セロトニンを1ショット

「その『不思議な嗅覚』は本当に『不思議』で自分が今まで生きてこられたのは『奇跡』だと思っていないだろうね?」
 嶋久は唐突に麻衣子に投げかけた。
「?」
「この業界に腕利きは幾らでも居る。それこそ、腕利きだけが生き残るのだから腕利きしか居ない業界だと言う噂も外れていない……。正直に『カードを切ろう』。君の直感は才能だ。確かに奇跡だ。君のような人間は『早々に淘汰される条件』も確かに揃っている。然し、生きている。私の駒の中でも一等腕利きの聡美を『薬莢で転倒させる機転が利いた』らしいじゃないか。その場の判断力も素晴らしい。資料を見ただけで直感が利いて、現場では咄嗟の判断を最大限に『活かせる』能力……君は自覚していないだろうが、これはこの業界で最も成功し最も長生きする条件だ」
 麻衣子は嶋久と云う中年の目の輝きが殺意を放っていると感じた。脳より先に肌が焼けるように、凍えるように刺された。この感覚は……危険だ。
 ……そして、最も欲していた、力の具現だと悟った。
 何か助言を求めるような視線を【トカレフの聡美】に向ける。
 彼女は勝手に1人掛けのソファに座ってドライシガーを銜えたまま、両掌でタンブラーを弄んでいた。にやにやとした子供の顔。この話の結末がどうなるのか知っていると言わんばかりの愉悦の笑顔。
 ここでこの話を袖にしても殺されない安堵が何故か有った。
 嶋久はもしかしたら、最後の試験として殺意を孕んだ視線を銃弾のように放ったのかもしれない。
 暫しの逡巡。暫しの躊躇。暫しの思考。
 様々なカードや駒やチップが脳内を左右するイメージ。
 理数系の頭脳ではない。文系としてもスペックは低い。だから直感的センスだけで商売できるデザイナーになろうと思った。
 何故か、過去の職業に踏み込んだ理由がちらりと脳裏を過ぎる。
 脳内のクレイジーウォールとブレインストーミングが崩壊する。
 計算も思惑も棄ててしまえと、自分が自分に向かって囁いた。
 メタ認知が囁いたのだ。
 悩んだ時に現れると云う、解決策や選択肢を示してくれる、もう1人の俯瞰的な自分が自分の声を使って囁いた。
 嶋久なる人物は情報を幾らでも操作できる巨大組織の所属であることは突き刺さるほど察した。
 この話し、断っても受け入れても殺されない。評価に響かない。信用看板に瑕が付かない。この人物は何処にも誰にもこの事を話さない……根拠の無い確信。
 直感。直感を信じろと囁き、信じた場合のメリットを100個も囁くメタ認知。
 麻衣子はソファに座りなおして深く頭を下げた。
 手元にノリンコT―NCT90が納まったハンドバッグを強く引き寄せる。静かに、静かに、麻衣子はこう言った。

「お受けします」

 と。

 麻衣子は割のいい話だから嶋久の言葉を受け入れただけだ。
 深い理由は無い。
 深く考えたが、その奥底に有る深い理由は無い。
 話しに乗るか反るか。どう返事しようとも命に別状は無い。それならば身を任せてしまえと。
 麻衣子がそのように考えて、そのように返事するのも、少なくとも【トカレフの聡美】は既に知っていただろう。
 この話の結末も予定通りなのだろう。
 じわりと痛む。右肩のトカレフの弾頭に持っていかれた痕が痛む。今、初めて緊張の糸が解けたのか、額に珠のような大粒の汗が一気に吹き出て顔が青褪める。
 喉が渇く。鳩尾と喉に痞えを感じる。鈍い頭痛。緊張が解けてリラックスに必要な副交感神経が一気に押し寄せて、活動に必要な交感神経が押し潰される手前だ。
 頭脳が白濁し、鉛のように重い空気の塊を飲み込んだように息苦しい。
 早くもパニック発作に直結する自律神経失調症が鎌首をもたげてきた。
 先ほど「お受けします」と声を引き締めて言い放った静謐な表情とは打って変わった表情でこう言った。
「み、水をください……」
 顔が火照る。恥ずかしさからか自律神経の乱れからか。
 ホームバーのウォータージャグから冷水なみなみと注いだガラスコップを差し出す【トカレフの聡美】。
 それを手に取りながらなんとも頼りない、泣き出しそうな引き攣りの笑顔を浮かべる麻衣子。
「まあ、気楽にやろうよ。『愉しい職場だよ』」
 【トカレフの聡美】は災害級の殺人者とは思えない、ヒマワリが咲いたような笑顔で麻衣子に言い聞かせる。
 一気に水を飲み干すことにしか専念しなかった麻衣子は、この時の【トカレフの聡美】の笑顔をこの後、一生見ることは無かった。
 この笑顔、もっと深く記憶しておくべきだった。
 それが麻衣子の人生の中で最高最悪の後悔の一つとなる。



 と或る強大な組織の飼い犬のリストに、【ノリンコの麻衣子】なる、古株の幹部級ですら震撼たらしめる殺し屋が記されるのは、もう数年後の話。

《セロトニンを1ショット・了》
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