セロトニンを1ショット

 拘束されても所持品からクライアントに繋がらないように全てを記憶したり、平面の見取り図を見ただけで三次元的な構造を脳内に描いたり地図を見ただけで一瞬にして複数の侵入逃走ルートを見つけ出して所要時間を計算する……。理数系の思考と記憶が苦手な麻衣子が未だに不得意とする分野だ。
 標的の探偵が依頼人の寄越した資料よりも『静かに』警護を雇った可能性も有る。
 闇社会で雇える『護り屋』と呼ばれる警護専門の職業は恐らく運び屋並みにフットワークが軽い。
 殺し屋が情報を搾り取るように集めるのに対して『護り屋』は依頼人が電話をするだけで取り敢えず必要な人員を即座に手配する。或いは集める事が出来る。
 命を狙われる事が日常茶飯事の世界で金で直ぐに手軽に雇えるボディガードほど頼もしい存在は無い。それに警護を専門にして他の業種から疎まれても補って余りあるメリットが『護り屋』には有った。
 それは信頼と信用と実績が簡単に積み上げられることだった。
 これは何よりも大事なことだ。どの業種もこれを集めて積み上げるのに必死になっている。
 『護り屋』は生命に直結する事態を応急処置で対処するので重宝される。そして何処の勢力にも属していない場合が多い。
 勢力の庇護が無い、勢力に所属していない人間を金次第で問答無用で警護する……そして名声を得られる職業。それが『護り屋』。しかも相場は殺し屋や運び屋よりも安い。
 廃屋が並ぶ区画の路地を黴臭くて、湿気を多分に孕んだ空気がどろどろと流れる。
 空気の奔流に逆らって歩いているかのような抵抗を感じる。
 殆ど無人の廃屋の区画。ところどころの屋内で蝋燭のような小さな丸い灯りが見えるが、それは浮浪者が勝手に上がり込んで寝床にしているからだ。
 ガスと電気は使えないが水道は使える。区画の殆どに水が配分されるように技術と知識の有る誰かが元栓を捻ったのだ。
 自治体の然るべき部署も『地域住民』から特に苦情や意見が届けられていないと云う理由で我関せずを決め込んでいる。水を無断で使われても水道局の職員の給料が減るわけではない。
 街灯の下を歩く。
 脳内にノイズが走る、不明瞭な地図を展開する。
 平面地図の暗記は苦手だ。
 デザイナー時代に培った空間把握の能力も余り役に立たない。
 椅子に座りっぱなしでデザインに没頭する能力と、鉄火場を形成するかもしれない現場で……背中に目玉が欲しい状況で脳味噌のタスクを四方八方に割く能力は別物だ。
 肌を差す空気。
 生ぬるく不快な湿度が肌の表面からじりじりと深く浸透する錯覚。持病である自律神経失調症特有の寒暖の差が判別できない症状に似ている。
 顔が熱く火照っているのに体は寒い。風邪に似た倦怠感。極度の緊張に晒されて副交感神経が叛乱を起こしている。早くもアドレナリンが暴発する。
 記憶している廃屋の所在地に来る。
 2階建て。資料の上では無人になって10年。
 4DK。古ぼけた和洋折衷の外観。新築当時の華やかさが想像できない。軽四車輌と原付バイクを駐車できる小さな駐車場。3畳分ほどの庭らしいスペースも有る。放置されたバケツや植木鉢。所々割れた窓ガラス。2階部分にオレンジ色の蝋燭の炎が揺れていた。擦りガラス越しに揺れる蝋燭の灯り。
 中に誰か、確実に居る。
 右手のノリンコT―NCT90が途端に重く感じる。掌から汗がじとじとと吹き出る。腋の下や背中にも脂汗が浮く。……この緊張感の為に生きている。命の遣り取りの瞬間の為に生きている。自分が一番輝いていると大声で叫ぶ事が出来る時間が始まろうとしている。
 玄関ドア。
 ハンドタオルをドアノブに掛けて静かに回す。
「……」
 ドアの開閉が滑らかだ。
 直ぐに開閉できるように蝶番やドアノブに機械油を差したと分かった。音もせずにドアが開く。勿論普通なら、廃屋だ。
 2階の然るべき部屋までは灯りは期待できない。
 小型のフラッシュライトを持参していたが、自分から居場所を宣言する必要も無い。
 玄関の小上がりから靴を履いたまま埃塗れの廊下を歩く。
「……!」
――――おっと!
 玄関から1mほど廊下を歩いたところで大きく跨ぐ。
 眼に見えない赤外線センサーが足元の高さに設置されているのを見つけたのだ。目を凝らしてもセンサー本体は分かり難いが、センサーが作動している事を報せる赤い小さな明かりが微かに見えたのだ。
 右手側台所。距離4m。暗がり。呼吸。殺気。気配。死角の陰。遮蔽の隙。人のシルエット。背は自分と同じか少し高い。素早い衣擦れ。反射的。
 咄嗟に麻衣子の脳が危険と把握し、脊髄反射で右手だけを乱暴に台所に向けて容赦なく、照準なく乱射する。顔は台所の方に向けていない。勘に頼っただけの最大火力の牽制。
 連なる銃声。
 2挺分の銃弾が交差する。
 台所の方から飛んでくる火薬滓が麻衣子の頬や首筋を叩く。この瞬間に自分は死んでもいいと倒錯に陥る。
 命の遣り取りのど真ん中で、本当に生きるか死ぬかに殉じる事が出来るのなら幸せな最期だと信じている。
 今、死ぬかもしれないスリル。
 今から殺しにいく興奮。
 自分は確かに存在して生きている。
 そんな指弾ほどの間髪で生命を実感。
 銃弾は悉く相手の体に叩き込まれる。暗がりの中に居た人物は確かに麻衣子を殺す心算で乱射した。
 たった4mの距離。間合いを詰めて殴りかかった方が早い距離。初弾……麻衣子の咄嗟の引き金で既に勝負は付いていた。
 初弾はその人物の胸部に命中し、その人物の初弾は麻衣子のポニーテールの端を弾いただけ。後は惰性の乱射。恐らく互いに初弾が命中し、外れたと実感していないだろう。
 感覚だけの銃撃。
 拳を繰り出すよりも早く銃口が瞬いた。
 壁や天井に弾痕が穿つ。どちらが死んでいても不思議ではない。どちらも被弾せずに伏せている可能性も有った。
 今回は紙一重で麻衣子が勝った。否、生きていた。
「……」
 鼓膜を刺す銃声の余韻。
 特殊部隊が室内の制圧でサプレッサーを用いるのは、銃声を抑制して静かに深く侵入する目的よりも、同僚の発砲音によって鼓膜が損傷しないようにケアするのが目的の場合が多い。
 麻衣子も耳栓を持参すべきだったと、転がる空薬莢を蹴り飛ばしながら心で反省する。
 今しがた製造した死体の顔をフラッシュライトで素早く照らし、素早くオフにする。
 『顔が違う』。標的の探偵ではない。雇われた『護り屋』か、伝の有る暴力稼業の人間だろう。
 軽くなったノリンコT―NCT90の弾倉を引き抜き、新しい弾倉を差す。
 残弾は何発か残っていたが、暗がりの中の遭遇戦で無闇に銃弾をばら撒く事が多いと踏んだので新しい弾倉に交換した。
 この廃屋の見取り図をおぼろげに脳内に投射。2階が勿論怪しい。先ほど、台所で遭遇した男はシンクの水道に用が有ったのかもしれない。
 2階へと通じる角に来ると角を遮蔽にして立ち止まり、暗いだけの空間にリップミラーを突き出す。
 窓の外から入る光源では全体を把握するのは困難だった。リップミラーを戻し、スマートフォンを角から突き出してフラッシュを焚いてカメラで撮影した。
「!」
「!」
 男達の罵声が降り注ぐ。序に銃弾も。
 カメラで撮影した画像には2人の男が映っていた。
 2階の角の左右でしゃがみこんで大型自動拳銃を構えていたところを強力なフラッシュを焚いて撮影したので慌てたらしい。勿論、雨のように銃弾が撃ちこまれる。
6/19ページ
スキ