セロトニンを1ショット
数日間、随分と自分を甘やかす生活で緊張を緩める。
緊張を持ち続けるだけでは人間の神経は長持ちしない。嘗てのデザイナー時代に学んだ教訓の一つだ。
※ ※ ※
梅雨明けが宣言されようとしている或る日。
麻衣子は昨日に復帰した。充電期間は終わりだ。
充分に休んだと実感する。
体のコンディションを確認する為に軽いジョギングや筋トレ、屋内プールの水泳で体力や鈍り具合を調べて今後、絞るべき部分と鍛えるべき部分を記憶する。
腹回りに幾らか肉が付いたようだが、食事制限と運動で挽回できる範囲だ。
ノリンコT―NCT90にも久し振りに触れる。
文字通り、地下道に設けられたシューティングレンジで射撃の腕も確認。
このシューティングレンジは下水道を勝手に占拠した中立の闇社会の人間が、何処の勢力の人間にも分け隔てなく、貸し出ししている。
銃声が恐ろしく轟くので、耳栓をした上でイヤーカフを装着せねばならない。
射場から土塁までバイトの青年が走って、25m先に吊り下げられたターゲットペーパーを持って走ってくる。
集弾にも大きなばらつきはない。それに麻衣子のノリンコT―NCT90は8m前後で10点圏に収まるように調整されている。元から狙撃する為の拳銃ではない。
自分の心身のメンテナンスが終了した。その満足感はいつ感じても大きなものだ。
その日の夜にノートパソコンを起動させて依頼のメールに眼を通していた。
殺し屋業界や荒事を生業にする世界も世知辛い物で、最近は『競り落とし』が主な仕事の選び方になっている。
斡旋業者が仕事を競りにかけて、一番値段が低い価格で競り落とした殺し屋や荒事師がその仕事を単独で遂行するのだ。
勿論、従来のスタイルも健在。兎に角早く仕事が欲しい初心者は『競り落とし』で安い仕事を買って手早く報酬と信用信頼実績を積む。報酬の何割かを斡旋業者に納める。
中堅以上の業界人間には嫌われている形式だ。殺し屋の格が低く扱われる原因になっているからだ。
最初は麻衣子も『競り落とし』で仕事を買っていたが、やがて通常のスタイルである、斡旋業者からの紹介で得た仕事を請け負うようになった。固定の客は今のところはまだ居ない。早く何処かの強力な組織の庇護下に入りたいとは願っている。
麻衣子の退屈そうな視界の端にポップアップするウインドウが現れた。
「……お」
――――やった! 指名の仕事!
魅力的な依頼内容。
麻衣子を指名。速やかなコロシを遂行して欲しいとのこと。
指名の仕事は高い相場で取引される。
勿論、実際の手取りも高い。
斡旋業者が仲介料を引いても実のいい金額だ。麻衣子も指名の場合の料金は高く設定している。
斡旋業者に仕事は無いかと泣きつくよりも気分が楽だ。斡旋業者に足元を見られる事が無い。『お前が依頼を受けなくとも代わりは幾らでも居る』という無言の圧力を感じずに済む。
二つ返事で依頼を受けた旨のメールを送信。
大きく伸びをした後に、顔が綻び、思わずマニラの葉巻に手が伸びる。
今から暫く返信メールの遣り取りが行われるのでノートパソコンの保護の為にもこのタイミングで葉巻は吸わない。鼻の下を葉巻で擽りながらマニラ巻きの独特の香りを愉しむ。
打ち捨てられたと云う形容がピッタリの山荘。
市の郊外の更に山側。山奥。その更に奥の山間部。
大型ロッジをイメージした山荘がひっそりと建っていた。
日の高いうちに山の峰から見下ろした。
山の中腹を開いて建てられていた山荘は既に死んでいた。廃屋同然なのだ。
この場で午後6時に行われる取引を荒らして欲しいと云う依頼だった。
鉄砲玉行為。
一山幾らの鉄砲玉に、態々麻衣子を指名して一人だけでカチコミをかけさせるとは随分と神経質な依頼人だ。カチコミの人数が多いことによる漏洩を恐れたのだろう。
料金が高い鉄砲玉だと報酬の3分の2を前払いにして、依頼遂行後に残りの3分の1を貰う。
先に貰う金額が大きい分、危険は大きい。そして依頼人からすれば『これを機会に都合のいい使い捨てとして選別してスカウトする機会が増える』。
殺し屋や荒事師の世界では顧客がヘッドハンティングを行う例は日常茶飯事だ。
一発逆転を狙って喜んで、鉄砲玉行為を専門にする若い業界人も多い。
山間部のそれは瀟洒な外観で、築年数は浅いが無人になって久しい。壁は剥がれ落ち、鉄線入りの強化ガラスは所々皹が入っており、ベランダやバルコニーの手摺や床は踏むと抜けそうなほどの朽ち具合。山荘の幾つかの部屋で発電機が作動して電灯が点っていた。
標的は無し。
この場で行われる取引を荒らせばよし。
商談の場を乱すだけの嫌がらせ。
このようなインターホンを押して走って逃げるような嫌がらせは古典的だが効果的。
商談の場の仕切り直しはスケジュールの都合で組みにくい場合が多い。
それに襲撃されれば、双方とも警戒して進むはずの商談を先送りにさせてしまう。
山荘に向かって降りる途中で何度も口を湿らせる程度にミネラルウォーターのペットボトルを呷る。
山荘に近付くごとに鳩尾の辺りに異物感を覚える。喉の奥にも違和感。吹き出る汗が異様に冷たい。だのに体が冷却されているような効率の好い涼しさは感じない。
自律神経が乱れつつある。
準夜帯から始まる体調不良。
健常な人間でも夕方になると突然、頭痛や肩凝りや眼精疲労を覚えるのも同じ理屈だ。
ストレスに長時間晒されると副交感神経と交感神経の入れ替えがスムーズに行われずに、日内変動で自律神経失調症を引き起こすのだ。
日中は体を活性化させるために交感神経が働き、夕方以降の生理機能的に『休息の時間』になると副交感神経が働く。
この交代が上手くいかない場合によく起きる、原因の無い不調だ。
麻衣子のように精神に作用する薬を飲むほど心を病んでいる患者は殆どの場合、自律神経失調症を患っており、毎日常に何かしらの不調に心身を左右される。
3分前までなんとも無くとも、今突然、酷い不調に襲われて指先一つ動かせずに臥せったままと云う場合も多い。
そんな心も体も健康でない麻衣子が、殺し屋や荒事師として裏の世界で生きて商売を成立させているのは殆ど奇跡なのだ。
不条理にも、この業界では死にたいと願う人間の方が長生きし、死にたくないと命を惜しむ人間がいつの間にか死んでいる。……そんなジンクスも彼女はまだ知らない。
満足な死に方で死ぬまで死ねない。
死んでしまうその時が来るまで全身全霊で精一杯生きる。
悔いの無いように今日を味わい尽くす。
それこそ、処刑直前に喉が渇いても差し出された柿は体が冷えるから断ると云う歴史上の某と同じ心構えだ。どうせ死ぬからどうなってもいいと云う思考では最初から拳銃稼業を生業にしない。
生きる。死ぬ為に生きる。それが彼女だ。
山荘まで15m。
衣服はいつもの黒いパーカーに黒いカーゴパンツ。靴は山道を歩き易いように焦げ茶色のトレッキングシューズを履いていた。背負っていた大型のボディバッグを降ろして潅木の陰に隠す。
最後にもう一度、水を呷る。
山の天気は変わり易い。
そして時間による日照の移り変わりも早い。
梅雨時の夕方6時では辺りの鬱蒼とした茂みが際立つほど暗くなる。ノリンコT―NCT90を抜き、セフティをカットしてスライドを引く。腹のベルトに予備弾倉を1本、差し込んでおく。
緊張を持ち続けるだけでは人間の神経は長持ちしない。嘗てのデザイナー時代に学んだ教訓の一つだ。
※ ※ ※
梅雨明けが宣言されようとしている或る日。
麻衣子は昨日に復帰した。充電期間は終わりだ。
充分に休んだと実感する。
体のコンディションを確認する為に軽いジョギングや筋トレ、屋内プールの水泳で体力や鈍り具合を調べて今後、絞るべき部分と鍛えるべき部分を記憶する。
腹回りに幾らか肉が付いたようだが、食事制限と運動で挽回できる範囲だ。
ノリンコT―NCT90にも久し振りに触れる。
文字通り、地下道に設けられたシューティングレンジで射撃の腕も確認。
このシューティングレンジは下水道を勝手に占拠した中立の闇社会の人間が、何処の勢力の人間にも分け隔てなく、貸し出ししている。
銃声が恐ろしく轟くので、耳栓をした上でイヤーカフを装着せねばならない。
射場から土塁までバイトの青年が走って、25m先に吊り下げられたターゲットペーパーを持って走ってくる。
集弾にも大きなばらつきはない。それに麻衣子のノリンコT―NCT90は8m前後で10点圏に収まるように調整されている。元から狙撃する為の拳銃ではない。
自分の心身のメンテナンスが終了した。その満足感はいつ感じても大きなものだ。
その日の夜にノートパソコンを起動させて依頼のメールに眼を通していた。
殺し屋業界や荒事を生業にする世界も世知辛い物で、最近は『競り落とし』が主な仕事の選び方になっている。
斡旋業者が仕事を競りにかけて、一番値段が低い価格で競り落とした殺し屋や荒事師がその仕事を単独で遂行するのだ。
勿論、従来のスタイルも健在。兎に角早く仕事が欲しい初心者は『競り落とし』で安い仕事を買って手早く報酬と信用信頼実績を積む。報酬の何割かを斡旋業者に納める。
中堅以上の業界人間には嫌われている形式だ。殺し屋の格が低く扱われる原因になっているからだ。
最初は麻衣子も『競り落とし』で仕事を買っていたが、やがて通常のスタイルである、斡旋業者からの紹介で得た仕事を請け負うようになった。固定の客は今のところはまだ居ない。早く何処かの強力な組織の庇護下に入りたいとは願っている。
麻衣子の退屈そうな視界の端にポップアップするウインドウが現れた。
「……お」
――――やった! 指名の仕事!
魅力的な依頼内容。
麻衣子を指名。速やかなコロシを遂行して欲しいとのこと。
指名の仕事は高い相場で取引される。
勿論、実際の手取りも高い。
斡旋業者が仲介料を引いても実のいい金額だ。麻衣子も指名の場合の料金は高く設定している。
斡旋業者に仕事は無いかと泣きつくよりも気分が楽だ。斡旋業者に足元を見られる事が無い。『お前が依頼を受けなくとも代わりは幾らでも居る』という無言の圧力を感じずに済む。
二つ返事で依頼を受けた旨のメールを送信。
大きく伸びをした後に、顔が綻び、思わずマニラの葉巻に手が伸びる。
今から暫く返信メールの遣り取りが行われるのでノートパソコンの保護の為にもこのタイミングで葉巻は吸わない。鼻の下を葉巻で擽りながらマニラ巻きの独特の香りを愉しむ。
打ち捨てられたと云う形容がピッタリの山荘。
市の郊外の更に山側。山奥。その更に奥の山間部。
大型ロッジをイメージした山荘がひっそりと建っていた。
日の高いうちに山の峰から見下ろした。
山の中腹を開いて建てられていた山荘は既に死んでいた。廃屋同然なのだ。
この場で午後6時に行われる取引を荒らして欲しいと云う依頼だった。
鉄砲玉行為。
一山幾らの鉄砲玉に、態々麻衣子を指名して一人だけでカチコミをかけさせるとは随分と神経質な依頼人だ。カチコミの人数が多いことによる漏洩を恐れたのだろう。
料金が高い鉄砲玉だと報酬の3分の2を前払いにして、依頼遂行後に残りの3分の1を貰う。
先に貰う金額が大きい分、危険は大きい。そして依頼人からすれば『これを機会に都合のいい使い捨てとして選別してスカウトする機会が増える』。
殺し屋や荒事師の世界では顧客がヘッドハンティングを行う例は日常茶飯事だ。
一発逆転を狙って喜んで、鉄砲玉行為を専門にする若い業界人も多い。
山間部のそれは瀟洒な外観で、築年数は浅いが無人になって久しい。壁は剥がれ落ち、鉄線入りの強化ガラスは所々皹が入っており、ベランダやバルコニーの手摺や床は踏むと抜けそうなほどの朽ち具合。山荘の幾つかの部屋で発電機が作動して電灯が点っていた。
標的は無し。
この場で行われる取引を荒らせばよし。
商談の場を乱すだけの嫌がらせ。
このようなインターホンを押して走って逃げるような嫌がらせは古典的だが効果的。
商談の場の仕切り直しはスケジュールの都合で組みにくい場合が多い。
それに襲撃されれば、双方とも警戒して進むはずの商談を先送りにさせてしまう。
山荘に向かって降りる途中で何度も口を湿らせる程度にミネラルウォーターのペットボトルを呷る。
山荘に近付くごとに鳩尾の辺りに異物感を覚える。喉の奥にも違和感。吹き出る汗が異様に冷たい。だのに体が冷却されているような効率の好い涼しさは感じない。
自律神経が乱れつつある。
準夜帯から始まる体調不良。
健常な人間でも夕方になると突然、頭痛や肩凝りや眼精疲労を覚えるのも同じ理屈だ。
ストレスに長時間晒されると副交感神経と交感神経の入れ替えがスムーズに行われずに、日内変動で自律神経失調症を引き起こすのだ。
日中は体を活性化させるために交感神経が働き、夕方以降の生理機能的に『休息の時間』になると副交感神経が働く。
この交代が上手くいかない場合によく起きる、原因の無い不調だ。
麻衣子のように精神に作用する薬を飲むほど心を病んでいる患者は殆どの場合、自律神経失調症を患っており、毎日常に何かしらの不調に心身を左右される。
3分前までなんとも無くとも、今突然、酷い不調に襲われて指先一つ動かせずに臥せったままと云う場合も多い。
そんな心も体も健康でない麻衣子が、殺し屋や荒事師として裏の世界で生きて商売を成立させているのは殆ど奇跡なのだ。
不条理にも、この業界では死にたいと願う人間の方が長生きし、死にたくないと命を惜しむ人間がいつの間にか死んでいる。……そんなジンクスも彼女はまだ知らない。
満足な死に方で死ぬまで死ねない。
死んでしまうその時が来るまで全身全霊で精一杯生きる。
悔いの無いように今日を味わい尽くす。
それこそ、処刑直前に喉が渇いても差し出された柿は体が冷えるから断ると云う歴史上の某と同じ心構えだ。どうせ死ぬからどうなってもいいと云う思考では最初から拳銃稼業を生業にしない。
生きる。死ぬ為に生きる。それが彼女だ。
山荘まで15m。
衣服はいつもの黒いパーカーに黒いカーゴパンツ。靴は山道を歩き易いように焦げ茶色のトレッキングシューズを履いていた。背負っていた大型のボディバッグを降ろして潅木の陰に隠す。
最後にもう一度、水を呷る。
山の天気は変わり易い。
そして時間による日照の移り変わりも早い。
梅雨時の夕方6時では辺りの鬱蒼とした茂みが際立つほど暗くなる。ノリンコT―NCT90を抜き、セフティをカットしてスライドを引く。腹のベルトに予備弾倉を1本、差し込んでおく。