細い路に視える星

 正面。玄関。
 ハンドタオル越しにドアノブに手を掛けて捻る。
 『予想通りに』鍵は開いている。
 これはこの建物に潜む標的の意思の表れだ。……この建物の内部で必ずお前を迎撃するぞ、と云う。
 頭の中を様々な『方法』がグルグルと廻る。
 ナイフを遣うかサプレッサーを使うかガスを使うか……。
 標的の殺し屋は自分が標的になっている事を知っている。今夜、琴美が遣ってくる事も知っていた。
 琴美も然り、今夜想いを伝えに行く旨を匂わせる行動を消さなかった。
 名の有る殺し屋相手に韜晦や欺瞞は無駄だ。
 自分だけの情報網を張り巡らせているのなら尚更だ。
 勝負は一瞬だろう。
 此方の引き金が早いか、標的のコロシの技が早いか。
 鶴矢正志(つるや まさし)。38歳。
 ナイフから狙撃銃まで何でもこなす珍しい殺し屋だ。
 この業界で長生きしている殺し屋にしては珍しく、特定の手段や技法、技術を持たないオールラウンダー。相手の命を奪う為ならその状況で一番相応しい手を使う。
 玄関から上がる。
「…………」
 一歩、足を小上がりにかけようとしたところで、琴美はその足を戻して靴を脱いで廊下のマットを軽く踏んだ。
「……」
――――でしょうね……。
 足裏から違和感。
 廊下に敷かれたマットに軽い抵抗。何かしらの圧力感知装置が働く。否、その装置を作動させてしまった感触を覚える。靴を履いたままならその感触も足裏に伝わらなかった。
 即座に警報や爆発、ガスの発生は無かった。
 どこかに潜む標的に報せるために設置された物だろう。大した脅威ではない。これくらいの警報装置は計算の内だ。
 煌々と明るい住居内部。
 事前の情報では間取りは5LDK。2階建て。1階に2室とLDK。2階は3室とトイレ。サラリーマンを隠れ蓑にする独り暮らしにしては少しばかり豪勢な造りだった。
 家屋内部は完全に洋風。フローリングの床は剥き出し。息を殺してノリンコT―M1911A1を左半身のウィーバースタンスで構えて進む。
 腰のポーチに予備弾倉を2本忍ばせただけだ。相手を見縊ってのことではない。自分も相手も多数の手数手業を弄してコロシを披露するとは思えなかったからだ。相手や状況に応じて予備弾倉を揃えるのも殺し屋……『代行業』の腕の見せ所だった。
 その状況で必要な銃を必要なだけ揃えて必要なだけ発砲し、必要なだけの所作を臭わせる。戦場に行くのではない。錘や足手まといは少ない方が良いのは明白。
 偶々、琴美はノリンコT―M1911A1しか心情と信条の上でしか使えない人間だったので大型軍用自動拳銃の民生向けを手にしている。 この業界には不器用な人間が多い。
 理想の殺し屋として在るべき姿を悟っているのに、自分にはそのような生き方は出来ないと自ら可能性を封じて、たった一つのコロシの方法に固執する人間が圧倒的に多い。
 それを鑑みればオールラウンダーで売る殺し屋の鶴矢は強敵だった。 想いの伝え甲斐が有る標的だった。
 邸宅内部の電灯を全て点灯させ、廊下のマットに感圧式センサーを仕掛ける……。
 真正面から始末しに来ると覚悟が出来ている人間だ。覚悟した人間の勝率は計算では弾き出せない。
 そして一方で鶴矢は旧いタイプの殺し屋と言えた。
 自分が殺されると云うリスクを悟っていながら情報網を駆使して依頼を引き受けた殺し屋と接触して『示談』で命を繋ごうとしない。自分が人を殺しているのだから、自分も人から殺される覚悟が出来上がった人間でも、こんなに頑なな思考をした殺し屋は今では珍しい。
 廊下を足音を殺して歩き、リビング、ダイニング、キッチンと確認する。
 銃口を左右に忙しなく、然し、静かに振る。
 気配が無いのか気配を消しているのか。
 見落としたのか見落としているのか。
 どちらにしても自分の眼と直感を信じなければ次の瞬間には絶命している……そんな激しい緊張感に空間が支配される。
 一歩歩くごとに寿命が削れている錯覚さえ感じる。背中と首筋が特に冷たい。室内はエアコンが効いて程好い暖かさ。背中と腰に貼った使い捨てカイロが早くも不要に感じている。
 その使い捨てカイロの暖かさを無視し、背骨頚骨腰骨を一直線に緊張が原因の冷たさが走るのだから人間の神経は好い加減に出来ている。それとも精密に出来ているが故の誤作動なのか。
 喉が渇く。空気が乾燥しているからだろう。
 キッチンへ差し掛かった折に、冷蔵庫を開けたり水道の蛇口を捻って水を求めたがったが唾を飲んで我慢。冷蔵庫を開けた途端に爆発したり、水道の蛇口付近に猛毒が仕込まれている可能性が充分に有ったからだ。
 耳鳴りが五月蝿い。聞こえる物は心拍と耳鳴り。そして自分の呼吸。偶にハーフコートの衣擦れ。
 静か過ぎる。
 不気味。
 無。
 気配を消しているのは承知。
 気配の消し方が尋常ではない。
 この場に居ないどころかこの建物内部に『存在しない』ような静謐。
 生活臭だらけ。
 この時の為に……邸宅が襲撃される事を前提に振り撒かれた生活臭ではないかと疑う。
 放り出された新聞紙。予約録画が作動中のHDDレコーダー。棚に置かれた爪切り。食器洗い機の横に置かれた水切り棚と1人分の食器。それに一足のスリッパ。造花の一輪挿しが電話の子機の隣に置かれている。今さっきまで此処で人間が寛いでいた痕跡。或いは痕跡を演出している。
 肌が白熱灯の熱を浴びせられているように灼熱する。だのに背中を伝う氷のような冷たさ。
 静寂。静謐。
 只管、静か。
 これならばまだ、背後の角から突然標的が現れて拳銃を突きつけてズドンと発砲された方がマシだ。
 緊張の糸が張り詰めて一層耳鳴りが五月蝿い。呼吸が浅くなる。交感神経が優位に働きすぎて鳩尾に不快感を覚える。
 ノリンコT―M1911A1がコンクリが詰まった一斗缶のように重く感じる。
 人差し指が軽く麻痺。
 末端の組織は自律神経の影響を受け易い。今のように交感神経と副交感神経の切り替えが強制的に行われるとアドレナリンが過剰に分泌されて熱い鉛を飲み込んだような不快感に襲われる。
 1階の索敵が終わろうとしていた。トイレもバスルームも他の2室も確認が終わった。2階へと歩みを進めようと階段の遮蔽からコンパクトを翳して上階を確認しようとした。
「!」
 コンパクトが映す反転した世界に彼は居た。
 彼はそこに居た。
 そこに……そんな所に居た。
 鶴矢が『天井に張り付いていた』。
 振り向く。
 否、左手のコンパクトを捨てて『左肘下を頭上に翳し、右肘を引きながら天井に向かって1発、引き金を引く』。
 鶴矢は……廊下の天井で口に匕首を横銜えにして四肢を、実際に可能だが、普通は出来ない方向に、柔軟に関節を可動させて突っ張って、廊下の天井に張り付いていたのだ。
 その体勢のまま廊下の天井伝いにクモのように移動していたのだろう。埃一つ落とさず、彼は……鶴矢は四肢を張って天井と壁の継ぎ目に掌と足裏を密着させていた。
 静か。生活臭が有る。先ほどまで此処に人が居たような違和感。
 それが全て氷解。
 全て氷解した瞬間と、鶴矢が廊下に落下する時刻は同時だった。
「…………」
 喉仏に45口径の風穴を作って絶命している鶴矢。
 白眼を剥き、長い舌をダラリと口から這わせている。その傍に脂で刃が濁った匕首。
 喉仏から鮮血を拍動と同じリズムで放出していたが、やがてそれも止まる。心臓が停止したのだ。
 銃声は辺りの民家にも聞こえた筈だ。それでも動けなかった。理性は逃げろと叫んでいた。理性とは別の感情が琴美を襲う。
 恐怖だ。溢れ返らんばかりの恐怖だ。
 全身タイツを思わせる灰色のダイビングスーツ姿の鶴矢の死体。
 自分の届けるべき想いを圧倒する想いの前になす術も無く、今頃怯んでしまった。
 確実に鶴矢の想いは届いた。
 肝の芯まで冷えるほどに。
 そのトリッキーな登場に驚いたのではない。これだけの至近距離で居ながらにして全くの呼吸音すら聞こえないストーキングに畏怖したのではない。
 殺意と敵意だけが『死体から立ち昇っている』様が恐ろしかった。
 頭部に弾倉10本分の弾丸を叩き込んでも、質の悪いゾンビ映画の如く立ち上がるのではないかと云う恐怖に心が塗り替えられる。
 こんな無様な撤退は初めてだった。
 勝ったのに、依頼を遂行したのに、想いを確かに届けたのに敗北以上の敗北に覆い尽くされて、小便を漏らす一歩手前の足取りで廊下を走る。
 その時に吐き出した空薬莢を踏みつけて慌てて回収し、捜査撹乱の為に見ず知らずの人間が世界の何処かで撃った45口径の空薬莢を一個、落とした。
 そこまでは辛うじて記憶に有る。
 後はどの退路のルートで自宅まで戻ってきたのか記憶が曖昧だった。
   ※ ※ ※
 最高最良のリハビリを経験した夜から1週間。
 胸骨と肋骨の皹は完治し、衰え始めた筋肉を耕す筋トレとジョギングで体力を取り戻す。
 たんぱく質と炭水化物基準の高カロリーな栄養を摂取し、それを一日で消費するだけの知的体力的活動――射撃の訓練。情報収集等――で体調を整える。
 鶴矢と云う男は鈍りを見せかけていた『代行業』の矜持に好い刺激を与えた。その証拠に、琴美はもう二度とあのような怪物と出会いたくないと願っている。
 殺し屋ほどメンタルの環境と験担ぎに繊細で神経質になる人種は居ない。
 琴美もストレスのケアやメンタルのトレーニングは怠らないし、古来より日本では縁起が悪いとされる習慣行わない。
 具体的には呼吸法と瞑想をし、初詣には参り、夜中に爪を切らない。覚悟した人間の勝率は計算では弾き出せない。
 それは此方も標的も同じ。
 故に万全を尽くした上で尚、神仏の力をも引き寄せるしか無い。
 普段の行いが左右すると云う、迷信と紙一重の験担ぎすら武器として会得したい感情の表れだ。『今回の仕事で人生最高の想いの配達が出来るのなら死んでも構わない』……そう思いながら仕事に臨む。然し、本当に死んでしまっては無意味。
 午前10時半を経過。
 壁掛けの簡素なデザインのアナログ時計が確かにそれを告げていた。
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