セロトニンを1ショット

 湿度の高い部屋。
 エアコンの除湿機が稼動する。更に床に置いた2台の空気清浄機も作動。
 窓枠外の片隅に設置された換気扇も作動。
 漸く、部屋にたゆたう紫煙が薄まる。
 不快指数が高すぎてやる気が起きずに仕事部屋で篭って事務用デスクと対になった事務用スチールチェアに座り、閉じたノートパソコンの上に100円均一で売られている、樹脂の四角いソーサーを置いてコーヒーメーカーで淹れたコーヒーのカップを置く。
 口にフィリピン葉巻のタバカレラ・コロナを銜えたままだ。
 シガーアシュトレイが手元にあるのに、それを使うのも億劫そうな顔つきで室内の中空を静かに彷徨う紫煙の行方を見る。
 行方と言っても、この部屋では空気に対流を発生させる様々な機械や設備が作動でしている。はかなくも紫煙は掻き消されてしまう。
 その無為な時間を呆けることで愉しむ。葉巻は煙を吸う物ではない。時間を愉しむ物だ。流れる時間に余裕を見出せない人間は最初から葉巻に手を出すべきでない。
 斯く言う麻衣子も葉巻どころか嫌煙家だった。
 税金を払ってまで寿命を縮める行為が正気の沙汰ではなかった。……そう思っていた。心を患っていたときに主治医にもう少し広い視野を持つと好いかもしれないとアドバイスされた。
 そのときは何も思い浮かばずに、何も考えず繁華街をうろついていた。
 その時に老舗の葉巻専門店の前を通りがかり、ショーウインドウに並べられた葉巻を眺めていたら店員に試してみませんか? と笑顔で接客され、冷やかしのつもりで葉巻を買い、店の奥のスモーキングルームで葉巻の吸い方や保存のレクチャーを受けながらおっかなびっくり、葉巻を吹かした。
 人間とは何が奇貨として働くか分からないと思い知る事が往々にしてあるが、正にこの葉巻専門店のスモーキングルームでの出来事が脳天を殴りつけるような衝撃だった。
 当時1本3600円のハバナ葉巻だ。
 値段は恐ろしく高いが、どうせこれっきりの体験だからと惜しげもなく千円札を並べた。
 そのコイーバ・ロブストという名前らしい葉巻との邂逅で余りの美味さに感動して葉巻を心の安寧を計る嗜好品にした。
 幾つもの葉巻遍歴の旅を繰り返している途上で今はフィリピンのタバカレラと云うブランドを贔屓にしている。
 大きな仕事を片付けた日はハレの日と定義してヒュミドールで大事にエイジングさせているハバナ葉巻を吸うことにしている。
 自分のメンタルを調律する最高最適の存在は嗜好品だと思っている。酒煙草に限った事ではない。
 人によってはコーヒー、紅茶、清涼飲料水、飴やチョコレート、ドライフルーツなどがある。
 手軽に摂取できて一定の精神的満足感が得られるものならば何でもいい。嗜好品を友としない人でも腹式呼吸や自律訓練法、瞑想などもこれに入ると言えよう。
 健康志向の度合いは関係ない。自分の心を調律してくれる存在が大事なのだ。
 これを摂取し、またはこれを行い、いつものように満足感が得られないと心身のどこかが不調だと言う証拠だ。
 本を読んでも、風景を観ても、その時のメンタルの調子次第で心に残る度合いや解釈すら違う。
 いかに心豊に生活できる糧を見つけるか……ストレスを緩和し解消する最適な方法はそこにあるのだろう。どれもこれも恐らく正しい。然し、自分に有った方法や物が中々見つからないだけだ。
 まだまだ精神を病んでいる状態の麻衣子にとっては、過剰なストレス……スリルをいかに効率よく消し去り、いかに合理的にオンオフを切り替えるかが課題だ。
 それを模索するアイテムとして葉巻が手元に有る。
 本末転倒にもみえる。
 嗜好品や方法を探す、模索する方法を『探す』為に葉巻を手に取る。もう答えは出ているようなものだ。
 紫煙を細く長くやや強く吐く。
 この部屋に有るもので葉巻の香りに燻されていないものは無い。ノートパソコンを稼動させている時は流石に吸わない。大事な仕事道具が煙を吸い込んでいざという時に使えなくなると笑い話にもならない。
 殺し屋や荒事稼業の人間はスクリーンで観るように荒々しくワイルドなイメージからは程遠い人種が多い。事細かな気配りの集大成が今の自分を造り、今の自分を守っていると考えているからだ。
 睡眠時間が不規則だと、必ず休養をとり睡眠負債を解消して脳内をクリアに保つ。
 不規則な食生活でもカロリーだけに頼った食事をせずに、バランスの良い、自分の体調と体質、体型に合った食事を摂った後にサプリメントを飲む。
 中年期に殺し屋としてデビューした麻衣子は特に体のコンディションに気を使っていたので充分な休養と最適な筋力トレーニングを欠かさなかった。
 生活について意識が高いのではない。これくらいの努力をしなければ体も心も技術も保てないのだ。
 成長期を完全に終えて老いる一方の体で、筋力と精神力を酷使する世界で生きるのなら……結果的に死んだとしても生き延びるつもりならば、最後の最期まで生きる努力を放棄してはならない。
 それは麻衣子が心を病んで得た有り難い教訓の一つだ。
 正直に言うと、自分が元の職業で心身を病んで社会から落伍しなければ、弱者や障害者の苦難苦痛に理解を示せる生き方が出来たかどうか怪しい。
 自分の身に降りかからなければ誰しも興味を示さないものだが、自分が筆舌しがたい困難と対面するとその困難を打ち破ろうと、様々な情報を集めて対処療法から根治療法まで試そうとする。
 人間は自分に興味が有るものしか調べようとしない、と云う名言を思う。
 違う方向から思考を進めれば、性分が合致すれば殺し屋を問わず、闇社会を問わず、何処の世界にでも必ず自分の居場所や適材適所的に本領を発揮できる場所が有る事も知る。
 今は、ただただ、部屋の中層を浮かんでは、掻き消される紫煙を眺める。
 マニラの独特の香りを愉しみながら脳味噌のストレスを解きほぐす。自由自在に心身や頭脳や思考のメンテナンスを行える人間になりたいものだと何と無しに心中で呟く。
 2cmほどに育った白い灰をシガーシュトレイに押し付けると程好い抵抗を感じさせてから静かに折れた。口中に残る香りをブレンドのコーヒーがあっさりと流して馥郁たる香りに変貌させる。
 午前11時。
 何もしない時間だけが静かに流れていく。
 窓の外では梅雨時特有の曇天に小雨が混じる。
 今日も鬱陶しい天気が始まる。
  ※ ※ ※
 荒事師。
 早い話が、暴力を生業とする職業全般を指す。
 借金の取立てや拷問も含まれる。カチコミ専門の鉄砲玉や爆弾を設置するテロ行為も。
 久し振りに割りのいい仕事を斡旋専門サイトで見つけた。
 それが荒事師の仕事だ。
 麻衣子は表向きは万屋で殺しを裏で行っていると云う、暗黙の了解的看板を出して宣伝している。
 その彼女が度々荒事師として鉄火場に立っていても誰も何も言わなかった。この業界で兼業は珍しくない。転職も珍しくない。看板に偽りありも珍しくない。
 鉄砲玉として雇われた今回の仕事。
 割がいいのは構わないが、数人の即席チームかと思っていたのに、同性の殺し屋崩れが独り。
 白いサマージャンパーにデニムのパンツ。赤いキャップ帽。黒いブランド物の運動靴……そして口に横銜えにしたコニャックの香りがするフレーバーシガー。
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