セロトニンを1ショット

 その時に……その瞬簡に彼女に去来していたのは恐怖。畏敬の念。
 興奮。
 誰にでも確実に訪れる死。
 そしてそれを供給する事ができる暴力。単純なそれはもっと単純に彼女の視界を鮮やかに彩り、明るく眩しく魅力に溢れる世界への入り口となった。


 彼女、坂巻麻衣子(さかまき まいこ)が殺し屋を歩むのはそんな昔話から始まった。

 あの時に捨てるべきだった大型自動拳銃のノリンコT―NCT90。
 世界的に有名なトカレフの後継機として改良が施されたが全軍配備には到らず民間向けに販売された。
 9mmパラベラム14連発。マニュアルセフティ付属。コンバットトリガーガード。
 1911シリーズを真似たようなシルエットで、麻衣子の所持するモデルは小型のアジャスタブルサイトが取り付けられている。
 全長190mm程度。重量900g。
 命中精度は大したことは無い。平々凡々。何の特徴も無い軍用拳銃崩れだ。
 ノリンコといえば粗悪品や粗製濫造と云うイメージは現在ではかなり払拭されている。
 このノリンコT―NCT90も外貨獲得に本気を出し始めた頃の中国が梃入れで作ったモデルなので故障や不発や作動不良は少ない。少なくとも土壇場でのトラブルで寿命を縮めた例は数えるほどしかない。
 尤も……麻衣子は28歳から『この世界』で商売を始めた遅咲き過ぎる殺し屋もどきだ。
 何でも屋、万屋、便利屋……呼称は何でもある。
 ハジキが必要な荒事がメインなら気軽に呼んでくれと宣伝している。
 坂巻麻衣子。現在34歳。
 嘗ての希死念慮に飲み込まれた彼女の姿は此処には無い。寧ろ確実な死を提供する側の人間として新しい人生をやり直している。
 捨てられなかったノリンコT―NCT90。
 否、変遷しても遍歴しても結局戻ってきたノリンコT―NCT90。掌の相性や発砲した際の反動などと言った理論的な理由からではない。初めて人を殺した光景が強く焼きついた視界にこの拳銃が映っていた。死体を作るのならこの拳銃でなければならないと云う強迫観念。
 そのノリンコT―NCT90が彼女の相棒として結局、今日も左脇のホルスターで収まっている。
 そう言えば、中年の波が寄っているのか、ショルダーホルスターをしていると肩凝りを覚えるのが多くなった。腰の周りに巻いた予備弾倉のポーチも時々軽い腰痛を訴える。基礎的な筋力や体力を培っていない遅いデビューの麻衣子には身体的負担はカバーしきれない。
 麻衣子は現在の職業は無職だ。
 荒事や面倒事を生業に出来る闇社会に潜って数年しか経過していない初心者同然だった。表の明るい世界での人生経験が通用しない事態に日々直面している。
 何度も命を落としそうになった。命を落とす計画に自分が巻き込まれている事もあった。
 そして、それぐらいの事で……それぐらいの瑣末な出来事で一々引退を考えているようではこの世界では長生きできないのも学んだ。何人もの同業者や取引業者が脱落し、殺害された。身柄が司直の手に渡る前に口封じに殺されるケースは想像以上に多い。
 初心者で素人で入門者だから優しい世界ではない。
 自分で生き方を模索できない人間はそこで『大きな篩』にかけられていると直感すべきだ。
 その直感すら働かない奴は容赦なく淘汰される。命を奪われるだけが淘汰ではない。搾取される側に蹴落とされて都合のいいように扱われる。
 人間の世界は斯くも汚い世界を構築していたのだと肌身に感じた。
 彼女の動機は何も難しくは無い。
 殺し殺され生存するスリルに一瞬で魅せられただけ。
 難しい理屈は何も働いていない。
 映画やドラマで見るような複雑なドグマは渦巻いていない。生きるか死ぬかの瀬戸際に見せる人間の輝きが美しすぎて自分がそれを能動的に求めているだけに過ぎない。
 ノリンコT―NCT90は今日も安心感を与えてくれる。
 これが無いと怖いのではない。
 これが無いと充実した毎日が送れない恐怖だ。
 彼女自身、潜在的な犯罪者で殺人者だったのだろう。カタギの世界ではその生き方が見つからないはずだ。拳銃とは無縁の世界で、暴力とは疎遠な世間で、生死が問われる社会では命の瀬戸際で生命の輝きを最大に発揮する局面など簡単には観測できない。
 彼女は今日も依頼が舞い込んでいないかノートパソコンのモニターを睨みつける。


 6月下旬。
 異様な暑さも一段落の翳りを見せる。
 このまま気温が安定してくれる事を願う。
 梅雨が遅く未だに長雨の気配が感じられない。湿気を含んだ風が高温と相俟って不快指数を上昇させる。空は晴天と曇天の繰り返し。時折、激しい雨。
 麻衣子は鬱陶しい空を一瞥して再び手元に視線を落とす。マンションの一室を完全に仕事道具と仕事用のパソコンを置いたオフィスにしている。
 麻衣子の賃貸マンションは郊外との境目に有る。
 築年数はやや古く手頃な家賃だった。4LDKの二昔前のデザイン。交通の便は今一つで移動の手段として自動車やバイクは必須だった。12階建て。
 一つのフロアに7室。
 麻衣子の部屋は4階の南東の角だった。……早く洗濯物が乾く良い物件。
 その自宅の一室でノリンコT―NCT90をメンテナンス。
 今日も仕事の依頼は無い。年齢だけが中堅のルーキーには実績を積ませてくれそうな仕事は都合よく舞い込まない。
 窓を開け放ち、空気清浄機とサーキュレーターを稼動させて室内の換気に気をつける。
 ノリンコT―NCT90のメンテナンスを終えた時に携帯電話が着信を報せる。ノートパソコンで共用している使い捨てのフリーメールだ。手元にノリンコT―NCT90を置いて携帯電話に飛びつき、メールを確認する。
 遅いルーキーの麻衣子には危険度が高い仕事だった。
 それは……彼女の口角が悪魔のように吊りあがったのを見て確認できる。彼女に希死念慮は無いが自殺願望は有った。
 命を懸けるだけの価値の有る仕事だと判断した。


 午前1時。
 深夜。
 改装中の高層ビル……その最上階39階。
 麻衣子は肩下まで有る黒髪をゴムで後頭部に結わえて黒いパーカーと黒いカーゴパンツの出で立ちで足音を殺しながら目標のフロアへと昇る。
 階段を利用。エレベーターは使用出来ない。
 39階分も階段を昇るのは流石に堪える。途中で何度も休憩して持参していたミネラルウォーターで喉を潤した。エレベーターは稼動しているが、稼動させた途端に標的に勘付かれてしまう。
 目標の階へと到達しても直ぐにノリンコT―NCT90を抜かない。2リットルのペットボトルを浴びるように呷って空にする。呼吸を落ち着かせる。
 事前のリサーチと情報収集が確かならこのフロアでは5人の人間が居る。
 改装中のフロア。人の気配が無くて当然。
 フロアを丸まる利用できるだけのコネを持つ人間が相手だ。
 標的はこの界隈でも顔を利かせているフィクサーの秘書と商談相手。警護要員は3人。
 廊下に人の気配は無い。角から突き出したリップミラーの反転した世界では一応の安全を確保できた。
 ノリンコT―NCT90を左脇から脇差を抜くように抜き出す。
 安全装置を解除してノリンコT―NCT90にハンドタオルを掛けてそろそろとスライドを引く。銃火器の作動音は意外と鋭く遠くまで聞こえる。
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