セロトニンを1ショット
「さっきの軽トラの中じゃ、一本勧め損なったから、それあげるよ」
小さな、悪戯っぽい微笑を頬に浮かべた彼女はそう言うと階下へと降りていく。
唇に差し込まれたドライシガーを一瞬、呆けた顔で一口吸ってしまう麻衣子。口中にコニャックの香りが爆発するように広がり、直ぐに目が覚める。
酔っ払いそうなコニャックの着香で彼女のように悠然と煙を転がす事が出来ずに吐き出そうとするが、ここで明らかなDNAを残すわけにもいかずに、銜えたまま、【トカレフの聡美】の後を追う。
途中一度だけ、振り返って4階フロアを眺める。
「…………」
吐き気を齎す惨状は変わらない。
15分にも満たない短時間で……こんなに狭い空間にこれだけの死体を敷き詰めるように雑に製造した手腕は本物だった。
どの死体も頚部から上に1発だけ、銃弾を叩き込まれて即死に近い最期を遂げている。
まだ僅かに心臓が動いている『負傷者』の、風穴が開いた舌骨付近からは拍動にあわせて鮮血が弱弱しく溢れている。
同じ殺し屋の所業とは思えない。
軽い吐き気を催したが、銜えっぱなしだったドライシガーの個性的なフレーバーがなんとか正気を回復させた。
麻衣子も逃げ出すように彼女のあとに続く。勝ったはずの、依頼を無事に遂行したはずの現場なのに、敗残兵のような後味の悪さを味わう。
現場で銃弾をばら撒き、15分が経過した頃には2人とも撤収ルートからピックアップされて、無事に逃走ルートへと就いていた。
※ ※ ※
先日の一件……【トカレフの聡美】と組んで鉄砲玉としてカチコミを仕掛けた日より、暇を見ては彼女の素性を調べていた。
あれだけの遣い手が在野で埋もれているだけなのはどう考えてもおかしい。今までに様々なタイプの腕利きを見てきたが、髪の毛一本のレベルで絶妙加減な暴力を提供する殺し屋は見た事が無かった。
同業者で、連帯や連携の有る後ろ暗い人間に【トカレフの聡美】について質問すると皆が皆、意外そうな顔をしていた。
「【トカレフの聡美】が帰ってきたのか」
「まだ殺し屋をしていたのか」
「何処かの組織の犬になったんじゃなかったのか?」
「相変わらず残酷な仕事振りじゃなかったか?」
などだ。
業界では嘗ての伝説を作った人間らしいが、それ以上深く詳しいことは分からなかった。
同業者どころか、闇社会の人間に浅く広く聴いても同じ反応だった。懇意にしてもらっている斡旋業の手配師にこう言われた。
「情報屋を使ってまで詮索はするな。『お前がヤバイところに居る』」
そうアドバイスされてからは更に彼女へのかかわりを断つように自分に言い聞かせた。
触れてはいけない物は何処の世界の、何処の界隈にも存在するのだと肝が冷えた。それがまるでダイナマイトと添い寝をしていたと後になって気がついた感覚に似ており、一歩間違えれば死んでいた恐怖に震えた。
自殺願望は有るが、望む自殺ではなく、突然訪れる意識していない死亡には興味も憧れも無い。
そのような積極的な自殺願望の持ち主である麻衣子は、界隈では災害扱いされているような腕利きに邪魔だからと無為に殺されなかった幸運に感謝した。
災害扱い……【トカレフの聡美】が絡む、データで確認できる数少ない案件は、どれもこれも一方的な殺戮を撒き散らして塵芥ほどの姿形も残さずに消え去る現場ばかりで、彼女への依頼どころか、彼女を雇う窓口を探すだけで殺人が起きるとされるほどだった。
その彼女がなぜ殺し屋業界の辺鄙な案件にふらりとやってきたのかは全くの不明だった。
彼女は強大な組織の庇護の下、自分の活動の記録を隠蔽する工作に余念が無いらしい。
だとすればその意図も真意も全く不明で、一山幾らの鉄砲玉の案件で何故態々、出張ってきたのかますます分からない。
麻衣子の心の中では、そんな大物とはもう二度と出会うことは無いだろうと勝手に諦観した。
シガーアシュトレイに置いたマニラ巻きの白い灰が静かに折れた。ノートパソコンを閉じて1時間は中空を気だるい眼で見つめながら【トカレフの聡美】に心を砕いたことになる。
詮索はよくない。無駄に寿命を縮める。
そうは分かっていても何故か彼女に心が惹かれる。
ちらりとデスクの端に視線を向ける。1000円均一で買った小さな四角いガラスの灰皿に、あの夜唇に差し込まれたドライシガーの吸い差しが置かれている。
その吸い差しの為に態々灰皿を買った。
気がつけば、暇が有れば、片手間に、彼女がいつも心の隅に居た。
これがカリスマ性というものなのだろう。
麻衣子は毎回、そうして曖昧な問答にけりをつける。
だのに彼女の為に脳内のタスクの片隅が割かれてしまう。……彼女はそれだけ不思議な女性だった。
一番寛げる部屋で、一番暇な時間の午前11時。
マニラ巻きの煙と戯れながら思索を廻らせる意味の無い時間は疲労気味の脳内をメンテナンスする重要な時間だった。麻衣子にとっての瞑想とも言えた。
※ ※ ※
梅雨明けも近いと云う予報が聞こえ始めた。
早くからっとした夏を迎えてこの湿度とは決別したい。尤も最近の夏は殺人的な暑さが続き、今年も日本の何処かで観測史上最高の気温を弾き出すだろう。
夏になればなったで、拳銃を懐に呑む稼業の人間としては悩ましい季節だ。脇や腰に差した拳銃が露出し易いので上着を羽織るのだが、生地が薄い上に風でめくれ易く、暑いので熱中症対策も欠かせない。
知り合いの拳銃遣いは早々に諦めて、バッグやウエストポーチでの携行を今年も行うらしい。
バッグ類だと咄嗟の抜き撃ちが出来ないので、麻衣子としては今年も暑さを堪えて薄い生地のパーカーを羽織り、ファスナーを半分ほど締める予定だ。
暑い季節は上着がワンパターンになるので、路行く人に意外と印象に残る機会が多いのも悩みどころ。
今夜は幸い涼しい。
雨が上がったばかりで足元は水溜りばかりで靴に水が滲みて顔を顰める。
ジトジトとした湿度は相変わらず。僅かに吹く風が冷たい。体感温度が誤差を感じる。
仕事用の黒尽くめ。パーカーにカーゴパンツ。いつもの衣装。薄利多売で何処の店のワゴンセールでも見かけそうなデザイン。特徴が無い。ワンポイントのデザインすら無い。
深夜2時。
市内港湾部に廃棄されて岸壁で浮いているだけの砂利運搬船。電気系統は勝手に持ち込んだ発電機で何とか稼動しているらしい。
船内での銃撃戦が充分に予想される。多少の不自由は覚悟して、予め耳栓で鼓膜を保護する。狭苦しく開放される窓が無い船内では発砲音で鼓膜が破れる事が有る。鼓膜が破れなくとも聴覚に障害が残る可能性も高い。今回は割りと本気でサプレッサーを用意しようかと考えたくらいだ。
深夜2時。
左手首のダイバーウォッチが正しければ、早く睡眠導入剤を飲んで就寝したい時間帯だ。
天候は曇り。月も星も見えない。海上の風が強くとも雲を晴らすほど強力ではなかった。潮と錆の匂いが鼻の奥をつく。
標的と目標は、ボストンバッグ一杯分のコカインを抱いて逃走中のヤクザ。
組織を裏切り外国のマフィアに身売りする為に『倉庫』の麻薬に手を出したまではいいが、頼りにしていた外国マフィアに僅かな差で警察の手入れが入り、1人のヤクザに構っていられなくなった。
そして逃走。その逃走先を突き止めたが、ヤクザの上層部としては形跡を残したくないのでコロシを外注した。
小さな、悪戯っぽい微笑を頬に浮かべた彼女はそう言うと階下へと降りていく。
唇に差し込まれたドライシガーを一瞬、呆けた顔で一口吸ってしまう麻衣子。口中にコニャックの香りが爆発するように広がり、直ぐに目が覚める。
酔っ払いそうなコニャックの着香で彼女のように悠然と煙を転がす事が出来ずに吐き出そうとするが、ここで明らかなDNAを残すわけにもいかずに、銜えたまま、【トカレフの聡美】の後を追う。
途中一度だけ、振り返って4階フロアを眺める。
「…………」
吐き気を齎す惨状は変わらない。
15分にも満たない短時間で……こんなに狭い空間にこれだけの死体を敷き詰めるように雑に製造した手腕は本物だった。
どの死体も頚部から上に1発だけ、銃弾を叩き込まれて即死に近い最期を遂げている。
まだ僅かに心臓が動いている『負傷者』の、風穴が開いた舌骨付近からは拍動にあわせて鮮血が弱弱しく溢れている。
同じ殺し屋の所業とは思えない。
軽い吐き気を催したが、銜えっぱなしだったドライシガーの個性的なフレーバーがなんとか正気を回復させた。
麻衣子も逃げ出すように彼女のあとに続く。勝ったはずの、依頼を無事に遂行したはずの現場なのに、敗残兵のような後味の悪さを味わう。
現場で銃弾をばら撒き、15分が経過した頃には2人とも撤収ルートからピックアップされて、無事に逃走ルートへと就いていた。
※ ※ ※
先日の一件……【トカレフの聡美】と組んで鉄砲玉としてカチコミを仕掛けた日より、暇を見ては彼女の素性を調べていた。
あれだけの遣い手が在野で埋もれているだけなのはどう考えてもおかしい。今までに様々なタイプの腕利きを見てきたが、髪の毛一本のレベルで絶妙加減な暴力を提供する殺し屋は見た事が無かった。
同業者で、連帯や連携の有る後ろ暗い人間に【トカレフの聡美】について質問すると皆が皆、意外そうな顔をしていた。
「【トカレフの聡美】が帰ってきたのか」
「まだ殺し屋をしていたのか」
「何処かの組織の犬になったんじゃなかったのか?」
「相変わらず残酷な仕事振りじゃなかったか?」
などだ。
業界では嘗ての伝説を作った人間らしいが、それ以上深く詳しいことは分からなかった。
同業者どころか、闇社会の人間に浅く広く聴いても同じ反応だった。懇意にしてもらっている斡旋業の手配師にこう言われた。
「情報屋を使ってまで詮索はするな。『お前がヤバイところに居る』」
そうアドバイスされてからは更に彼女へのかかわりを断つように自分に言い聞かせた。
触れてはいけない物は何処の世界の、何処の界隈にも存在するのだと肝が冷えた。それがまるでダイナマイトと添い寝をしていたと後になって気がついた感覚に似ており、一歩間違えれば死んでいた恐怖に震えた。
自殺願望は有るが、望む自殺ではなく、突然訪れる意識していない死亡には興味も憧れも無い。
そのような積極的な自殺願望の持ち主である麻衣子は、界隈では災害扱いされているような腕利きに邪魔だからと無為に殺されなかった幸運に感謝した。
災害扱い……【トカレフの聡美】が絡む、データで確認できる数少ない案件は、どれもこれも一方的な殺戮を撒き散らして塵芥ほどの姿形も残さずに消え去る現場ばかりで、彼女への依頼どころか、彼女を雇う窓口を探すだけで殺人が起きるとされるほどだった。
その彼女がなぜ殺し屋業界の辺鄙な案件にふらりとやってきたのかは全くの不明だった。
彼女は強大な組織の庇護の下、自分の活動の記録を隠蔽する工作に余念が無いらしい。
だとすればその意図も真意も全く不明で、一山幾らの鉄砲玉の案件で何故態々、出張ってきたのかますます分からない。
麻衣子の心の中では、そんな大物とはもう二度と出会うことは無いだろうと勝手に諦観した。
シガーアシュトレイに置いたマニラ巻きの白い灰が静かに折れた。ノートパソコンを閉じて1時間は中空を気だるい眼で見つめながら【トカレフの聡美】に心を砕いたことになる。
詮索はよくない。無駄に寿命を縮める。
そうは分かっていても何故か彼女に心が惹かれる。
ちらりとデスクの端に視線を向ける。1000円均一で買った小さな四角いガラスの灰皿に、あの夜唇に差し込まれたドライシガーの吸い差しが置かれている。
その吸い差しの為に態々灰皿を買った。
気がつけば、暇が有れば、片手間に、彼女がいつも心の隅に居た。
これがカリスマ性というものなのだろう。
麻衣子は毎回、そうして曖昧な問答にけりをつける。
だのに彼女の為に脳内のタスクの片隅が割かれてしまう。……彼女はそれだけ不思議な女性だった。
一番寛げる部屋で、一番暇な時間の午前11時。
マニラ巻きの煙と戯れながら思索を廻らせる意味の無い時間は疲労気味の脳内をメンテナンスする重要な時間だった。麻衣子にとっての瞑想とも言えた。
※ ※ ※
梅雨明けも近いと云う予報が聞こえ始めた。
早くからっとした夏を迎えてこの湿度とは決別したい。尤も最近の夏は殺人的な暑さが続き、今年も日本の何処かで観測史上最高の気温を弾き出すだろう。
夏になればなったで、拳銃を懐に呑む稼業の人間としては悩ましい季節だ。脇や腰に差した拳銃が露出し易いので上着を羽織るのだが、生地が薄い上に風でめくれ易く、暑いので熱中症対策も欠かせない。
知り合いの拳銃遣いは早々に諦めて、バッグやウエストポーチでの携行を今年も行うらしい。
バッグ類だと咄嗟の抜き撃ちが出来ないので、麻衣子としては今年も暑さを堪えて薄い生地のパーカーを羽織り、ファスナーを半分ほど締める予定だ。
暑い季節は上着がワンパターンになるので、路行く人に意外と印象に残る機会が多いのも悩みどころ。
今夜は幸い涼しい。
雨が上がったばかりで足元は水溜りばかりで靴に水が滲みて顔を顰める。
ジトジトとした湿度は相変わらず。僅かに吹く風が冷たい。体感温度が誤差を感じる。
仕事用の黒尽くめ。パーカーにカーゴパンツ。いつもの衣装。薄利多売で何処の店のワゴンセールでも見かけそうなデザイン。特徴が無い。ワンポイントのデザインすら無い。
深夜2時。
市内港湾部に廃棄されて岸壁で浮いているだけの砂利運搬船。電気系統は勝手に持ち込んだ発電機で何とか稼動しているらしい。
船内での銃撃戦が充分に予想される。多少の不自由は覚悟して、予め耳栓で鼓膜を保護する。狭苦しく開放される窓が無い船内では発砲音で鼓膜が破れる事が有る。鼓膜が破れなくとも聴覚に障害が残る可能性も高い。今回は割りと本気でサプレッサーを用意しようかと考えたくらいだ。
深夜2時。
左手首のダイバーウォッチが正しければ、早く睡眠導入剤を飲んで就寝したい時間帯だ。
天候は曇り。月も星も見えない。海上の風が強くとも雲を晴らすほど強力ではなかった。潮と錆の匂いが鼻の奥をつく。
標的と目標は、ボストンバッグ一杯分のコカインを抱いて逃走中のヤクザ。
組織を裏切り外国のマフィアに身売りする為に『倉庫』の麻薬に手を出したまではいいが、頼りにしていた外国マフィアに僅かな差で警察の手入れが入り、1人のヤクザに構っていられなくなった。
そして逃走。その逃走先を突き止めたが、ヤクザの上層部としては形跡を残したくないのでコロシを外注した。