セロトニンを1ショット

 珍しくもなんとも無い平凡な仕事。
 平凡だと思い込むのも自惚れだと直ぐに改める。
 廃船に乗り込むなり、銃弾の洗礼を受けたのだ。
 激しい銃撃。
 2挺……否、3挺。
 激しいのは2挺。
 『おとなしい』のが1挺。
 『おとなしい』のが標的だろう。
 残りの2挺は伝かコネを動員してなんとか自分を警護するだけの三下を抱え込んだらしい。
 『護り屋』の動きとは思えないほどに素人だからだ。互いを連携する動作が全く見えない。
 麻衣子がそんな素人を相手に梃子摺っている理由は、ここが狭い空間だからだ。
 遮蔽が豊富なのは此方も向こうも同じ。
 跳弾や砕けた弾頭の破片が小ざかしい。それは相手も同じだろうが、相手は3挺でこちらは1挺。狭い船内。見取り図は手に入らなかった。船体が旧すぎる上に元は外国船籍で充分な資料を揃える時間が無かった。同型の見取り図でも手に入れば幸いだと軽く見ていた自分の甘さを今更ながらに悔いる。
 船に乗り込み既に3分が経過した事を腕時計が報せてくれる。
 薄暗いが、連中が勝手に持ち込んだ発電機のお陰で廊下を照らす程度の光源は確保されている。
 各所にあるドアの向こうに飛び込む勇気は無い。
 恐らく暗闇しか待ち構えていない。人間の心理として、自分の動線しか光源を確保したがらないだろうから、天井にやっつけで取り付けられた小型白熱灯の下を辿っていれば、足元の安全は今のところ気にする必要は無い。
 船内は空気が淀んで不快指数が屋外とは比べ物にならないほどに高い。
 じっとして呼吸をしているだけで、鉄錆風味の細菌が肺に入り込んで全身を侵蝕するかのような錯覚がする。
 加えて、黴臭い。
 人間の生活臭も混じる。男と思しき連中の体臭もまとめて吸っているからだろう。
 そこへ硝煙。開放された窓が皆無に近いので空気は停滞して、まるで気体になった微温湯の中を歩いているようだ。
 連中と戦う前に、筆舌しがたい不快感を極限まで我慢しなければならなかった。
 腋の下や首筋や臍の辺りで脂のような汗が吹き出て、制汗剤を全身に塗りたくってしまいたい。
 アドレナリンが都合よく沸騰しないのも困ったものだ。理由は簡単で、気圧の変動で自律神経が乱れている上に不快極まりない空間で体温調整がスムーズに進まず、交感神経と副交感神経が正常に作動していないからだ。
 肩や肘を壁にぶつけるとダイレクトに痛みが伝わる。
 アドレナリンなどの脳内物質が大量に吹き出ていると新陳代謝が低下するので、痛みを伝達する物質が一時的に遮断されていつもの自殺願望を含んだスリル中毒に陥るのに、それが全く自覚できない。
 耳栓を押し込んでいるお陰で発砲音はかなり遮断できたが、その分、気配を察知し難い。
 目前6mの位置に3人が固まって食堂と思しき、ある程度の空間が有る部屋で篭城しているのは分かる。然し、細かな足の運びや呼吸も肌で感じたり視覚で推し量ったりと云う感覚が低下している。
 耳栓を嵌めただけで、五覚が封じられたような不自由に苦しむ。
 前方6mの距離に押し込むのに手間は掛からなかったが、悪い予感しかしない。
 追われる標的が、自分から進んで奥まった場所へと閉じ篭る場合は増援が来ることを想定している場合が殆どだからだ。
 標的のヤクザは所属していた組織からも身売りするはずだった外国マフィアからも庇護を受ける事が出来ずに、この息苦しいだけの廃船で潜んでいたのに、更に追撃者である麻衣子が来るとどんどん後退し食堂へと向かった。
 麻衣子は廊下の途中で壁に張られた非常時に備えた船内見取り図を見つけ、潮風に晒されて印刷が褪せていたそれを何とか読み取った。それを元にこの層の見取り図を大慌てで脳味噌に叩き込んだ。
 確かにこの先の部屋は食堂だ。迷路のような構造ではない。人間の動線を最優先で拵えているからだ。
 銃声の僅かな差異から回転式2挺と自動式が1挺だと分かる。口径はバラバラ。長丁場になれば連中の方が不利なのに、進んで逃げ場所の無い奥へと進んだのはやはり、何かしらの増援の当てが見つかったからだろう。
 長居は出来ない。早く片付けて麻薬が詰まったボストンバッグを回収して撤収しなければ。
 ノリンコT―NCT90を抜いたまま、今まで1発も撃っていない。牽制を撃つまでも無く標的は2人に押されるようにして奥へと進んだ。
 ……そして現在に至る。膠着状態だ。
 連中はトリガーハッピーよろしく発砲する。
 実際にトリガーハッピーに飲み込まれているのかもしれない。
 発砲のリズムの乱調から混乱が伝わる。徒に時間だけが過ぎる。はたまた時間が過ぎるように足止めをしているのか。
「……」
 麻衣子は遮蔽の角からノリンコT―NCT90を突き出し、天井に向けて次々と発砲する。
 狙うは足元を照らす白熱灯だ。
 屋台の射的のように動かない的を狙うのは簡単だ。次々と白熱灯が爆ぜて暗い通路が伸びる。
 連中は更に恐慌に陥る。無駄な銃弾ばかりばらまく。
 致命傷に繋がる銃撃は皆無。
 麻衣子はパラパラと砕けた弾頭が衣服や顔に降りかかり、思わず身を縮める。
 連中からすれば、暗闇に向かって発砲している感覚だろう。
 麻衣子はノリンコT―NCT90を右手に携えたまま、そろそろと右片膝を衝いて遮蔽の陰から銃口を突き出し、左顔面と左体半分を遮蔽に潜ませたままじっくり狙って一番『喧しい』銃火に向かって発砲した。
 湿った肉塊に鋭い何かが突き刺さるような音。確かに仕留めた感触。一拍遅れて激しかった銃火の一つが沈黙した。
 それを先途に、今度は麻衣子が片膝を衝いていた床辺りに銃弾が集中し始める。
 靴の爪先に38口径と思しき銃弾が命中し、ラバーソールの先端が吹き飛ばされる。
 爪先から脳天に向かって素早く鈍い衝撃が走る。
 足首を挫きそうな衝撃。麻衣子は歯を食い縛って立ち上がると、今度は背中を遮蔽にしている曲がり角から右上半身と右顔面を晒して被弾率を下げながら発砲。
 ノリンコT―NCT90は冷静に空薬莢を弾き出した。
 途端に銃声が止む。
「…………」
――――やった……かな?
 ノリンコT―NCT90の銃火の向こうで、確かに誰かが倒れた。命中した湿っぽい音を指先が聴いた。
「待て!」
 食堂の灯りを背景にした、連中のシルエットの一つが降参の意思を見せた。
 拳銃を床に置いて麻衣子の方へ蹴り飛ばしたのだ。
 どうやら麻衣子のノリンコT―NCT90は標的のヤクザを仕留めたらしい。
 食堂の明るい光源だと、連中の挙動と数を数えるのに便利なシルエットが浮かび上がるが、顔や人相が分からないので誰に命中したのか判然としない。
 経過はどうであれ、連中の生き残りは降参した。これ以上『無駄な銃弾を消費する必要は無い』。必要経費で落ちる分量以上の弾薬を消費すればこの件を達成しても赤字になる。
 麻衣子はノリンコT―NCT90をウィーバースタンスで構えて、慎重に6mの通路を歩く。
 視線と銃口を合わせる。
 目の前では両手を挙げる男のシルエットの真正面が見える。背格好からすれば標的のヤクザだ。
 逆光で顔が分からない。
 麻衣子が更に近付くと、男は怖気づいたのか二歩三歩と後退。
「……!」
 この男は標的の男じゃない! 食堂の灯りの元に照らされた男は背格好が似ているだけの別人だ。
 チラリと視線を走らせて床を見る。2人の男が腹を押さえて呻いている。1人は知らない男。もう1人は標的の男。
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