深淵からの咆哮

 高神京(たかがみ みやこ)は今日も愛車に乗る。
 愛車と言ってもトヨタカローラのワゴン。商用でよく見かける白いボディの何の変哲の無い車だ。
 カスタムどころか製造番号や書類の偽造すら行っていない。行う必要が無い。彼女のプライベートな下駄履きなのだから。
 ウェットな職掌の彼女ではあるが、常にモンスターマシーンを必要としているわけではない。常に路地裏を走り回るために軽四車輌を欲しているわけではない。
 状況に応じて必要な道具を揃えて使いこなすのも、プロとしての心構えだと思っている。
 頑なにそれしか使わない、使えない、使おうとしないのはプロとしては二流止まりだ。中には一流に上り詰める兵もいるが、その影には圧倒的多数の、前途有る才能が文字通り消えている。
 彼女は今の普通車には備わっていない灰皿に銜えていたシガリロの灰を落とした。
 冬空の峠を法定速度で走る。彼女のささやかな息抜きだった。
 今の彼女は丸腰だ。必要の無いときに想定外を想定して必要な物を揃えるのもプロだという意見も有るが、彼女はそれに対しては反駁を唱える派閥だ。
 オンとオフを使いこなすことで気分をリフレッシュさせ、効率的に効果的に合理的に仕事をこなす。
 そういった意味でオフの日には仕事道具たる違法な銃火器は持ち歩かない。それを徹底させる為に愛車は穢れの無い中古車のトヨタカローラワゴンだ。
 2万km走った愛車。買ったときは1万5千km。合計3万5千km。
 コンディションの好い車体を中古車センターで見かけた時は即決で買った。普段の下駄履きや買い物などの荷物運び、少しばかりのドライブでも可もなく不可もなく満足させてくれる予感がしたからだ。
 白い、やや煤けた鈍い汚れも、いかにも使い込まれた雰囲気が出て可愛らしく見える。
 愛車のハンドルを駆りながら、半分ほどの長さになったシガリロの紫煙を唇の端から細く吐く。エアコンで発生する寒暖差から、僅かに開けたウインドウから煙が逃げる。
 旧いモデルは灰皿が標準装備なので昔は良かったのだな、と自分が生まれて間もない時期に想いを馳せる。
 冬空。
 今にも雪が降りそうな鈍く重い雲が厚く山間部を覆う。
 この先の道の駅で名物の釜飯を食べて帰宅。それだけの……本当にたったそれだけの小さな満足。
 この満足で得られるストレスフリーを体感して会得しなければ京の棲む世界では、あっと云う間に軋轢と重圧と齟齬と恐怖に磨り潰されて揶揄無しに絶命する。
 ストレス社会は何も表の世界だけの話では無い。
 裏の、日当たりの無い世界でも深刻な問題だ。
 末端では詰まらぬ小さなミスが命取りになり早く消え、頂点では毎日の激務と不摂生が祟って心臓麻痺や脳卒中で呆気なく亡くなって、それを機にパワーバランスが崩れることも良く聞く。
 ストレスは万病の元の更に元だ。
 風邪は万病の元と昔から言われるが、その風邪を招き易いのがストレスだ。
 ストレスに対抗できる人類など人類の範疇ではない。
 ゆえにストレスを、暖簾に腕押しの如く躱すのが賢い人間の選択だ。 若いうちの睡眠時間不足を自慢する風潮は実に馬鹿げている。健啖や鯨飲馬食を自慢するのもそれに同じだ。
 詰まる所、健康管理の範囲を体だけでなく、精神にまで広げた人間が長生きする。
 今し方灰皿に押し込んだ京のシガリロは広義では、猛毒の集大成だが、定義を変えると心を調律する気の置けない永い相棒だといえる。何も友せず、伴侶とせず、相棒としないで生きているだけの生活ならば京は早々に首を吊っている。
 心身の調律。これに尽きる。
 曳いてはオンとオフを素早く切り替えるメンタル的テクニックの習得は、何処の世界でも、何処の社会でも、何処の集団でも有用で必須な技術だ。
 今日はオフ。そう決めたら彼女は梃子でもオフの日を満喫する。
 道の駅で食べられる名物の山菜釜飯を食べて、熱いコーヒーと共にシガリロを愉しむまで何が有っても帰宅しない所存。
 ランダムなノイズが逆に心地よいカーラジオがBGM。ニュースに天気予報。
 京はラジオが好きだ。手を離していても聞くだけで表世界の情報を入手できる。裏の世界だと情報が偏っている場合が多いので、真実を定めるのに時間が掛かる。
 何処かで誰かが殺された話でも、情報屋を雇って実際に調べてみれば、殺されたはずの人物が自ら欺瞞情報を流して海外へ逃亡した話しなど幾らでも転がっている。
 数え切れない派閥や組織が群雄割拠する裏の世界では、情報の趨勢すら武器として用いられるので株式の上げ下げすら怪訝な顔をしてしまう。
 誰も何も何処も介入していない表世界ののどかなラジオの番組が心地よく聞こえる。
 心をフラットにして純粋に情報を楽しめる。
 京は、ラジオが好きだ。
 好きな車に好きなラジオに好きなタバコ。行き先では美味しい釜飯が待っている。心の洗濯日和だ。生憎の空模様も今は許せる。
 ただの休日を普通に過ごせて平和に終わる事を望むのみ。
 パーキングでカローラワゴンを停めて平日の道の駅を散策する。
 販売コーナーや入浴施設、車中泊の客用に開放している24時間トイレなどの外観を歩いて眺める。
 何も考えずに人込みに混ざっていると、自分も社会のパーツの一つなのだと実感する。
 禁煙区域に指定されている場所が多いので、裏地にフリースが仕込まれた防寒仕様の黒いパーカーの下に着たシャツの胸ポケットに差し込んだシガリロの缶に何度も手が伸びるがその度に諌める。
 平和な光景。
 寒空の下だが、客足は6割と言ったところで、不快な混雑具合ではない。その視界の端にふと陰が入り込む。
「…………」
 二度見。ここが鉄火場なら自分は今、死んでいた。
 それほどまでに心に大きな隙間を作ってしまった。
 女性。
 退屈そうでも忙しそうでもない、何故こんなところに居るのだろうと言う不思議な表情を浮かべた彼女がベンチで座っていた。
 腰まである黒髪を無造作に束ねただけ。オレンジ色をした救難色に近いパステルカラーのフィールドコートに最近流行の防寒スラックス。裏地に特殊な繊維が縫い込まれているので軽量で暖かいのがセールスポイントだ。
 そのスラックスのベルトループに縫い付けられたロゴで一目で流行りのスラックスだと判断した。
 モコモコとボリュームの有る焦げ茶色のマフラーに彼女の顔が埋まりそうだ。
 彼女は特に何も意識していない虚無を同居させた顔で、ふと京を見た。
 彼女も、京も互いに気が付く。
 互いが互いを見ている。
 彼女から見た京の印象は? 京が彼女に抱いた印象は? ……それが特に何も無かったわけでもなく、京はきびすを90度向きを変えて彼女に近付く。
 京は特に積極的な女性ではない。ましてや午前11時半を経過した時間帯に初めて見た女性に、自ら進んで距離を真正面から詰めるような大胆な性分でもなかった。
 なのに。何故か。どういう訳か。
 京は自分と対称の髪型をした、自分と背丈が変わらぬ、年齢も自分と同じ20代後半だと思われるその女性に向かって歩く。
 否、歩いてしまっていた。京は自分の行動を否定したいのか、肯定したいのかも解らない。
 自分がそうしたいからそうした。自分の行動が軽率だとか馬鹿げているとかは埒外。彼女に近付けば近付くほど『彼女を想う心が強くなる』。
 お願いです。彼女と話をさせてください。
 そんなシンプルな願い。
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