セロトニンを1ショット

「こ、降参……降参だ!」
 30代半ばと思われる厳つい顔で五分刈りの、いかにもなヤクザ面の男は両手を挙げたままその場に立つ。
 麻衣子はノリンコT―NCT90の銃口を2mの距離から男の心臓に向けて暫し睨む。
 無意味に殺すことも無いだろうと心の中では思っているが、『この場で生きている以上、脅威には違いない』。
「そのまま……ゆっくり出て行きなさい」
 麻衣子は厳しい声で男に言い放つ。声に感情は込めない。
 男の風体……黄土色をした麻のジャケットにスラックスでごく軽装。両手を挙げさせているので両脇に何もぶら下がっていないのを確認した。腰周りの予備弾薬のポーチが確認できたが、それを必要とする自動拳銃自体が確認できないので戦力と看做さなかった。
「撃つなよ……撃つなよ……」
 男は擦れ違うように麻衣子の眼を見ながら、大粒の汗を流しながらゆっくりとこの部屋の出入り口に向かって移動する。
「うう……」
 麻衣子の足元で1人の男が強い呻き声と共に体を仰向けにする為に転がった。
 思わず視線を足元に奪われてしまう。
「!」
 チキッと鋭く小さい音が走り、麻衣子は反射的に麻のジャケットの男に銃口を向けた。
 男は左手に隠してあったオートナイフを取り出し、構えて振り下ろしていた。
 手品のように現れたオートナイフに咄嗟に反撃できず、防御的な動作に出る。
 小さく軽くバックステップ。その間合いを詰めるナイフを握る男。男は素早く、小さな挙動でナイフを左から右へと振る。
「!」
 麻衣子のパーカーのフードから垂れ下がっている紐がスパッと切れて床に落ちる。
 男の作戦なのか気変わりなのか。
 ここで反撃の意志を突然見せた理由は『何と無く想像できる』。
 男はナイフを振るい、麻衣子との距離を詰めながらも僅かな隙を縫ってこの部屋から出ようとしなかった。
 答えは男の背後に有った。
 麻薬が詰まったボストンバッグだ。ここに荷物はそれしかない。
 広いだけの空間の隅にぽつんと置かれたバッグ。
 これを独り占めしたい欲が出たのだと想像できる。
 幸い、元の持ち主は床で虫の息だ。追撃者さえ排除すれば後はボストンバッグを持って遁走を計ればいい。首魁の男は床で倒れている。目の前の殺し屋だけが障害だ。
 ナイフの男の目が欲に駆られて、ギンギンと血走っている。
 麻衣子は距離を詰める男の爪先を咄嗟に踏みつけ、男の移動範囲を限定する。
 ナイフの男は反射的に体を左手側に大きく捻る。
 その肩から腰など背骨を伝うように大きく発生した上半身捻りは、股関節や太腿を伝い、爪先まで到達すると暴れる蛇のように右膝下が跳ねて麻衣子の踏みつける足裏から力強く脱出する。
 男は足首を脱出させるのと同時にナイフを突き出し、麻衣子を襲う。麻衣子は咄嗟にノリンコT―NCT90を翳してスライド部分で弾く。
 途端。
 目の前で爆発が起きた。
 ノリンコT―NCT90が暴発したのだ。
 眼前でノリンコT―NCT90を翳していた麻衣子は、完全に視界を一瞬だけ消失した。
 銃火が目玉に飛び込んだわけではないが、吹き出る硝煙やガスの一部で顔を舐められた。
 強く眼を閉じる。
 強く眼を閉じながら、脊髄反射でノリンコT―NCT90を右手側の脇に引いて、腰の辺りで残弾を全て吐き出す乱射を行う。
 目を閉じている間にナイフの男に追撃を許さないためだ。
 激しい反動が右手首に襲い掛かる。無理な体勢からの乱射。慣れた9mmの反動でも普段の倍くらいに感じる。
「……」
 空薬莢が転がる音が耳栓越しに小さく聞こえる。
 生きている。痛くない。
 それとも今頃になってアドレナリンが正常に作動し、新陳代謝を遮断したか。
 見たくない、怖い物を窺うように硬く閉じていた右目をゆっくりと開く。
「あ……」
 思わず声が出る。
 ナイフの男が大の字になって床に倒れている。
 胸や腹部に合計4発も被弾している。バイタルゾーンからずれているが、脇腹や鎖骨付近に合計4発も命中すれば充分な深手だった。
 男はナイフを放り出し、仰向けになったまま酸素を貪るように口を金魚のように動かしている。
 麻衣子はスライドが後退したままのノリンコT―NCT90の弾倉を差し換えて、急ぎ足で標的のヤクザの元に向かい、携帯電話を取り出してそのカメラで負傷の状態を撮影。
 その後に頭部を9mmパラベラムで丁寧に破壊し、更に証拠写真として撮影。
 まだしょぼしょぼする左目から大量の涙を流しながら、充血する右目でボストンバッグを回収し、現場を後にする。すぐに室内に戻り、警護役だった素性の知れない2人の男にも止めを刺して今度こそ、廃船を後にする。
 名誉の負傷と云う言葉には憧れるが、首から上の器官に障害が残る負傷だけは勘弁願いたいと思いながら、撤収ルートに就く。



 後日談。眼の負傷は闇医者から貰った抗生物質の目薬で完治した。
   ※ ※ ※
 白飯。3合も炊く。
 黒胡椒で味付けした厚さ3cm、全長35cm、幅15cmのベーコンステーキを洗面器のようなボウル一杯のレタスとオニオンのサラダで胃袋に黙々と送り込む。
 味わうと云う概念は捨てた。
 カロリーの暴力を一心に受けているだけだ。
 自宅のキッチンで焼くだけの調理。ベーコンステーキに細かいレシピは無い。焼き加減も自分好みでいい。フリスビーを裏返したのような大きな木製の皿に乗る、そのベーコンステーキをたっぷり1時間かけて完全に胃袋に送り込む。
 3合の米は全くの見当違いで1合も食べられなかった。
 サラダは何とか食べきる。口の中の脂を削ぎ落として加工肉のステーキを食べるには新鮮な生野菜がどうしても必要だ。
 一度で良いからやってみたかったベーコンステーキ。食べられなくて少し残すくらいが丁度いいと思っていたが、残したのは白飯だった。
 兎に角、食べたかった。
 自律神経の不調からくる情緒不安定が結果的に食欲に向いただけで過食症ではないと信じたい。
 ここ数日は仕事が無く、蓄えを僅かに切り崩しながら生活していた。この業界が干上がったわけではなかったので焦ってはいない。
 考え方を変えれば、これだけ情緒不安定な時期に依頼が舞い込んでも、まともに遂行できる自信が無かった。
 満足に戦って満足に死にたい……それが信条の彼女にとっては不調の上に不調が重なった、自我の意識も揺れる時期にプロ意識だけで鉄火場やコロシに臨んで死亡しても、何の満足感も得られないと思った。
 死んでも殺しても、満足感は得られないと思った。
 だからこそ、本能に従って気楽に脱力して生活をしていた。
 生活のリズムはできるだけ維持し、愉しいと思うことだけを優先に僅かな時間の休憩、或いはモラトリアムを謳歌していた。
 充電期間と言い換えてもいい。
 このように自発的に休業して英気を養う場合は状況が許す限り、期限や期間を設けないことがコツだ。
 必ずいつまでに回復して復帰すると意気込んでいると、余計な緊張を帯びてしまい効果的に脱力できない。
 何もせずに大の字に寝転がって腹式呼吸で自律訓練法を行っている方がストレッチやヨガよりも効果的な場合がある。
 今が正にその自由な充電期間だった。仕事の依頼は確認するが『依頼の競り落とし式』ばかりで具体的に麻衣子を指名した仕事は皆無だ。
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