セロトニンを1ショット

 腹の周りに巻いた予備弾倉は合計6本。
 長丁場は予想されないが、万が一に備えて持参。
 全ての予備弾倉にいつも弾薬を詰めていると弾倉内部の弾薬を押し上げるバネがヘタリ易いので、余り予備弾倉を持ち歩かない。
 予備弾倉にも金は掛かる。ハリウッド映画のように捨てられるような代物では無い。反社会的で非合法な商品は、国内では恐ろしく価格が高い。麻薬と違って素人だから、初回だからとタダで配ってくれない。
 今回は後々になるほど嫌な予感が募ったのだ。
 仕事自体は難しいとは思えないが、それに対して報酬が『絶妙に魅力的』。本物の好物件か否かが判断し難いので大量の予備弾倉を持参した。
 銃撃戦は映画と違い、大方の場合、残弾がゼロになる前にカタが付いている。
 その現場が終了するか、自分が死んでいるかのどちらかだ。
 山荘の付近に警護の影は見えない。薄暗くなりつつある付近。山荘内部から漏れる灯りで僅かに辺りのシルエットが浮かぶ。
 カーゴパンツにフラッシュライトを収納しているが、連中が自分から光源や発動機、発電機を落とさない限り視界はなんとか確保できる。
 息を呑みながら山荘に近付く。
 頭を低くして銃口を右下に向けてノリンコT―NCT90を両手で握る。
 山荘の出入り口は広い……というより、経年劣化と管理の不徹底で既に玄関の扉は取り払われている。
 標的は山荘の2階。灯りが主に2階に集中していたので、外見からの特定は簡単だった。
 依頼人が寄越した資料の断片から情報屋を使ってリサーチしたが、有料情報が多すぎて経費を節約。
 つまり、何人の警護を引き連れた現場なのか不明だ。
 取引の現実性自体は確認できた。架空の現場をでっちあげて殺し屋を専門に殺す殺し屋もいるらしいので、殺し屋と云うのは世間一般が抱くような一方的に殺害するだけの存在ではない。殺し屋もまた生きている。生活している。そこに存在するからにはライバルや天敵も存在する。
 山荘に侵入。正面から堂々と。
 裏手口も見たが棄てられた木材やドラム缶だらけで視界が確保し辛く、足元も悪いので安全策を講じて正面からのブレイクスルーを選んだ。
 山荘内部の地図はおぼろげに覚えている。
 壁に貼られていた非常口への案内を記した見取り図を見て出来の悪い脳味噌に有るデータを修正する。1階では人の気配は皆無。2階へ上がる階段から上へと大型のLEDランタンが吊り下げられている。足元の状況は安全だ。
 2階へと進む。
 階段や床が軋む。左右一尋位の広さが有る階段の幅。階段の左右の壁は埃とクモの巣が集っており、2階の人物たちがこの階段を使った事を知らせる跡が幾つも有る。
 埃塗れのぶら下がったクモの巣。階段に残された靴跡。人数は最低3人。
 昇りの足跡のみで降りは無い。新しい煙草の吸殻。ランタンの周りを舞う塵埃の具合から人の移動が確かにあった事を知る。
 2階に到着。
 左右をリップミラーを突き出して確認。ランタンや小型の白熱球で明るい。場所によっては光源が近すぎて眩しいくらいだ。
 廊下は長く使われていない建物特有の荒れようだった。歩くたびに砂利を踏み、埃が軽く舞う。
 湿度と相俟って空気が悪く、使い捨てマスクが欲しい。建物内部の空気が淀んでいる。肌が茹でられるような錯覚。自律神経の乱れにより肌感覚を調整するセンサーが乱れているので、大量の脂汗が出るのに涼しさは感じずに不快感だけが増す。
 喉に異物感。鳩尾に軽い痞え。甲高い耳鳴り。舌の根から奥にかけて異常に渇く。頭重か眩暈か分からない軽いふらつき。……体調の不調ならまだ我慢できると自分に言い聞かせる。
 心に作用する不調が纏めて襲い掛かるよりマシだ。
 突然の情緒不安定や焦燥感、不安感、恐怖感、予期不安などが大挙して押しかけると、発狂しそうなほどの解離発作や過呼吸を引き起こして『場の空気を読まずにものの数十秒で床に倒れて痙攣してしまう』。
 自律神経失調症自体は誰しもが生涯に一度は罹る病気だとされているが、心を患っていると、それが原因でパニック発作や解離発作やヒステリー発作を引き起こし易くなる。
 心に現れる自律神経失調症の症状が一番怖い。
 『そんなつまらない病気が原因で苦痛も興奮も感じずに無為に死体になるのが一番怖い』。
 自分が人の道を踏み外してまで生きている意味が無い。麻衣子も生きることや生きていくことに意味を求めたがる。
 それを最後まで足掻き続けた上での満足の行く最期を遂げられるのなら、カタギに背中から刺されても、玄人に1km向こうから頭部を狙撃されても構わない。
 ノリンコT―NCT90のグリップがぬるりと湿り出した。
 湿っているのは自分の掌だ。
 ノリンコT―NCT90が異様に重い。脈拍が速くなる。拍動は鼓膜の奥に鈍く響く。心臓が誤作動を起こしているのを感じる。自律神経が叛乱を起こしている。
 体の中で起きつつある何か。小さな何かが石鹸の泡が立つように爆発的に大きく膨らむ。
 呼吸が一層速くなる。喉が渇く。心臓が破裂しそうだ。視野と聴覚が狭窄をみせる。
――――ダメ!
――――帰りたい!
――――誰か! 助けて!
 予期不安が限界の寸前まで膨らむ。
 このままでは死ぬ。
 得体も正体も理由も分からないが、何故か死ぬことに対する恐怖だけが爆発的に膨らむ。
 この症状も発作の一つだ。
 典型的なパニック発作。パニック発作を起こす直前や起こしてピークにいる患者は殆どの場合、全く原因も理由もなく『死に対してだけ』常軌を逸した恐怖を抱く。
 その恐慌具合は癲癇発作と誤診されることも有るのだ。
 指先がガタガタと震える。奥歯で舌を噛む。眼球が上下左右に激しく揺れる。死ぬ。死ぬ、死ぬ。……死ぬ。死ぬ!
 麻衣子が縋るように、逃げるように、助けを求めるようにノリンコT―NCT90を発作的に顔面に向けたときだ。
 銃声。3発。
 遅れてもう1発。
 躊躇いの無い軽快な銃声。
 遣い手の愉悦の感情すら漂ってきそうだ。
 銃声が、耳に、届く。
 狭窄を起こして発作的にT―NCT90で自殺を図りかけた麻衣子の耳に銃声が聞こえた。
 しっかりはっきりと。
 遮蔽だらけの狭い空間でも分かる特徴のある、甲高い銃声。殺傷力が保障されたかのように頼もしい銃声。
「え……」
 麻衣子は瞬きをした途端に自分のノリンコT―NCT90が自分の顔面に押し付けられているのに気がつき、焼け火箸でも握っているようにノリンコT―NCT90を遠ざけた。
 放り出さなかったのが不思議だ。
 そんなことよりも、と、麻衣子はノリンコT―NCT90を構えたまま、無気力の精神と脱力の体から挽回していない足腰がふらつく状態で、視界がふらつく状態で銃声がした部屋へと足を向ける。
 呻き声や罵声や怒号も聞こえてこない。
 誰が撃った? 同士打ちか? 何が起きている?
 喉がカラカラに渇いている状態で呼吸器疾患に罹ったように喘ぎながら、標的が居ると思しき部屋ドアの前に来る。
 ドアは元から取り外されている。蝶番やドアノブが劣化してスムーズに動かなかったのだろう。
「来てよ……仕事を横取りして悪かったね」
 部屋の中からそんな声。
 女性の、落ち着いた声。
 謝罪の意思が見られない、どこか飄々とした声。
 何事も暖簾に腕押しで躱しそうな人間性を感じる。
「……」
 麻衣子は『セオリーを破るセオリー』で、動きが鈍い体を寝そべらせてドアの枠の、足元から右腕と右顔面だけを覗かせて室内を見た。
 極端に低い射撃位置。普通ならこれで先制できる。
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