セロトニンを1ショット

 背後の壁にはミシンで縫ったような弾痕が残されており、その何れもが自分に当たっていない幸運に感謝し、同時に背中を羽で撫でられるような快感を得る。
 あの無駄な銃弾のどれもこれもが、たった1発で自分を絶命足らしめると考えると、この瞬間を生きている価値を推し量ってしまう。
 生きていると何度も心の中で叫びながら、緩みかける頬を引き締めてミニウージーを右手に持ってドアのほうへ走り、左手のリップミラーで廊下の左右を確認する。
 銃声が聞こえる。2階の兵力が全く階下へと向かってこないのが不思議だった。
 【トカレフの聡美】なる人物が善戦を広げているのだろう。彼女が仕留められたのなら全ての戦力が1階へと集結するはずだからだ。
 残る1室へと向かう。
「この!」
 唐突に部屋開け広げられたドアの向こうから、脇差を振り翳した青年が雄叫びを挙げて斬りかかって来た。
 ミニウージーを翳す。発砲している暇は無かった。距離も詰められすぎていて銃火器では明らかに不利な至近距離。
 黒いジャージ姿に金髪に染めた青年はまだニキビが小さく残る年齢だった。二十歳前後だろう。その若さだけに頼った剣戟は激しく、ミニウージーがたちどころに瑕だらけになる。
 脇差を受け止める度に火花が散る。
 脇差の刃が零れるの構わずに振るう。特に訓練された様子は無い。然し、勢いは激しく、右手だけで保持したミニウージーが脇差との衝撃に弾き飛ばされそうだ。
 過去に刀を使う殺し屋と仕事を共にする機会があった。その刀使いは狭い空間では相手を柄の中や鍔元で、先ず相手を弾き飛ばし、その間に左小脇に退いた刀身を槍を突き出すようなモーションで繰り出して、切っ先を標的の鳩尾や喉に突き刺していた。
 それと比べると素人でしかない青年の顔色には、恐怖と殺意が混じった凄惨で悲壮な雰囲気が混じっていた。
――――押される!
――――拙い!
 麻衣子は圧倒せんばかりの青年の気迫に素直に負けを認めた。
 一歩、退く。
 そしてミニウージーを青年に投げつけながら更に二歩、素早く退く。ミニウージーを右手に携えていなければ右手は脇差の一振りで切り落とされていただろう。
 武器と云うより防御として役に立ったミニウージーに執着は無い。左手を逆手に捻り腹のベルトに差していたノリンコT―NCT90のグリップを握り、引き抜く。
「早い!」
 思わず声に出る。
 青年は折角麻衣子が稼いだ3歩分のアドバンテージを一気に詰めた。
 『殴り合いの喧嘩慣れ』に多い軸足の踏み方だ。
 上半身の下半身の連携が抜群の青年。
 呼吸が聞こえる。整った、規則正しい呼吸。
 麻衣子の身体能力と年齢では、既に過去のものになっている若々しい息吹。
 ノリンコT―NCT90を左手に突き出せない。突き出して発砲しようとすれば確実に切り落とされる。このままジリジリと後退させられてしまう。
 気迫が拳になって殴られているようだ。
 脇差の振り下ろす回数が増える。左手の親指は既にセフティをカットしている。
 右腰の辺りにノリンコT―NCT90を構えて発砲の機会を窺う。残弾は記憶が薄い……発砲回数を数え忘れた。普通なら直ぐに新しい弾倉と交換して脳内のカウンターをリセットするのだが、その機会すら与えてくれない切っ先がパーカーの裾を掠る。
 掠った気配すら感じさせずにスパッと切断面が現れる。
 その辺のヤクザが短ドスを風車のように振り回しているのとは違う恐ろしさ。
 ヤクザの振り回す短ドスは素人過ぎて筋が読めない恐ろしさが有るが、青年の脇差は狭い空間での剣戟を想定した得物で、度胸が据わった勢いで押してくるので素人であっても此方の僅かな隙も突き崩すだろう。
 たった一点の弱みを見せると、そこを徹底的に攻め立てる。今正に、ノリンコT―NCT90の銃口が定め難いと云う弱みを握られて麻衣子は苦戦している。
 左右にステップする青年の軸足に気付く。
 脇差の筋が、体を中心に左右へと振っているのではなく、体を左右に小刻みに移動させて脇差の刃を左右から振り下ろしているのに気がつく。
 麻衣子は鼻先を滑る白刃から早く逃れたい一心で、ノリンコT―NCT90を発砲する。
 銃口の先は青年の胴体では無い。青年の足元だ。命中しなくてもいい。たった1発でよかった。……それで形勢逆転を迎えた。
「うおっ!」
 青年は大袈裟に後ろに飛び退いた。
「!」
 青年の顔に嵌められたと云う驚きの表情が有る。
 ノリンコT―NCT90は再び吼えた。
 今度は青年の腹部と胸部に1発ずつ。
 麻衣子は青年が喧嘩慣れしている体捌きから、ボクサーのようにフットワークを活かしている事に気がついたのだ。だからノリンコT―NCT90の銃口が定まらなかった。……否、定めさせてもらえなかった。
 それを崩すには、彼の間合いや呼吸やリズムを一度に一瞬で崩壊させる必要が有った。だから、癇癪玉を鳴らすのと同じ要領で、無為な発砲を放ち、彼の間合いと呼吸とリズムに隙を捻じ込んだ。
 青年が銃撃戦の鉄火場に慣れていたのであれば、この効果は薄かったのかもしれない。
 間一髪とそれに打って出た博打。
 僅かな見込み違いが、即絶命に繋がる危険を多く孕んでいた。この場を辛うじて勝利して生き残った心地よさに脳味噌が蕩ける。
 視界が霞むほどに心が高揚する。
 目の前で虫の息になりながら血溜まりを広げる青年の姿を見るとその昂ぶりは加速する。直ぐに自慰に浸りたい自分を現実に引き摺り戻したのは2階からの慌しい足音だった。
「!」
――――いけない!
――――後ろを取られた!
 2階へと通じる階段の踊り場から、数人の男が顔や衣服に血飛沫を浴びながら青い、恐怖を貼り付けた形相で降りてくる。
 エレベーターを使う余裕も無い何かが起きたのか?
 咄嗟に麻衣子は距離を詰められつつある男達の集団――目算で6人以上――にノリンコT―NCT90の銃口を向ける。
「?」
 男達はこけつまろびつ、ホールドオープンした自動拳銃を握って、目の前の麻衣子が見えていないかのように麻衣子の脇をすり抜けていく。麻衣子がノリンコT―NCT90の銃口を向けていても恐怖や知覚すらしていない。……まるで、麻衣子がそこに立っているのが見えていないようだ。
 何が有った? と小首を傾げながら階段を駆け上がる。
 2階3階と昇る度に鉄錆と硝煙の咽返る不快極まりない空気の濃度が上昇する。
 更に混じる異質な香り。
 コニャックフレーバーの紫煙。
 吐き気を催す異臭が席捲する最上階。
 4階。辺り一面が死体で埋め尽くされて廊下はペンキを零したように隙間無く血の海だった。
 死体を踏みつけながら【トカレフの聡美】は右手にロングマガジンを差したトカレフを提げ、左手のジッポーで口に銜えた短い着香ドライシガーの先端を炙りながら深く一服している。
 【トカレフの聡美】の横顔には感情が無かった。
 無機質でマシーンのような冷血な顔ではなく、元から、此処では何も無く自分は何もしていなくて、やる事が無いからドライシガーを吸っていました、と云う飄々とした雰囲気を僅かに湛えた表情。何度見ても顔よりも体から溢れ出る印象が多くを語る人物だ……。
「お。終わったね。さあ、帰ろう」
 【トカレフの聡美】は麻衣子に気がつくと、麻衣子の居る下階へ降りる階段へと近付き、自然な動作で口に銜えていたフィリーズの図太いドライシガーを指に挟むとそれを唇から離し、呆気にとられている麻衣子の唇にそっと差し込んだ。
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