深淵からの咆哮

 不覚にも熱いシャワーを確認せずに、暖まる前の冷たいシャワーで心臓が縮こまった。
 真冬に冷たいドブ川の渡河、裸で右往左往。
 冷たい浴室で冷たい水のシャワーを浴び、最近は睡眠や食事に不摂生が重なっていた。
 それで風邪を引かないわけが無い。
 京は39度近い高熱に茹でられながらも、達磨のようにぶくぶくと着込んで、兎に角食事をしなければと電気ケトルで湯を沸かしていた。
 非常食に温存していたカップうどんが有る。
 5分も待たされるのがこんなに恨めしいと思ったことは無い。
 幸い、食欲が有る。
 胃腸で免疫力は作られている。胃腸が健在なうちに栄養のある温かい物を食べて只管休養をするしかない。
 人類は風邪を治す薬やワクチンは未だに開発できないで居る。これでも市販の風邪薬は飲んでいるが、熱と痛みだけなら生理通の時に度々世話になっている鎮痛剤の方がマシだったかもしれない。
 その薬も食べなければ服薬できない。
 筋肉痛と関節痛と頭痛と寒気と涙目に悩まされながら、即席のカップうどんに熱湯を注す。
 キッチンタイマーを5分にセット。
 椅子に座れば立ち上がれない気がしたので、今の内に食料の棚や冷蔵庫からトッピングの材料を掻き集める。
 高熱のせいで、どこに何を仕舞ってるのかを思い出すだけで難儀した。
 とろろ昆布。ウズラの生卵。カットねぎ。
 これだけあれば御の字だ。
 特に栄養価の高いウズラの生卵を昨日のうちに買っておいて正解だった。カットねぎは1週間前に買ったものを冷凍してあった。
 揶揄や比喩や形容や修飾といった小難しいレトリック無しに、国民的に愛されている即席カップうどんが出来上がるまでの5分は永遠に感じられた。
 キッチンタイマーが鳴るや、即座に停止させて返す手で蓋を剥がし、とろろ昆布を一つまみ、解凍させたカットねぎを二つまみ、シンクの角で割った鶏卵より硬いウズラの生卵を投入し、両手を合わせて簡略化された『いただきます』。
 先ずは熱い出汁を啜る。
 この一口はどのような風邪薬よりも症状に効く。誇張無しにそのうち人類はカップうどんでガンを克服するのではないと思うくらいだ。
 寒さに震えながら、熱風邪を耐えながら食べるうどんは古来より日本人が愛してきた食事のシチュエーションの一つだと言うのも頷ける。
 一口啜るごとに、一口うどんを腹に流し込むごとにDNAに素早く何かが届いているのを実感する。額に汗の珠を浮かべながら一心不乱にカップうどんを食べる。
 湯で戻す厚揚げも絶品だった。
 何もかもが美しい味。
 ウズラの卵を潰さずに、出汁と一緒に飲み込むのが京の好きなスタイルだ。
 続いて充分に出汁を吸い込んだとろろ昆布を口に含み、舌の上で滲み出る芳醇な塩加減を堪能する。後を追うように追加されたカットねぎがすがすがしい苦味が広がる。
 風邪で味覚が鈍くなった口の中で、矛盾せずにそれぞれの風味や舌触りが渾然一体となり熱を帯びたまま食道をするりと通過し、体温の保持と塩分補給を促す。
 冬と云う時期に風邪を引き、寒さと痛みに阻害される体を引き摺って食すカップうどんに最大の賛辞を贈りたい。
 風邪にはうどん。
 日本人ならこの選択肢を必ず最初に選ぶべきだ。
 その即席カップうどんを食べ終えたのは、午後2時を少し経過した時間帯。
 外は相変わらず雪が降りそうな寒さ。更に強風。
 幸運にも前日に仕事を振り分けた結果、緊急の案件は皆無で、近い内に久し振りにいつもの峠を愛車の商用カローラワゴンでドライブしようかと思っていた。
 京は急激に倦怠感を覚えて手元のハンドタオルで汗を拭きながらベッドに向かう。
 のろのろと着込んでいたドテラやセーターやマフラーを解除し、電気毛布を稼動させているベッドに頭から潜り込み、倦怠感に任せるままに体を横たえた。
 死んだように眠ったが、実際に枕元の目覚まし時計を見るとカップうどんを食べてから5時間しか経過していない。
 体に纏わり付く汗の不快感で目を覚まし、着替えてから再び眠る。
 翌日の早朝4時に『足元と枕が逆さになる酷い寝相』で目が覚めた時には、風邪は快方傾向をみせていた。
 やはり、即席カップうどんは素早くDNAに届いて病気に効く。
    ※ ※ ※
 道川理沙は目を剥いて驚愕と驚異を表現していた。
 いつの間に彼女は理沙の唇を奪っていたのだろう。
 理沙はどうしても鼻持ちなら無い、噂の雇用者を目前にして笑顔で居られなかった。
 総裁の一ノ瀬はタヌキのように強面の顔に笑顔を浮かべて、この人物を執務室で歓迎したのに、なのにコイツは、ついと理沙の方を見るや何事か呟きながらゆっくり近付き……そこまで覚えている。そして気がつけば、理沙は憎き雇用者に唇を奪われていた。
 唇を舌で優しく割られて舌が入ってくる。
 意識と感覚が遮断されたのはそれが本当に最後。
 気がつけば、女性としての気品に溢れた雇用者の顔が密着していた。
 コイツが何をしたか、コイツが何をしたかったのか、コイツが何を考えてこれをしたのか、そんな混乱に襲われている。
 『まさか同性に真正面から唇を易々と奪われるとは思っても居なかった』。
 道川理沙も素人ではない。
 生きた人間との命の遣り取りも経験した。
 最悪の場合は自分が一ノ瀬の手となって、エモノを駆ることも辞さない覚悟だ。
 その彼女が易々と……初対面だが憎くて仕方が無い『女』に接吻を許したのは、何が起きたのか判断できないでいた。
「あまりウチの部下をからかわないでくれないか」
 一ノ瀬はいつも通りに執務デスクで構えて強面に微笑みを浮かべていた。
 その『女』はにこりと微笑して小首を可愛らしく掲げた。
 女性にしては背丈は少し高い。170cmといったところか。華奢に見える体躯。赤いランチコートが目を引く。丈の長い黒いスカート。艶やかな腰まで有る黒髪。唇に目が惹かれるように明るい色合いのルージュが引かれている。
 化粧はしなくとも素材で充分に通用するという自信の現れか、ナチュラルなメイク。
 左脇が少し膨らんでいるところを鑑みるに何かしらの拳銃を呑み込んでいるのだろう。
 何よりも印象的なのが……笑顔の正体が解らない不気味さだった。
 肯定なのか保留なのか否定なのか判然としないニュアンスの笑顔。見る角度によってその捉え方が次々と変化する妖しい微笑。理沙はその笑顔こそが最大の武器なのだと遅れて理解した。
 見つめられるといけない笑顔。
 見張っていないと何をするのか解らない笑顔。
 コイツが噂の……。
「【レイオー.INC】のリーダー……らしくないお言葉ですこと……」
「? 何の事かな?」
「ああ……失礼……。事前に……調べさていただきました……。『随分と……人間味の有る理由で私を雇うのですね』……。驚きましたわ……」
 『女』の声の抑揚の付け方に違和感を覚える。
 敵意が無いとも有るとも感じられない、人間らしさを感じない抑揚。声のトーンはよく通り、腹式呼吸で鍛えぬいたオペラ歌手が囁けばこんな感じなのかと思うほどに美しく心に残る。
 声ばかり心に残るのに、『話しの内容は何一つ、記憶として残らない』。
 耳元で吐息をかけられながら質問されているのに似た、くすぐったい快感を覚える。
 鼓膜を静かに侵蝕し、脳髄に染み入るような甘い声。耳孔に舌先を差し込んで欲しいと下腹部が疼く。理沙の目に霞がかかり始める。
12/19ページ
スキ