セロトニンを1ショット

 【トカレフの聡美】は再び仰向けに倒れながらも尚、口に銜えたドライシガーを落とさなかった。
 口腔と鼻腔から紫煙がゆらりと溢れ出る。苦悶の表情を浮かべていたが、数十秒後に指先も動かなくなる。
「……」
 義務的に麻衣子は【トカレフの聡美】の頚動脈に左手の人差し指中指薬指を軽く当てて脈を診る。
――――ダメ。助からない
 細く弱い、消えそうな脈。
 被弾してたったの数十秒でこんなに脈が弱くなるのは被弾のショックが心臓に到達したからだろう。止めを刺すまでも無く、10分もせずに心臓が止まる。心臓マッサージを施す義理は無い。
 麻衣子はゆらりと立ち上がる。全く得体の知れない女の闖入者に背中を向けて部屋の出入り口を目指す。
 もう麻衣子は【トカレフの聡美】の事など考えていない。この一件をいかに説明して依頼人に納得してもらうかの方が重要だった。


 翌日午後8時。
 疲労の残る体を押して市内の高級マンションの一室に来ていた。
 場違いだと思われたくないので一張羅のベージュのスーツを着ている。
 白ハンドバッグにノリンコT―NCT90を納めている。
 昨夜、受けた依頼を女の闖入者に邪魔されて遂行できなかった弁明をしにきた。勿論、前払いの報酬も返金する所存。
 屈辱だ。
 肩が凝りそうなほどの高級なスイートで眼下に視線を落としたまま動かない紺色のスーツの中年。
 スラリとしたスリムで引き締まった体躯がスーツの上からでも良く分かる。
 精悍な顔付きで歳の頃は50代後半くらいだろうか。最初に会ったとき、狼のように獰猛な光を湛えた瞳が、失態を犯した麻衣子の体に突き刺さった。
 仕事に失敗したからと言って依頼人と対面するのは珍しい。
 普通は返金だけだ。だが、この人物は麻衣子を呼び出した。謝罪させるつもりだろうか。弁明の余地があるのは有り難い。
 クルリと彼は窓から麻衣子に向き直った。
 そして、ソファを勧めるジェスチャーをする。
 麻衣子は一礼してソファに座る。少しの身じろぎで右肩の負傷が痛むが今は応急の止血のみだ。あとで闇医者に診てもらわないと。
「単刀直入に言おう」
 彼の言葉に体が強張る麻衣子。彼の名前は知らない。名乗る必要や名前を聞く必要も無い。依頼人と殺し屋。その関係だけだ。
 同じくソファに座った彼はそう口を開いた。
「君をスカウトしたい」
「は?」
 この業界ではヘッドハンティングは珍しくない。
 麻衣子もいつかは何処かの強大な組織の庇護下に入りたいと願っていた。
 ……だが、実際に有力者の風格を具えた人物に、真正面から見据えてその言葉を放たれると頭が真っ白になる。
 思わず離人症を起こしたと錯覚した。
「仕事振りを見せてもらった」
「……あ、あの」
「あれだけの動きができるのなら即戦力だ」
「え、あ、はあ……」
「この時の為に寄生虫を野放しにして置いてよかったと思うよ」
「……はあ」
 全く話が読めない麻衣子。
「嶋久(しまひさ)さん。最初から話さないとダメだ」
 部屋の片隅の、誰も座っていないと思っていたホームバーのストゥールで『彼女は確かにそう言った』。
 『【トカレフの聡美】』が高級な水晶の灰皿にドライシガーを置いて、琥珀色が注がれたタンブラーを傾けていた。
 それを見て心底、腰を抜かしそうに眼を見開いたのは麻衣子だ。
「な! なんで!」
「最初から説明するわ」
 スーツの男の元に左手にドライシガー、右手にタンブラーを持ち、ゆっくり歩く【トカレフの聡美】。衣服は昨夜のまま。鳩尾辺りには鮮血が飛び散って更に吹き出た血液で真っ赤に染まったシャツ。元の色は何なのか分からない。
 脈も取った彼女が生きて歩いている。
 麻衣子はハンドバッグに忍ばせたノリンコT―NCT90を抜こうとバッグに手を差し込むが、直ぐに『自分が異常』だと察して、バッグから何も取らずに手を抜く。
 スーツの男も【トカレフの聡美】も、何も慌てず恐れずに悠然と麻衣子を見ていたからだ。
「少しは落ち着いた? 右肩の傷に障るから動かない方がいいわ。そう言う私も、『薬』から回復していないし2mから9mmの直撃を受けて肋骨と胸骨に皹が入っているんだけどね」
 【トカレフの聡美】はそう言うと口にドライシガーを銜えて空いた左手でシャツの前を大きく捲る。
「……え?」
 そこに貼り付けるように巻かれた血糊パックつきの防弾プレート。
 体にフィットするようにデザインされたそれは、小さな衝撃で破れる拵えらしい。
 それで距離を取るために、繰り出した足裏での真正面からのキックを警戒されたのか。
 更に彼女は抗ベータ薬――降圧剤――のシートを取り出してヒラヒラと振った。脈が極端に低下した理由はその薬だ。
「右肩もゴメンなさいね。『そうしないと、ちゃんとここに当たらなかったから』」
 彼女は悪戯っぽく笑いながら、防弾プレートで守られた鳩尾を差した。
「でも、私に発砲させないと私が死んでいた。私が死ぬとこの試験は全部お仕舞いよ」
「試験?」
 眉を顰める麻衣子に対して、【トカレフの聡美】は漸く全貌を語り出した。
 麻衣子に山荘へと現場荒らしの依頼を出したのはスーツの男こと嶋久。
 その目的は自分の手駒の戦力増強。手駒の中で最強の1人である【トカレフの聡美】は、前々から目をつけていた殺し屋で荒事師である麻衣子を何としてもスカウトしたかった。
 普通に報酬や年俸で契約するような人物ではないと見抜いていた【トカレフの聡美】は、嶋久の仕える組織内部の二重スパイを誘き出し、山荘で待機させる。
 いつか処刑する予定の『消しても惜しくない人間』を麻衣子に殺害させて、その腕前を再確認する予定だった。
 【トカレフの聡美】が現場で潜んで同じく待機していた。然し、二重スパイが寸鉄も帯びていない事を察した【トカレフの聡美】は何の参考にもならないと判断し、合計4人の裏切り者を即座に射殺。
 即興で、彼女が試験官として実際に麻衣子と一戦交え、麻衣子の力量を推し量ろうとした。
 そして、実際に銃撃や格闘、その際の判断力や体捌きなどの項目もチェック。
 麻衣子のパーソナルな障害や病歴、既往症もリサーチ済みで、山荘で麻衣子と【トカレフの聡美】が命の遣り取りをする直前に、麻衣子がどのような症状で苦しんでいたのかも病理学的に診断。
 そのハンディを背負った状態で【トカレフの聡美】に『撃たせなければ死んでいた』と判断させた。
 麻衣子が腕利きとして証明された。
 故に、嶋久なる人物が麻衣子を自分の戦力に加える条件は揃った。
 彼は技術を支える根底は精神だと信じている。その脆く儚く弱い精神を鞭打ち自分を打破すべく戦う麻衣子と云う人間を更に欲しがった。
 以前に書類を操作して【トカレフの聡美】と麻衣子だけで仕事を履行させた事が有る。そのときから【トカレフの聡美】も麻衣子に興味を持ち始めていた。
 嶋久からすれば、欲しい時に欲しい逸材が見つかった。そこで【トカレフの聡美】と云う試験官を派遣して実戦で試験を受けてもらった。その結果、合格。
 故に、麻衣子を直ぐに雇いたい。
 麻衣子が契約や年俸、報酬に絡む金額を見て危険度を推察し、依頼人に『依頼人と殺し屋』以上の関係に興味が無いのも知っていた。
 麻衣子は『金と契約』では絶対に飼いならせない人間だ。
「大きな計算違いしてませんか?」
 虚勢を張るのが見える、肩の張り方で麻衣子は口を開いた。
「そこまでご存知なら……私はこれでも心に病を持つ人間です。薬が無いと不安定です。今までこの業界で生きてこられたのが不思議です。そんな私に如何ほどの使い道がありますか? 鉄砲玉のご依頼なら斡旋を通してください」
 麻衣子は機嫌を害された顔を浮かべ、ソファから立ち上がろうとする。心の病の辛さを知りもしないで何を偉そうに、と。
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