セロトニンを1ショット

 充分に鼻の下でマニラの香りを嗅ぐと黒い樹脂製のフレームをしたギロチン型シガーカッターで吸い口をカットする。
 軸の長いマッチでコロナと呼ばれるビトラの葉巻の先端をじっくり炙りながら深く吸い込む。
 葉巻愛好家の中でも好き嫌いがはっきり分かれるマニラ巻きを、目を細めて紫煙をゆっくり吐き出す。
 午前11時の仕事部屋で静かに窓枠にはめた空気清浄機が作動。
 窓の外の鬱陶しくなりつつある曇天に煙が吸いだされる。
 決して高価ではない葉巻も加湿具合では充分に化ける可能性を見せてくれたフィリピン葉巻だ。心に安息を齎せる嗜好品の有無は人生に彩りを与えるか否かに直結する。
 愛好家の間でアンモニア臭や硫黄臭などと表現されるマニラの香りの中に、焦げた杉と蜂蜜テイストの甘味を発見するとどうしてもフィリピン製の安葉巻を贔屓目に見てしまう。
 どうせ今日も筋肉痛の残りで本領は発揮できない。
 早い時間に葉巻を吸いながら思索に耽るのも悪くは無い。
 空は今にも泣き出しそうだ。気分的に湿気の多い時期だとノリンコT―NCT90に限らず拳銃は作動不良を起こしそうな偏見を持っている。
 殺人と快楽と葉巻。
 これ以外に自分に生きていると実感させる事柄や事象は存在しないのではないかと云う疑問がゆらりと脳裏を掠める。……それは程好く葉巻のニコチンで脳の緊張が解れてきた証拠だった。
 葉巻は不思議な物でバイタルを刺激する作用が有るのに、メンタルにはリラックスを提供する。
 紙巻煙草を常習するニコチン中毒者特有の『煙草を吸っているという安息感』を脳の奥深い部分が思い出して記憶とニコチンが結びつき、結果的にニコチンを補給する。欧米やその影響国ではそれを逆手にとって紙巻煙草から葉巻にシフトして禁煙する方法も考案されて実際に医療現場で指導されている。
 すっくと事務用デスクと対になっている椅子から立ち上がり、部屋の片隅に置いているコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。心は半分以上、本日は営業終了の看板を出していた。
   ※ ※ ※
 梅雨。
 本日は朝からぐずついた天気で湿度が高く空気の塊が体に纏わりつく不快感を覚える。湿気を多く含んだ臭いが鼻の奥にじんわりと染み込む。
 筋肉痛はもう残っていない。
 久し振りに依頼が舞い込む。別段高い料金は設定していないが、ただルーキーと云うだけで、名前を売り出すのは難しいだけだ。
 何処の世界でも名前や看板の持つイメージは大切だと痛感する。
 そしてそれに付随するプロフィール。
 殺し屋や闇社会の人間で、本当の意味で経歴不詳を貫いている人間は割と少ない。
 自分が何処の組織所属、庇護を請ける誰で過去にどのような実績を積んだのかと云う『相手の顔が見える、身近な殺し屋』は依頼やスカウトし易い。
 誰しも得体の知れない人間に相場が判然としない料金を払って遂行できるか否か解らない博打はしたくない。或る程度の経歴や過去は自身を宣伝する好い材料なのだ。
 真剣に出身地や生年月日や経歴を名刺の様に表示する人間も居れば、散々調べ上げた挙句に猫好きな事しか分からない人間も居る。
 殺し屋が自分で開示する情報……それでいて司直の手が入らない、巧妙な欺瞞工作が練りこまれたプロフィール。インターネット黎明期の個人サイトじみた状態が闇社会の一部で一般化しつつある。ITや情報の知識が豊富な情報屋集団が闇社会専門のSNSを構築して開設したという噂も有る。
 こんなに人と人は繋がりを求めている。
 麻衣子のような中年ルーキーでもなんとか殺し屋の真似事で生活していけるのもそういった情報の恩恵によるところが大きい。
 何しろ、現場で一番鉢合わせになりたくない警護専門の『護り屋』や『殺し屋専門の殺し屋』を回避できる可能性が高いのだ。
 人と人の繋がりを受け持つシステムが有るのならその一端を逆手にとって人と人が繋がらないように工夫する知恵が育つ。
 尤も、興味本位で闇社会専門のSNSと云うもののアカウントを取得したいが、未だにその全貌は掴めていない。恐らく、全貌を自力で掴める人間だけがアカウントを取得できるようにテストされているのだろう。
 仕事場でノートパソコンを閉じて大きく息を吸う。
 自分宛の依頼が舞い込んでいた。
 『依頼を買う斡旋所の掲示板』からではなく名指しで殺しの依頼。
 嬉しいやら緊張するやら。自分の噂を何処で聞いたのか? 何処の誰がどんなルートで仕事用のメールアドレスを知ったのか? 麻衣子が提示する相場で満足する依頼人なのか? ……自分で宣伝しておいて、いざ依頼が舞い込むといつもこの調子だ。
 心は未だにルーキー以前だ。
 殺しの依頼は……逃走した探偵。深入りし過ぎたか、二重スパイだったか。それは知らない。街を熟知した探偵を殺して欲しいとの依頼だった。
 探しだすのは簡単だった。
 依頼人が直接必要なだけの資料をメールに添付してくれた。少しばかり自宅近くの郊外の境目だったので愛車のフォード・フェスティバを無為に乗り回してタクシーとバスを乗り継ぎ、万が一の追跡に備えた。
 午後11時55分。
 日付も変わろうかと云う時間帯。現場になるであろう廃屋が並ぶ区画まで徒歩で来る。この区画はもう直ぐ更地になる。人口流出に歯止めが利かずに時代に淘汰された場所だ。
 麻衣子のマンションも30年以上前のベッドタウン構想の失敗の果てに、跡地に建てられた。典型的な田舎。近所に全国展開している大型ショッピングモールが建設されると噂だけが流れて数年が経過している。
 自治体の区画整理が現実と理想で解離が大きくなると自然とこのような現象が10年単位でやってくる。静かに市は滅ぼうとしている。劇薬だが効果が有る治療を行わず、包帯を巻き止血だけで誤魔化し、壊死を起こした部分は腐って崩れ落ちるまで放置。涙が出そうなほど末期の田舎だった。
 曇天の夜の下。
 廃屋ばかりが並ぶ殆ど無人の一帯に足を踏み込む。
 いつもの黒いパーカーに黒いカーゴパンツ。
 季節柄、もっと通気性のいい衣服に着替えたいが、夜中に人目を憚って殺人を行おうと言う人間がファッションに拘っていられない。ファッションと機能性が両立する衣服は意外と特徴的で直ぐにメーカーが特定される。
 故に、履いている靴も薄利多売の東南アジア製の運動靴だ。自分の体に合わせて選んだモノはホルスターと予備弾倉のポーチくらいである。
 空気がじっとりと体に纏わり付く。不快指数が高い。空気が常に雨の匂いを孕んでいる。月も星も無い。街灯だけは機能しているので最低限の明るさは確保できている。
 麻衣子は肩下まである黒髪を黒いゴムでポニーテールに纏める。
 懐に手を差し込み無造作にノリンコT―NCT90を抜き、歩きながらスライドを引く。
 湿気の不快加減を晴らすような心地よい金属的な作動音が小さく聞こえる。
 標的は1人。
 難しい仕事ではない。今のところ、報酬の面では拗れていない。標的の人相風体も記憶した。
 この業界では証拠隠滅の最強最後の手段として自身の記憶が重要視される。 
 そして想像力。
 資料を睨むときは必ず板チョコを齧るほどに頭を使う。殺し屋はセンスとインテリジェンスが両立していないと難しい。
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