や、握った砂利を障子に投げつけたような弾痕が穿つ。
 壁越しにスラッグを撃ち込んでやりたいが、相手はそこそこの鉄火場の経験が有るのか、弾痕のお陰で向こうが透けて見える壁の傍を走ってくれない。
 壁一枚を隔てて両者は同じ方向に走り、発砲を繰り返すのみ。
 此方の20番口径は板だけの薄い壁一枚で威力が半減してしまう。相手の標的が持つイングラムM11は9mmパラベラムで、易々と壁を撃ち抜く。
 散弾が当たっただけでは駄目だ。致命的なダメージを与えられる距離で散弾で負傷させてスラッグで頭部を破壊しなければ、確実な仕事とは言えない。
 基本に帰れ。
 基本に帰る為に落ち着け。
 基本に帰って落ち着いて予備のシェルを数えろ。そして深呼吸だ。
 頭の中で何度も基本に忠実たれと言い聞かせる。
 技術の変化や応用や利用は、基本を行ってからの派生でしかない。いきなりの常識破りは存在しない。それは道を踏み外しただけだ。兎に角、深呼吸だ。
 夜風が運ぶ潮と錆の香りを含んだ港湾独特の外気が肺一杯に流入する。冷たい空気が熱くなりかけの京の頭を冷静にさせる。混乱に飲み込まれると勝てるものも勝てない。それは先人や歴史が証明している。
――――抜くか!
 イサカ・オート・バーグラーから右腰の尻ポケットに仕舞ってる豆鉄砲に切り替えるか脳裏を過ぎる。
 再装填を終えたばかりのイサカ・オート・バーグラー。2kgの重量を右手だけで振り回すのは流石に疲れる。
 これだけの長丁場は久し振りだ。
 発砲を少し渋る。
 腰周りの弾帯が軽くなってきた。
 硝煙が冬の風に薙ぎ倒されて銃口から立ち昇る硝煙が掻き消される。冷える。寒い。脇や背中に使い捨てカイロを貼り付けてあるが、安全靴の爪先からジワジワと昇ってくる冷気は防げない。今度は靴底に敷く使い捨てカイロを買おう。
「…………」
 爪先の感触が変わった。
 倉庫と倉庫の間の通路を走っていたが、今まで足裏から伝わってきた感触が金属質なモノに変わる。直ぐに伏せて左手で足元を探る。
「……使える」
 20秒ほどしゃがんだままだった京は立ち上がり、頭を低くしてイサカ・オート・バーグラーの銃口を空に向けながら走り出す。
 標的が逃げた方向だ。この辺りは京の庭だ。逃走者の潜伏先として港湾部は広く愛用される。海外へ逃げられる。国道から運び屋が入り易い。
 長く篭城できる建物があちこちに確認できる。何度もここに足を運んだ。この街で港湾部と縁の無い業界人間は皆無だろう。
 口に20番のシェルを1発、銜える。左手の指にも合計4発のシェルを挟む。これで全てだ。
 これで仕留められなければ依頼を履行できなくなる可能性が格段に上がる。装填した2発と合計して7発。
 相変わらずイングラムM11の銃声は独特だ。牽制の発砲だろう。乱射というより連射という印象だ。
 距離を取る為の弾幕。殺意が薄い。追いかけてくる野犬に石を投げて追い払う程度の意識。
 標的は『これが初めて』ではないのだと。……今までに何度も逃げ果せたのだろう。その度に命中精度よりも弾幕が貼れるイングラムM11で難局を乗り切ったに違いない。
 標的のプロフィールは頭に入っている。殺害で済む程度の小悪党。この世界では一人の人間が死ぬ事で、全てが丸く収まるのなら全く大した問題ではない。
 街から街に流れてきた放浪者。それが今夜の標的だった。強敵に入る部類だ。
 銃の扱い方を知っているだけでは強敵とは認められない。過去に経験を積んで成功し成功体験として自分だけのノウハウを構築した人間を強敵と謂うのだ。
 自分だけのスタイルを確立した人間は、頑なになる一方でそのスタイルの『扱い方』も同時に習得している。
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