細い路に視える星
※ ※ ※
琴美は『代行業』と云う名の殺し屋を営んでいる。
殺し屋に頼むほどの強い意志が宿った依頼人の想いを相手に銃弾で伝える、意思疎通の代行を行っているだけと云う認識だ。
殺し屋と云う呼称には抵抗が有った。世間では『代行業』だろうが殺し屋だろうが扱いは同じだ。
彼女なりの視点の違いでしかない。視点が違うと不思議とモチベーションにまで影響を与えてしまい仕事に対して無気力に陥る。
綺麗事を並べる訳ではない。
人の命を絶つのが仕事。
その一点だけは何が起きても変わらない。
殺しをしない殺し屋はただの暴力でしかない。殺すに到るまでのプロセスに人間の心の在り様を無碍にしたくない一心だ。殺して金を貰う浅ましい仕事。
然し、自分と云う致死の道具は人の感情が働かなければ必要とされない。需要と供給が成り立った上での感情論だ。
自分を過大評価しているわけでもない。
彼女の感情の変動として殺し屋と呼ばれるのが生理的に受け付けない。その根源は何かと解析した結果、殺し屋の仕事は依頼人の想い――主に怨恨――が強く託されてそれを死と云う形で提供する。
立派な『メディア』だとする考えに到った。
概念だけの『メディア』。
琴美独りの世界でしか通用しないルールと定義。
その上で……彼女が何と名乗ろうが世間では殺し屋としか呼ばなかった。
数日前に琴美は夜の高層マンションで1人の男を殺害した。
脳幹を確実に砕いた。頭蓋を開いて確認するまでも無く即死だった。その事件を報じる朝刊の地方版。特に深い感慨は抱かずに新聞をテーブルに置く。
深い感慨を込めた銃弾は被害者の脳内でマッシュルーミングを起こして残留している。仕事の度に依頼人の熱く強い思いを背負っていたらストレスに晒されて直ぐに潰れてしまう。
いやはや、殺し屋……『代行業』は高度な技術職だ。
瞬間的に心を切り替える手段や方法や心理的マントラを修得していなければ、殺害した事実にいつまでも囚われてしまい心の病に罹患する。今までに『成功しなかった殺し屋』の殆どの原因は、メンタルの管理不行き届きだった。
今現在、飄々と生きている殺し屋や暴力を生業とする人間で心の底から殺傷を愉しんでいる人間は少ない。殆どの殺し屋は静かに慎ましく自己の鍛錬を欠かさずに日陰で生きている。
ストレスが襲い掛からない環境は無い。
若しかすれば『代行業』と云う看板を掲げる、深層心理の底部に存在する理由は『殺し屋だと自認すれば心身に大きな負荷がかかる為に代行業と云う職業をでっち上げて逃避を計っているのではないか?』とさえ思う。
恐らくそれは正解に近いだろう。
それを否定する気も肯定する気も無い。自分の心が……意識の所在を求める自分自身が見つけた答えだとすれば従うほかに無い。
その根底にまで疑念を向けるのであれば、『代行業』を辞め拳銃を捨てて哲学者に転職するか寺に入門するしかない。
金が欲しくて何も考えずに始めた稼業だが……人の命を奪うと云う重荷に潰されるかと思ったのに『違う方向からの圧力』に振り回されて『代行業』なる看板を掲げる始末。
人の想いを伝える事に意義を見つけても人の心の重さは大した事が無かった。
人の心の重さは琴美にとっては引き金の重さだった。自分は唯の『死を運ぶ為の道具でしかない』と認識している。致死させる行為自体に深い詮索や感情は不要であるといつも鼓膜の内側で誰かが囁く。
午前11時。
紺色のジャージの上下に身を包んで、指先が分かれた軍足を履いた琴美は3LDKのハイツの一室で物憂げに窓の外見ていた。
手元には先ほどまで読んでいた新聞の朝刊。
窓の外は曇天。泣き出しそうで泣き出さない中途半端な天候。時折日が差すので尚更はっきりとしない。ベランダに干した洗濯物も中々乾かない。
自宅、ハイツ。駅から15分。家賃は8万円。1人暮らしとしては充分な広さ。
キッチンへ向かうとコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる準備をしてスイッチオン。3分ほどで熱いコーヒーが出来上がる。
それまでガスコンロの上部に設置されている換気扇を稼動させてジャージのポケットから黄色い紙箱を取り出して更にその中から直方体の細長い、白い紙に包まれたチョコレート菓子のような棒を取り出す。
黄色い紙箱。中身は紙に包まれた四角い断面のドライシガー。ビリガーエクスポート。
口に銜えるのに適した太さと長さの直方体で、元は軍隊のレーションに同封する際にパッキングしても形が潰れないようにと四角くプレスされたドライシガーだ。
シガーカッターは不要。直方体で前後共にカット済みでどちらからでも吸える。どちらに火を点けても構わない。実に特徴的なドライシガーを琴美は愛飲していた。
ペンを弄ぶように無造作に左手の指先でビリガーエクスポートを一回転させて小さく整った唇に運んで銜える。
葉巻を巻いていた商品名のロゴが入った白い保護紙を左手で丸めてゴミ箱に投擲。その後左手は手品のように使い捨てライターを取り出して口に銜えたビリガーエクスポートの先端を炙る。
天井をアンニュイに眺めながら口中で転がした紫煙をゆっくりと静かに吐く。
インドネシア葉にハバナ葉がブレンドされているので深くて独特の甘さが口腔に残る。千円以下で買える5本1パックのドライシガーとしては間違いなく及第点をクリアしている喫味。
ビリガーエクスポートを横銜えにしたままコーヒーメーカーのコーヒーをマグカップに淹れる。コーヒーに深い拘りは無い。酸味が少し深く、あっさりしたコクであれば尚良しと考えている。
尤も、パッケージに表記されている指標と自分の味覚が一致することなど滅多に無い。気に入った味の銘柄を見つけても直ぐに発売終了になる。
葉巻とコーヒーは産出される国の情勢が不安定な場合が多いから直ぐに販売終了となる。巨大資本が梃子入れしても挽回できない情勢と云うのは新聞やテレビで報道されていないだけで常に世界中で勃発している。
ビリガーエクスポートはスイスで製造されている葉巻だが、原材料の供給がストップすると容赦無くディスコンとなるのは目に見えている。自分のお気に入りが消えるのを憂鬱に思わないシガースモーカーは存在しないだろう。
ビリガーエクスポートとマグカップを交互に口に運びながら今朝に見た依頼の内容を思い出して脳内でリストを作る。
吐き出した煙はガスコンロの真上に設置された換気扇が吸い上げて排煙する。
現在の依頼は10件近い。
全ての依頼をこなせる訳ではない。
この世界にも見積は有る。依頼人が見積を要求する場合もあるし、依頼内容を精査して履行可能か否かを判断する場合も有る。
その2つが一致して初めて契約となる。
お互い、相手の背後関係を探らずにダボハゼの如く依頼を引き受ける例は聞いた事が無い。否、聞いた事は僅かに有るが、その例を作った殺し屋は早々に『消えている』。
脳内で次々とリストが作成され更新される。
どれもこれも危険が付き纏う。
殺すだけなら簡単だが、目撃されたり証拠の消し忘れも命取りだ。殺し屋の殺し屋は暴力とは限らない。